『本質学研究』第7号に文章を書きました

先日、ウェブ学術誌『本質学研究』の第7号に、「本体への欲望――否定神学の論理について」という文章を書きました。

今回の『本質学研究』は、約2年前(2017年10月)に出版された竹田青嗣の主著『欲望論』の特集号です。自分を含む弟子筋に加え、批評家の神山睦実さんや小浜逸郎さんも寄稿しています。


自分は今回、『欲望論』のなかで論じられているようで論じられていない事柄、ヨーロッパ中世哲学について着目しました。内容は、古代ビザンティン思想を代表する一人、偽アレオパギテスによる『神秘神学』の文章を検討して、元来の否定神学がどのようなものとして論じられたのかを確認するものです。

詳しくは本文を読んでいただければと思いますが、偽アレオパギテスによる否定神学の思想は、ヨーロッパ中世哲学のスコラ哲学とキリスト教神秘主義の両方に対して影響を与えました。そういうわけで、中世哲学を丸ごと批判した近代哲学――その射程は現象学、そして欲望論にまで広がってきます――の意味を明らかにするためには、中世哲学の中核をなす一つの思想である否定神学について確認することが、当然に必要となってくるはずです。

現象学の文脈では、中世思想はキリスト教のスコラ哲学として片付けられがちですが、そもそもスコラ哲学の「スコラ性」はどこにあるのか、という点をきちんと確認しておくことは、とりわけ『欲望論』の一つのテーマである「本体論の解体」という観点からも意味があるはずです。本体論の解体というけれども、解体されるべき本体論がそもそもどのようにして成立してきたのか――本体論の理由――を明確にしておかないと、議論の焦点がぼやけてしまうのでは……。そういう意識もあって、今回の文章を書きました。

竹田が否定神学という概念を出すときには、主に、批評家・東さんの『存在論的、郵便的』で論じられている、現代思想の否定神学が念頭にあるように見られます。自分の文章は、「先生、『欲望論』では過去の思想を総検討されようとしていますが、ヨーロッパの中世哲学を検討から外すのは不徹底ですよ……!」というささやかな反抗のメッセージです(笑)。その意味で、「本体への欲望」というタイトルは一見逆張りではありますが、自分は同時に、「本体論の解体」というテーマをもう一度根本から考える(つまり「本体論の生成」として)ことを提起したつもりです。


『欲望論』は、フッサールとニーチェの方法を受け継ぎ、それを発展させながら、ハイデガーとレヴィナスによる形而上学と、現代思想の否定神学(本体論)を批判すると同時に、意味と価値の原理論を展開させることを目的として書かれています。竹田としては、自分は『欲望論』で哲学の原理を一歩推し進めたはずだ、と考えていると思いますが、どうやら、本格的な批判(肯定的であれ否定的であれ)が出てこないことに多少失望しているようです。実は今回の『本質学研究』が『欲望論』特集として企画されたことにはそうした事情も一つあります。

確かに、外部から批判らしい批判が出てこないなら、内部から始めるしかありませんよね。

哲学の一つの側面として、師匠に対する弟子の批判によって進展してきたことがあります。というより、哲学はそうした原理刷新の営みとして始まりました。自分も優れた弟子になるために、師の示した洞察を推し進めるべく精進していきたいと思います。

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