[Q&A]「自然状態」って何ですか?

ホッブズやロック、ルソーなどの近代哲学者たちのいう「自然状態」って何ですか?

近代社会の原理、国家統治の正当性の原理を置くために構想された仮説です。

自然状態について論じた代表的な近代哲学者のホッブズロックルソーの3人に着目し、彼らが自然状態をどのように論じていたか、彼らの議論にどのような違いがあり、自然状態を想定することにどんな意義があるかについて書いてみたいと思います。

よくある批判

自然状態に対しては次のような批判がよく向けられます。それは「自然状態が存在したことは実証されていない」というものです。

確かにそれはその通りです。しかし自然状態の趣旨を考慮すると、こうした批判は誤解に基づいています。なぜなら自然状態とは、どのような原理に基づけば正当な国家を構想できるかという観点から置かれた、国家の正当性に関する仮説だからです。

それゆえ、吟味しなければならないのは、近代国家の正当性を論じるにあたって自然状態の仮説がどの程度の適切性を持っているかであって、それが歴史的に実証可能かどうかは本質的な問題ではありません。この点を見落とさないことが大事です。

ホッブズの場合

初めにホッブズについて見てみます。ホッブズの自然状態は、いわゆる「万人の万人に対する闘争」です。

教科書的にはおそらく次のような説明になると思います。ホッブズによれば、自然状態は「万人の万人に対する闘争」である。これを解決するために各人は権利を政治体に譲渡し、「リヴァイアサン」を作って公共の権力を打ち立てる。しかしこれは結局のところ絶対君主制を擁護することにつながった。ここにホッブズの時代的な限界がある、と。

この説明は間違っていませんが、十分でもありません。というのも重要なのは、ホッブズが歴史上ほぼ初めて、人間の本質構造の規定に基づいて、万人が(法的)人格として平等かつ自由であるような国家を構想した、という点にあるからです。

人間は平等な構造をもつ

ホッブズは『リヴァイアサン』の冒頭で次のように言っています。

私はここで次のように考えてみたい。人間は神によって造られたのではない。アダムからイブが生まれてきたのではなく、自然が人間を生み出したのだ、と。そうすると、確かに男女間に身体的・体力的な不平等はあるが、精神的な側面に関しては、むしろ平等だといえる。

いまから見るとごく当たり前ですが、キリスト教的価値観が一般的だった時代において、ホッブズのこの直観はとても画期的なものでした。特に男女で精神構造が共通しているという見方をこの時代に打ち出してきたことは、とりわけ評価に値すると思います。

ホッブズの自然状態=万人の万人に対する闘争

以上の前提に基づいて、ホッブズは次のように言います。

能力の平等は希望の平等を導く。希望の平等は、その対象が稀少であれば、それをめぐる相互不信を導く。相互不信においては、相手に倒されないためには、何らかの力をもって相手を制圧する以外にはない。自分にそうした力があることを認識していれば、人びとは互いに制圧しようとする動機をもつ。このようにして「万人の万人に対する闘争」に至るのだ。

ホッブズの自然状態=万人の万人に対する闘争

闘争と聞くと実際の戦闘状態をイメージするかもしれませんが、ホッブズいわく戦おうとする意志が示されていれば、つまり闘争の潜在的な可能性を調停するような制度が無ければ、それは闘争状態です。

そうした状況では、人びとは互いに不信感をもち、力と力が相互に牽制もしくは対立しあっている。人間以外の動物なら話は別だが、人間の場合は契約(約束)に基いてしか、こうした対立を調停することはできない。契約なしでも調停できるかもしれないが、それはせいぜい一時的でしかなく、持続的・恒常的ではない。そこで、自分たちの人格を担う個人または合議体を任命し、万人を畏怖させるような共通権力(コモン・パワー)、すなわちリヴァイアサンを打ち立てる必要がある。そうホッブズは考えました。

