早稲田現象学研究会で発表しました(レジュメ発表)

5月21日(木)に早稲田大学で開催された第11回早稲田現象学研究会に参加、レジュメ発表を行いました。

発表のテーマは、オーストリア出身の社会学者アルフレット・シュッツの『社会的世界の意味構成』について詳細読解を行うというものです。今回は第1章から第2章まで読解しました。


本書でシュッツは、ベルクソンが『時間と自由』で、フッサールが『内的時間意識の現象学』で示した時間概念を踏まえ、フッサールの『論理学研究』の議論を加えて、ヴェーバーの理解社会学を深化させることを目的としています。マックス・シェーラーやモーリッツ・ガイガーといった初期現象学派と同様、知覚の精緻な分析に基づいて議論を展開しているので、ベルクソンやフッサールの議論に慣れていない状態で本書を読んでも、理解するのはかなり困難だと思います。

本書の訳題は『社会的世界の意味構成』ですが、私の観点から見ると、意味「構成」ではなく意味「構築」(あるいは意味建築)としたほうが、議論の主旨をつかみやすくなります。「構成」はあくまで超越論的態度が維持されているところで用いられる概念なので、超越論的態度を意図的に徹底しないシュッツの議論にこの概念を使うのは紛らわしい、という事情もあります。


第2章までの概要をまとめると以下のようになります。

時間は持続、流れ。そこではもろもろの原的体験が反省されないままに流れ去っていく。体をねじったり腕を動かしたりする「行動」は、普段意識されずに行われている。そこではいまだ意味は構築されていない。意味は解釈図式を通じて知覚が反省されたときに、もろもろの知覚体験から(イデア的対象として)対象化、客観化、意味化されることで成立する。したがって、何らかの目的を目がけてなされる「行為」の意味は、事後的に解釈の対象として初めて与えられる。ここで、解釈の複数性と時間性が重要となる。解釈は観点相関的なので、知覚体験している本人による解釈と他人による解釈は一致しない。また解釈は経験相関的でもあるので、経験が蓄積する以前と以後では解釈の仕方が変化する。

ヴェーバーの文脈に乗せると、私たちが行う行為は、何らかの目的・意図をもっている。というよりも、目的・意図をもっている行動のみを行為と名づけることができる。行為は対象として単位化=客観化されているが、解釈には多様性があり、一義的な意味理解は不可能。過去の行為の意味解釈についても一義性は求められない。意味問題は時間問題であること、すなわち、意味生成・意味解釈の時間的変様についてヴェーバーは見逃していた。


流れる自動ベルトコンベアー的な意識のうえで生じる諸体験を、注意作用が対象として同定する。こうした意味構築が複数の体験について並行的に生じることで、個的な意味世界が構築されている。意味構築の過程をシュッツはフッサールの概念を使って「沈殿」と呼んでいますが、イメージとしては積み上げ式。建築のメタファーを使ったのはそのためです。

意味構築のイメージ。層状に積み重ねられる体験

シュッツは第1章の末尾にて、フッサール的な現象学的還元のうちに留まるのは(つまり意識の内側に局限して議論を行うのは)あくまで意識構造を分析・記述するためであって、その作業が完了した後も引き続き超越論的な態度に留まる必要はない、私が行うのは現象学的心理学であり、「自然的態度の構成現象学」であるから、としています。

その前提に立ち、シュッツは第3章以降で、他人を先行与件として、つまりあらかじめ与えられたものとして前提したうえで議論を展開しています。他人を先行与件とするのは、さもないと社会の成立機制について語れないという確信があったからです。

確かに社会の成立機制を個的な意識分析から導くのは不可能というのはその通りです。こうした直観はシュッツに固有ではなく、ハイデガーやメルロ=ポンティ、レヴィナスも共有していました。メルロ=ポンティに、現象学的還元は還元の不完全性をあらわにするのだという象徴的な表現があります。知覚分析の徹底からは社会、身体、他者のありようは見て取れない。これはフッサールに対して向けられる批判の典型だったと言えます。

フッサール
フッサール

ただ、シュッツは、フッサールが現象学的還元を導入した理由のひとつは認識問題の解明という点にあったことを見逃していました。意識体験を可能としている実体を措定せず、意識体験を原的に与える働きをする体験として受けいれることに、学説対立の根本的な水準における解決の糸口がある。パーソンズとシュッツの論争が平行線に終わったということが、シュッツがフッサールの超越論的モチーフを見逃していたことを事後的に示しています。

他人を先行与件とするのは、そうしないと議論の展開上都合が悪いからであり、他人の存在を正当化しうる普遍的な根拠に基づいてそう論じているわけではありません。これは一種の論点先取です。特にフーコー的な「人間の終焉」のような議論に対しては全くの有効性をもちません(仮説同士の相互対立)。第3章以降では、本体論的意識(ベルクソン的持続)が他人においても存在していると臆断され、社会の意味構築がその推論にもとづいて論じられます。認識論的な普遍性という観点から見た場合、シュッツの議論の基礎の脆弱性は否めません。