『本質がわかる哲学的思考』を出版しました

2018年4月30日、KKベストセラーズから最新刊『本質がわかる哲学的思考』(著者: 平原 卓)を出版させていただきました。

プラトン、フッサール、ニーチェ、ヘーゲルといった、力強い原理的思考を繰り広げた哲学者たちの思考をもとに、現代における善悪と自由の条件に関して、私なりに考えてみました。「結局、哲学って何が目的なの?」という疑問に答えられるものを目指して書きました。偉ぶるつもりはありません。ご笑覧いただければ嬉しいです。


本書は以下のような構成となっています。

  • 序章 哲学の方法
  • 第1章 本質の哲学――対話という方法
  • 第2章 道徳と良心――自由と善をつなぐもの
  • 第3章 共通了解――言葉と可能性

哲学の基本目的は、事柄の本質(≒意味)をよく把握することにある、と言うことができます。ここで第一に問題となるのが、そのための方法です。

目的を達成するためには、合理的な方法が必要となります。このこと自体は明白ですが、ではどのような方法が哲学では必要となるのかについて答えることは、そう簡単ではありません。というよりもむしろ、その方法を導くことが、哲学の歴史上、一つの決定的な問題として設定され、取り組まれてきました。

その方法を示すことができなければ、善や美といった人間的な意味、価値についての、誰でも受け入れられる(=普遍的な)洞察、学的な知見を深めていくことはできません。本書では、哲学のうちでどのような方法が示され、またそれによって、私たち自身がどのように考えていくことができるか、という点に関して考えました。

ここで前提とした命題は、善悪をめぐる現代の倫理の条件は、自由の意識の進展と両立するものでなければならないというものです。

私たちの自由の意識は、本質的には不可逆的に展開するものであり、善悪のあり方を立てなおすために過去の伝統や文化の「教え」を持ち出してくることは、原理的に無効である。この点を踏まえたうえで、どのような考え方を置けばよいのか、より広く誰でも受け入れられる考え方はどのようなものか、このことをまず明らかにしておくことが、順序として必要となります。

崩れたルールのなかから「処方箋」を掘り当てようとするのではなく、そもそもなぜそのルールが崩れるに至ったのか、その構造的な条件をまず明らかにする。そのうえで、自由の意識と両立するルールの普遍的な条件を取り出す。そのためには、ルールを独断するという態度から、対立を調停して、ルールを調整していくという態度へと向きなおる必要がある……。本書ではこうした仕方で、現代の善悪や可能性の条件を導くための方法について、あらためて考えなおしてみました。


書き終えてあらためて振り返ってみると、この点について深く考えていくためには、まだまだ教養が足りていない、という感想をもちました。

哲学には、意味や価値のあり方について考えるための方法があります。その原理はきちんとつかんだという感じがありますが、では私たちが具体的にどのような状況でいかなる問題に直面しそれをどのような方法で解決しようとしたのか、ということにきちんと目配りをしておかないと、ただ単に「原理を使えば対立は解決できる」と言うだけに留まってしまう。

それは確かにそうなのですが、それだけではやはり不十分。なぜかと言えば、そこでは対立の焦点となった動機が、ほとんど顧みられないからです。

誰も意味のない対立はしない。逆に言えば、自分の立場がきちんとした理由に支えられているという感度が強固であれば、対立も激しいものとなる。原理を単なるマニュアルとして示すだけでは、その感度には届きません。マニュアルを使えば問題が解けると言われたからといって、そのマニュアルを使おうとするとは限らない。「言うは易く行うは難し」というわけです。


この点を踏まえたうえで、いまはコツコツと歴史の勉強をしています。哲学の場合と同様に、『世界の歴史』シリーズをイチから読んで、レジュメを作るという仕方で進めています。また、世界史と並行して、日本史の勉強も始めました。

遠回りのように思えるかもしれませんが、歴史上私たちがどのような局面で対立し、その対立に対してどのような態度を取ってきたかについては、まさに歴史を読まなければ分かりません。

歴史の感度があるのと無いのとでは、思考の幅も大きく変わってきます。さらにより深く、よりよく考え、論じられるようになるために、継続して歴史の勉強をしていきます。