以上の議論を踏まえて、ホッブズは相互に等しい人格としての“市民”同士が国家を作るとする、市民社会(市民国家、といってもいいかもしれません)という視点を導入しました。そして、この時点をもって、神が国家を造ったとか、神が国王に権力を与えたのだというような言い方(王権神授説)はもはや有効性をもたなくなりました。

国家を相互に人格として平等な市民同士が作る「市民国家」と見たところにホッブズの先駆性がある

リヴァイアサンの目的は安全保障

マキャヴェリも論じていましたが、国家においては第一に暴力契機を縮減しなければなりません。何らかの暴力抑制機構がなければ、いずれにしても「万人の万人に対する闘争」に引き戻されてしまい、自由を享受するとかいう話ではなくなってしまうからです。リヴァイアサンとは、まさにこうした課題を解決しつつ、各人が自分の自由を享受できるためにはどうすればいいか、という問題に答えるものとして構想された制度です。この点にリヴァイアサンの趣旨・意義があることを見て取るのが大事だと思います。

リヴァイアサンの趣旨は、暴力契機を縮減することによって、人びとが自由を享受できるような制度を作ることにあった

『リヴァイアサン』はこちらで解説しました → ホッブズ『リヴァイアサン』を解読する

ロックの場合

次はジョン・ロックです。ロックの政治哲学論は主に『市民政府論』(統治二論、市民政府ニ論とも)で展開されています。本書でロックは「所有は労働に帰属するものである」という有名なテーゼを示しました。

ホッブズの議論と比べると、ロックのそれは原理的な強度ではかなりの程度劣っていると言わざるをえません。というのもロックは、ホッブズのように人間の本質規定に基いて議論を行うのではなく、神が人間を造ったというキリスト教の物語に全面的に依拠しつつ、みずからの議論を展開しているからです。

ロックのもうひとつの有名な著作に『人間知性論』があります。ここでロックは、認識論の立場のひとつである経験論を打ち立てました。経験論の見方からすれば、神もまた知覚経験を通じて認識されるにすぎないとするのが自然な流れですが、ロックはそう考えませんでした。その意味でロックの議論は徹底しておらず、中途半端だといっていいと思います。

ロックの自然状態=神の意志のもとで万人が平等かつ自由な状態

ロックは次のように言います。

人間はすべて創造主の作品であり、主なる神の僕であって、その命により、またその事業のため、この世に送られた。神の意志は「一切は平等であるから、他人の生命や財産を傷つけてはならない」というものであり、これがすなわち自然法である。人間は神の意志に服するものとして、神の意志に理性的に従うものとして造られた。それゆえ万人が理性的に神の意志つまり自然法に耳を傾け、他人を害さず、自由と平等を維持して共同生活を送っている状態、これが自然状態である。

ロックの自然状態=神の意志のもとで万人が平等な状態

神が人間に理性を与えたという前提に立つ以上、理性に従い、他人を傷つけずに共同生活を行うことはごく“自然”であり、他人を傷つけて自分の欲求を追求することは神に背くことであり不自然である。これは議論の構造上当然の帰結です。しかしこの言い方は、人間は造物主によって造られたというローカルなキリスト教の物語に基づいているので、普遍性を欠いてしまっています。この点で明らかにロックの議論は、ホッブズ・ルソーの議論よりも劣っていると言わざるをえません。

「人間は造物主によって互いを尊重するものとして造られた」という前提それ自体が物語的で、普遍性をもたない

『人間知性論』はこちらで解説しました → ロック『人間知性論』を解読する

ルソーの場合

ルソーは自然状態について、主に『人間不平等起原論』で論じています。本書は『社会契約論』の前提となる著作です。というのも『社会契約論』は、自然状態のままでは人間社会そのものが立ちゆかなくなったとき、自然状態に代わる社会をどのように構想すればよいか、という問題に対する解答を示そうと試みている著作だからです。その意味で両者はセットで捉えるのがいいと思います。

