社会問題に“価値自由に”取り組む

ヴェーバー
ヴェーバー

現代社会にはさまざまな問題があります。先進国と発展途上国との経済的な格差といった世界的な問題から、原発などの国内問題など、私たちの目の前には何とかして解決しなければならない社会問題が山積みとなっています。

ここではドイツの社会学者マックス・ヴェーバーが示した「価値自由」の概念をもとに、そうした社会問題の解決に取り組む際の規準となる考え方について、ひとつの提案をしてみたいと思います。

価値自由は、『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』で提唱されました。詳しくは解説記事に回して、ここでは関係のあるポイントを簡単に取り出してみることにします。

もし本気で社会問題を解決したいなら、価値自由はぜひとも身につけておいてほしい考え方です。特にこれからNGOやNPOで社会問題の解決に取り組もうとしているひと、現に取り組んでいるひと、もしくは社会起業をしようとしているひとにとって、価値自由の感度が備わっているかどうかは最終的にプロジェクトの成否をも左右しかねない重要なポイントです。価値自由の感度が欠けていることは致命傷になりかねません、本当に。

「価値自由」って?

価値自由の概念のポイントは、おおよそ次のようなものです。

  • 「問題そのもの」はない
  • 何が問題なのかは価値理念によって定まる
  • 事実認識に価値理念を混ぜ込んではいけない

ものすごく簡単にまとめると、価値自由とは「心は熱く、頭はクールに!」ということです。

言葉の響きだけだと「なに変なこだわり持ってるんだよ、価値なんかに振り回されないで冷静に行こうぜ」という感じがするかもしれません。価値からの自由、のような。

ただヴェーバーは別にそう言っているわけではありません。何が大事な問題であるか分からないような学者は学者の名に値しないとさえ考えているほどです。ヴェーバーが言いたいのは、問題に対する思い入れと、その問題に関する事実認識はキッチリ分けておく必要があるということです。その意味で価値自由とは区別のことです。

「社会問題」の条件

社会問題はパソコンのモニターのように、目の前にポンと置いてあるわけではありません。手に取ることもできなければ、周りから眺めることもできません。

とはいえ、社会問題がただの幻想でしかないというのも言い過ぎです。もしそれが幻想なら、社会問題が一般に共有されることはないはずです(「みんなダマされているんだ!」と言えなくもないですが、かなり強引です)。幻想や空想と異なり、社会問題は確かな現実性をもって現れるものです。

社会学には、社会問題は「クレーム申し立て」を通じて“構成”されるものだとする考え方があります。確かにそうした側面はあるでしょう。でも私たちがその問題をまったく共有できなければ、これが問題だ!!と大声で主張されても、ただうるさいだけです。社会問題が社会問題として認識され共有されるためには、何か他の条件も必要なはずです。

そこでいくつか条件を取り出してみると、大体次のようなものがあるはずです。他にもありそうな気はしますが、これはこれで外れていないと思います。

  1. 共有可能性があること
  2. 関心や違和感、解決したいという動機
  3. 解決できるはずだという可能性の確信
声がデカければいいわけではない
声がデカければいいわけではない
  1. 社会問題は、一般に私たちが共有できることが必要です。それができない内面的な問題が社会問題となることはありません。私たちの生に共通して関わってくる問題、これを私たちは社会問題と呼んでいます。

  2. もし私たちが一切他の人に関心をもたない存在であったとしたら、たとえば自殺は社会問題になりません。その場合他人が生きようが死のうが関係ないからです(むしろ生存競争という点ではライバルが減るので、喜びさえ感じるかもしれません)。

  3. もし解決出来る可能性がどこかにあるはずだという確信がなければ、問題は運命として受け取られ、それを解決しようという選択肢はでてこないでしょう。

以上のような条件があって初めて社会問題はそれとして認識されます。共有可能性や関心、動機、そして可能性のないところに社会問題が現れることはありません。そこら辺に転がっているわけでもなければ、大声が作り出すわけでもないのです。

何が問題なのかは価値理念によって定まる

ヴェーバーの認識論はニーチェに強く影響を受けています。

ニーチェの認識論のポイントを簡単にまとめると、認識とは「~ができる!」(権力)を目がけた欲求による価値解釈だ、というものです。

単純な例を使うと、なぜお金に価値があるのかというと、それが私たちの生の可能性をどのような仕方であれ拡大してくれると確信しているからです。言い換えると、お金自体に価値が含まれているわけではありません。お金がありすぎても、それがトラブルの元となるなら悩みの種になるはずです(多分)。

ヴェーバーに言わせると、社会問題もまた価値解釈を通じて立ち現れてきます。「これが正しい」とか「これは正しくない」とする価値理念に従って着目すべき対象が定まり、私たちに対して意義あるものとして浮かびあがってくる。正しいとか正しくないという観点がなければ、問題の取り出しようがない。そうヴェーバーは考えています。

