ウェブ学術誌『本質学研究』が面白そう

現象学を創始したエトムント・フッサールは主著『イデーン』で、「本質学」と「事実学」という区別を置きました。学問一般は経験的な事実を探求する「事実学」と、事象の共通意味・構造についての普遍学としての「本質学」に区別され、哲学は「本質学」として展開されなければならない。それによって哲学は普遍的な洞察に基づき、私たちの生の意味を探求する学問として生かすことができるはずだ。フッサールの本質学はそうしたモチーフのもと提唱された概念です。

ただ、フッサールが行ったのは、あくまで認識の本質学であり、それに基づく本質学の一般的な展開にまでは達しませんでした(認識の本質学だけでも特筆すべき業績ではありますが)。そのため、フッサールのモチーフは、ハイデガーやメルロ=ポンティ、サルトルといった現象学=存在論の系譜と、それに対して現れてきたポストモダン思想の影に隠れ、ほとんど日の目を見ることなく現代に至ったと言うことができます。

そんな中、フッサールの意志を受け継ぎ、本質学の現代的な展開を目的とするというウェブ学術誌『本質学研究』の第1号が、今月1日(水)に公開されました。責任編集は竹田青嗣、西研の両氏で、公募論文2本を中心に、研究ノートとエッセイから構成されています。哲学者の石川輝吉さん、苫野一徳さんも寄稿しており、本文は全部で115ページと、ウェブメディアとしてはかなりの本気度がうかがえます。

公募論文は以下の2本が収録されています。

岩内論文では、現象学における「本質」と「本質主義」の意味を明らかにしたうえで、本質学を「一般本質学」と「超越論的本質学」に区別し、一切を意識の水準で辿りかえす「超越論的還元」に基づく「超越論的本質学」は本質観取を基礎とすることで、学説対立に帰着せざるをえない「一般本質学」の陥穽(落とし穴)を回避しながら、「エロス論的ディスクール」(竹田)という形を取りつつ、欲望、情動によって触発される意味と価値の本質論として、彼の概念を使えば、「相互承認の学」そして「相互主観的確証の学」として展開される可能性が提起されています。

峯尾論文では、芸術は美の顕現であるという前提が崩れた現代の状況を踏まえ、現象学的美学を代表するモーリッツ・ガイガーと新カント派西南学派(リッケルトら)の議論についての検討を軸として、感情の「アプリオリ」を「主観的普遍性」の水面で論じることで「感情のジレンマ」を解決することが美的経験の普遍性を明らかにするための条件である、という主張が、「美学の可能性」をどこに置くことができるかという根本的な問題意識のもとで提示されています。

実際のところ、現象学の「本質」概念はかなり論争を呼ぶ概念で、ポストモダン思想、構築主義や社会構成主義からは悪しき形而上学の基礎として批判されるのが一般的ですが、岩内論文では昨今の現象学者の知見を踏まえたうえで現象学的本質主義に積極的な意義を認めている点で、学術的にも評価されると思います。こうした研究の動向を見ていると、「現象学は真理主義である」「純粋意識は不可能である」とデリダの二番煎じで済ませるのは学的に不誠実とさえ思えてきます。


とりわけ文系のアカデミズムは、技術革新に後れを取りがちです。紙媒体でなければ業績としてカウントされないということも、そのことに拍車を掛けてきたと言うことができます。ただ個人的には、哲学において紙媒体の役目は実質的には終了していると考えています。というよりも、概念を道具とする哲学ほど、ウェブメディアに適している学問はないと言っていいでしょう。これは自然科学には見られない哲学の強みだと言えます。

ネットの流通可能性には、紙媒体の内に閉じられていた権威ゲームを打ち崩して、相互批評を触発し、実質的な哲学の営みを拡大していくポテンシャルがあります。そのことはカーンアカデミー(Khan Academy)のようなオンライン教育サービスがここ数年で一気に拡大してきたことからすると、ほとんど疑う余地がありません。おそらく『本質学研究』もそのような確信によって、哲学の新たな未来を切り拓くという意図のもと始められた企画だと思います。

個人的には、哲学の未来はこういうところにあるのだと考えています。書籍とネットでは読者数が圧倒的に異なります。一般に問うという意味では、現代において、ネットに勝るものはありません。同誌が一過的なものに終わらず、実質的な議論を積み重ねていく公共的なプラットフォームとして展開していくことができるかどうか、今後に期待です。

なお、外部からの投稿も受け付けるようなので、興味がある方は問い合わせてみるといいかもしれません。査読付き論文の投稿先を探している方はもちろん、哲学を他の学問の基礎として生かしてみたいとか、哲学に可能性があるかもしれないと考えている方の投稿も受け付けてくれるはずです(もしかするとエッセイ、あるいは研究ノート扱いになるかもしれませんが)。