修士論文は絶対に書かなければいけないものではない

修士論文、進んでいますか?

新学期になりました。新・修士2年生は修論にいよいよ本格的に取り組み始める頃だと思います。

ただ中には、論文の方向性がまだよく定まっていないひともいるのではないでしょうか?特に、博士課程に進学して研究者になりたいと最初から考えていたというよりも、むしろ、就職するまでの2年間で研究に向いているかどうか確かめるつもりで修士課程に進学したひとの場合、次第に自分が研究者の道に向いていないと感じ始めるのは珍しいことではありません。

修士課程を卒業して就職しようと考えているひとにとって、修士課程の2年目は、ある種の居心地悪さを覚えることが機会が多くなるはずです。就職活動を始めると、博士課程に進学しようとゴリゴリ研究を進めている同期と比べて、研究のレベルがどうしても劣ってきてしまいます。そのことに対して引け目や劣等感を感じるかもしれません。

博士課程に進学しようと考えているひともそうでないひとも、研究が行き詰まり、展望が開けないと、修士論文に着手するのが次第におっくうになってくることでしょう。指導教授とそりが合わず、研究室に溶け込めていないと、研究指導を受けることも気乗りしなくなってくることでしょう。とりあえず書いてみる、というわけにも行かず、時間が経つにつれて次第にプレッシャーだけが高まってくることだと思います。


以前、次のように書きました(「とりあえず」で大学院に進学しないほうがいい理由)。

大学院以外にも勉強できる場所はあります。特に哲学の場合、働きながら勉強できないのなら、最初から哲学をそれほど必要としていなかっただけのことです。大学院だけが人生ではありません。

この直観はいまでも変わっていません。大学院だけが人生ではありません。あなたの生をスポイルするようなら、大学院を退学して別の道を歩むことを検討するべきです。

確かに、お金を払って進学したからにはギブアップしたくない気持ちも分かります。ただ、大学院の中退は、学部を中退するのとは大きく違います。大学院を中退しても、大卒であることに変わりはありません。就職する業界にもよりますが、修士号取得が条件であるような場合は限られていると言っていいはずです。


修論が書けなくても思いつめるべきではありません。むしろ、修論が書けないということをひとつのきっかけ、別の可能性へと向かう方向転換と見るべきです。

哲学は実験器具を必要とする自然科学、あるいは経験科学一般とは異なり、大学院でなくても継続することができます。むしろその点にこそ、哲学の哲学たるゆえんがあると言えるはずです。

吉本隆明的な「大衆の原像」ではありませんが、思想が一般性から試し返される機会を失ってしまえば、その思想は容易に知的遊戯、思考力自慢大会へと陥ってしまいます。哲学研究も、そうした可能性を担保している限りにおいて(というよりも、そうであるからこそ)、私たちにとって意義をもつと言うことができます。

哲学研究を止めるからといって、哲学的な言語ゲームそのものを諦めなければならない理由はありません。なぜなら、哲学研究の知見を参考にしつつ哲学的な探求を進めていくこと、しかもその探求を自分の身の回りの環境のうちで確かめ直しつつ行うことは、大学院に在籍しているかどうかに関わらず、奪うことのできない可能性として、誰にとっても開かれているからです。


大事なのは、よく生きることです。修士論文を書くことも、その目的に相関している限りにおいて、努力するに値するということができます。そうした相関性がどれだけ考え直しても実感できないのであれば、指導教授や家族、友人と相談し、これからの方向性を決め、納得した上で退学することをおすすめします。大学院の中退は決して恥ずかしいことではありません。

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