事実認識に価値理念を混ぜ込んではいけない

価値自由は事実認識に価値理念を混ぜ込むなという考え方です。そもそも私たちの認識は何らかの価値理念に相関している。だから気を抜くと事実レベルの議論に当為が口を挟んできて、事実認識が当為によって変質させられてしまうかもしれない。そうならないように自分を律することが学問の客観性を保つために必要だ。これが価値自由のポイントです。

何か「これはおかしい」という感覚があり、それを問題とみなして取り組もうとするとき、ともすれば私たちは初めの違和感に見合った事実を探し出して、これを意見の根拠としてしまいがちです。学問的なデータに頼ろうとするときは特にその傾向が強くなります。都合のいい事実をピックアップして「ほらここにもこんなデータがある」「これこそ決定的なエビデンス(証拠)だ」と、初めの感覚を補強することに向かってしまうことは決して珍しいことではありません。

しかし上で見たように、データは「真実の鏡」ではありません。データは目的に応じて設定された変数に基づく再構成を踏まえて規定されるものです。何の変数も設定しなければ、データを分析することも、何がデータであるかを規定することさえもできません(社会調査で最も大事なのは最初の目的を明確に規定できるかにかかっています)

「事実そのもの」「問題そのもの」は存在しない

心は熱く、頭はクールに!

もちろんヴェーバーは、社会問題が個人の単なる思い込みでしかないとか、でっちあげにすぎないと言いたいわけではありません。情熱を政治家の資質と見なしているヴェーバーにとって、本当に解くべき問題に情熱を傾けることはむしろ積極的に肯定すべきことです。ヴェーバーが否定しているのは、「これはおかしい」という最初の感覚を自分のうちで確かめ直すことなく、それを補強するように事実認識を行い、その認識を客観的と(無意識的であれ意識的であれ)偽ることです。

一般的に、「この社会をよりよくしたい」というのが、社会問題に取り組む際の主な動機だと思います。ただしどのような動機であれ、それは事実レベルの認識から厳密に切り離す必要があります。いくらこの世界から自殺が無くなってほしいと思っていても、より危機的な状況に見せるために自殺者数を水増しすることはできません。

理想がどれだけ高貴でも、都合のいいデータの取捨選択を正当化することはできません。

理想の正しさは他者との関係のうちで決まってくる

ヴェーバーと同じくドイツ出身の哲学者ヘーゲルは、主著のひとつ『法の哲学』で次のように言っています。

私たちは初め、自分ひとりで自分の正しさを確かめようとする。その際私たちは、相手に「これが正しい!」と訴えかけることで、自分が正しいと思っていることが誰にとっても正しいことを証明しようとする。

しかしその際、もしかすると「それはお前が正しいと思っているにすぎない」と反論されてしまうかもしれない。この反論を避けるために私たちは、「これが『万人にとっての幸福』だ!」というように、自分の目的があらゆる人びとにとっていいものであることを主張するはずだ。

確かに、何らかの社会問題を解決する活動に取り組んでいると、自分の活動は何らかの形で一般的に社会に貢献しているはずだ、という感覚が働いているはずです。NGOであれNPOであれ、活動に一般性があると信じているからこそ「自分たちの活動には社会的な意義があるはずだ」と考えるわけです。

ただし、それはヘーゲルに言わせると、まだ本当の意味での正しさに到達しているとは言えません。むしろその活動が、想定に反して独善的なものになる可能性があるのです。

私たちの意志が到達する最終的な局面は「良心」の段階だ。これは「絶対的な正しさ」が存在しないことを知りつつも、あえて自分の理想を信じる絶対的な自己確信のことを指している。

良心が確信であるということは、それが目指していたと信じていた正しさが実はただの思い込みでしかないこともありうる、ということを指している。誰にとっても正しいはずだと思っていたにもかかわらず、それが独善でしかないことがありうるのだ。この場合、良心はただの個人的な信念でしかない。

自分の目指している正しさが実際に正しいかどうかを「外側」から判定してくれるものはありません。神が信じられていた時代とは異なり、いまや正しさの「正解」は存在しません。

これは言い換えると、理想の正しさについては、ただ他者との一般的な関係のうちで決まるほかないということです。自分の信じている理想の正しさをみずから証明することはできないのです。

理想の正しさは、ただ他の人たちとの一般的な関係において確かめられるしかない

自分を犠牲にしつつ社会活動に身を捧げていると思っていればいるほど、その意義が他の人たちからに認められないと「自分たちの理想は正しいのに、何故他の人たちは分かってくれないのか」という不満が生まれてくるはずです。しかしそうした不満は不当なものです。なぜなら、ヘーゲルやヴェーバーが言っているように、理想の正しさは他の人たちの間で試されることによってしか確証することができないものだからです。

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