自然状態は原理的な「推理」

『人間不平等起原論』の冒頭で、ルソーは次のように言っています。

私は本書で、現在に生きる人間と同じ構造の人間を想定し、人間と自然の関係、そして人間同士の関係性がどのような帰結に行き着くかについて、つまり強者と弱者の区別が生まれ、弱者が強者に奉仕するようになった過程について、ひとつの仮説を立ててみたい。これこそ私が求められていることであり、私がこの論文で検討しようとしていることである。その意味で、われわれがこの主題について追求できる研究は歴史的な真理ではなく、ただ臆説的で条件的な推理だと見なさなければならない。そうした推理は、事物の真の起原を示すよりも事物の自然〔本性〕を示すのに適しているのであり、物理学者たちが毎日のように世界の生成について行なっている推理に似てもいる。

また『社会契約論』の冒頭では次のように言っています。

わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか、を調べてみたい。

ここから明らかなように、ルソーもまたホッブズと同様、みずからの議論を仮説として展開したいと考えていました。もちろんそれはルソーが歴史を知らないのでごまかしたい、スルーしたいというのではなく、そのことに方法的な優位があると確信していたからです。つまりルソーは、事実をいったん度外視して人間社会・国家についての本質構造(事物の本性)を取り出せば、ある特定の文化圏を超えて一般に妥当する国家の構想を展開することができると考えていました。こうした普遍性への志向が『人間不平等起原論』から『社会契約論』に至るルソーの議論を貫いています。

ルソーは国家の本質構造を見て取るために、あえて事実のレベルを捨象した

ルソーの自然状態=相互配慮状態

『人間不平等起源論』で、ルソーは続けて次のように論じます。

現代に生きる私たちと同じ構造の人間を想定すると、自然状態では、人間の心は平和であり、闘争状態は存在しない。人間には憐れみ(憐憫)の情が備わっているからだ。自然状態において法律や習俗の代わりとなるのはこの憐れみの情である。

ところで、人間には身体的不平等のほかに社会的不平等が存在する。前者の不平等に関しては自然に規定されるものであり、無くすことができない。それに対して、後者の不平等は政治的な不平等であって、約束に基づき合意によって定められる。では、なぜ政治的な不平等が存在するのだろうか?それは人びとが生活の知恵を身につけたからだ。

人類が発展するにつれ、自然が人間に対して力をふるうようになる。そこで人間は生活の知恵を身につけ、他の動物に対する自尊心を手に入れる。道具を発明し、私有財産をもつようになる。人びとは習俗によって結びつけられ、共同体が生まれる。そのとき人びとは私有財産を守るため、ルールを設定し、自らを虚飾するようになる。私有財産によって競争と利害対立が生まれ、平等は消滅し、不平等が現れてくる。

憐れみの情は私たちの自己愛を調整し、他人を苦しませないようにする。人びとは互いに配慮し、エゴイズムの相克は生じることはない。ホッブズによれば人間は本来大胆で、攻撃し闘争すること以外を求めない。しかし人間に自然に備わっている感情は憐れみであり、憐れみの情こそが人間にとって普遍的かつ自然な徳である。自然状態とは、この憐れみの情が支配的な状態だ。そうルソーは言います。これはホッブズの「万人の万人に対する闘争」と対比的に「相互配慮状態」と表現できるように思います。

ルソーの自然状態=相互配慮状態

もっとも、ここでのホッブズ批判はかなり微妙です。というのも私の解釈では、ホッブズは人間に闘争本能のようなものが備わっていたと考えていたというよりも、ある限られた対象を互いに欲求することがあれば、人間は相互不信に陥り、相互不信から身を守るために先手を打つに違いない、と考えていたように思えるからです。たとえば砂漠のオアシスで水が涸れてしまいそうなとき、赤の他人にすすんで水をプレゼントするでしょうか?それよりも何とかして相手を倒し、水を自分のものにしようとするはずです。

『人間不平等起原論』はこちらで解説しました → ルソー『人間不平等起原論』を解読する

不当な専制主義から正当な「共和国」へ

政治哲学者のハンナ・アーレントは『革命について』のなかで、フランス革命が自由を可能とする政治的領域を生み出すことなく失敗に終わった背景には、政治理論に「同情」(憐憫の情)を持ち込んだルソーの存在があるとする有名なルソー批判を行っています。アーレントはそこで次のように言っています。

他人の苦しみに対する最も人間的に自然な反応は同情であり、したがって同情は真の人間関係の基礎である。そうルソーは考えた。ルソーは同情を政治理論のうちで持ち込み、これをフランス革命の実践において適用したのがロベスピエールだった。

ルソーが同情を政治理論に取り入れたとすれば、それを偉大な革命的雄弁の激情をもって市場に持ちこんだのはロベスピエールであった。

しかし政治において同情は無意味であり、重要性を持つものではない。というのも同情は激しい情熱に他ならず、永続的な制度を設立することにはつながらないからだ。確かに同情は人びとの苦悩に耳を傾けはする。しかし聞き取られた苦悩は、直接的な活動、すなわち暴力による解決を求めるはずだ。同情は結局のところ、残酷に行き着くほかない。

明らかにアーレントはここでルソーをフランス革命後の恐怖政治の出発点に位置づけています。しかしこのルソー評価は、『社会契約論』の議論を考慮すると、かなり一面的なものだと言わなければなりません。確かに『人間不平等起源論』の議論だけから判断すると、ルソーが憐憫の情に満ちた自然状態へと戻るべきと考えていたかのように思えるかもしれません。

しかしルソーは、政治が自然状態に基づかなければならないとは言っていませんし、そもそもそれが可能であるとも言っていません。代わりに以下のようなプランを『社会契約論』で提示しています。

次のような状態を想定してみよう。さまざまな障害のために各個人が自然状態のうちで生き続ける条件が満たされえない段階へと人類全体が到達してしまった、と。そうなると明らかに、自然状態とは異なる生き方を選ばないかぎり人類は滅亡してしまわざるをえない。これを回避するためにはどうすればよいか。各人は協力して、互いに力を結集するしかない。その原理として私が提案するのが「社会契約」だ。

社会契約によって私たちは互いの自然的自由を放棄し、腕ずくで何かを獲得できる権利に制限をかける。そうすることで人びとは、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保障し、相互に平等となることができる。したがって社会契約によって人びとは初めて自由と平等を両立させることができるのだ。

社会契約を結んだ各人は、みずからの身体と力を共同のものとして一般意志の指導のもとに置き、国家を作り上げる。このようにして作られた国家を「共和国」と呼ぼう。

ここでルソーがアーレントの言うように国家を自然状態に基づけようとしていないことは、まったくもって明らかです。むしろルソーは、自然状態が崩れた後、どのような原理に基づいて国家を打ち立てればよいかという観点から、国家の正当性についての原理論を展開しているのです。

『社会契約論』はこちらで解説しました → ルソー『社会契約論』を解読する

原理のレベルと実際のレベルを区別すべし

社会契約に対しては、おそらく次のような疑問をもつ人がいると思います。「社会契約によって本当に自由と平等を両立させられるのか?」、と。

端的に言って、この疑問は原理のレベルと実際のレベルの混同によるものです。

ルソーにとっての問題は、文化や時代の壁を越えて正当といえるような国家の本質を示すことにありました。だからこそルソーは実際のレベルをあえて脇に置き、自然状態を想定した上で、それが立ち行かなくなったときは社会契約を結ぶほかない、と原理のレベルで論じたのです。これは正当な国家を実際に打ち立てる方法についての議論とは異なる問題です。

誤解されがちですが、ルソーもホッブズも、契約さえ結べば万事OKとは考えていません。初めに人びとが結ぶ約束は、それが守られているかどうかをチェックするような制度がなければ、必ずズルをするひとが現れてくるので持続性・実効性をもつことはできない。だから最初の合意がしっかり守られているかどうかのチェックを行わせるために、人びとは政府を設立するのだとルソーは考えました。社会契約と自由・平等を直結して、これは実現できないとするのは、かなり短絡的です。

原理のレベルと実際のレベルを混同せず、きちんと区別するのが重要

具体的には?

原理のレベルと実際のレベルを区別するとは、例えばこんな感じです。

  • 原理のレベル:投票によって一般意志が表明される
  • 実際のレベル:どのような投票制度が一般意志をうまく反映できるか?

『社会契約論』でルソーは、人びとの一般意志は投票によって表明されると論じました。これは多数決が重要だ(多数の名の下に少数の意見を無視してもよい)というのではなく、全体としての投票結果が一般意志を表しているというものです。これが原理のレベルの議論です。この原理を前提として、「では、どのような投票制度が一般意志をもっともよく反映することができるか?」という問いが現れてきます。これが実際のレベルの議論です。この2つのレベルを区別することが重要です。

投票制度のあり方については、「一票の格差」の問題とあわせて、出来るだけ早く解決しなければならない課題です。この点については歴史的・統計的な知識が大いに役立つはずです。いくらホッブズやルソーを読んでも答えが書いているわけではないので…。

ちなみに私の感じでは、投票を義務化する必要があるんじゃないかな、と考えています。投票率が過半数割れを起こしている状態では、到底一般意志が表明されているとは言えません。とくに若者の投票率が低いことは、高齢者の特殊意志が優先して政策に反映されることにつながりかねません。ルソー的にも投票は市民の義務であるはずなので、あながち的外れではないと思いますが、いかがでしょう?

まとめ

ここまでホッブズ、ロック、ルソーの自然状態(+α)についてまとめてみました。最後に彼らの議論から取り出せるポイントをいくつか確認しておきたいと思います。

  1. 起源論ではなく本質論
  2. 人間の本質規定からスタート
  3. 問題は共有可能性

起源論ではなく本質論

自然状態のおそらく最も重要な意義は、近代国家の正当性を原理的なレベルで論じるための仮説として提示されたという点にあります。したがって「自然状態の存在は実証されていない」という批判は無効です。

誰にとっても左が三角形
誰にとっても左が三角形

この点については数学・幾何学の場合と比べてみると分かりやすいと思います。たとえば「ユークリッド空間では三角形の内角の和は必ず180度になる」という命題を考えてみると、習俗や文化に関わらず、正しく推論すれば、誰でも内角の和が180度であることは理解できます。

ここで重要なのは、それ以外に考えることはできないということです。古代ギリシアでは150度になり、中世のローマでは200度になるというようなことはありません。また、内角の和が180度なのは支配層にとって都合がいいからでもありません。

その意味で、「実際には社会契約に基づく国家は存在しない」という批判は、「現実には内角の和が180度となる三角形はありえない(線を書くと少し曲がってしまうから)」という批判と本質的には等しいものです。

歴史的な事実を考慮しなくていいの?と思うかもしれません。確かに、そうした事実は議論の補助線となるかもしれません。ただ、国家の正当性を規定するという観点からすれば、それは本質的ではありません。上の幾何学の例で言えば、三角形の内角の和を180度であることを証明するためにそれまでの幾何学の流れに言及しなければならないわけではありませんよね(そうした背景を知っておけばユークリッドの意義をより深く把握できるかもしれませんが)。それと同じです。

人間の本質規定からスタート

次のポイントは、自然状態が人間の本質規定に基づいているということです。

ホッブズは『リヴァイアサン』で、何はともあれリヴァイアサンを造らなければならない、とは論じていません。国家を構成しているのは人間である。だからまずは人間を考察しなければならないと考え、人間の感覚はどのようになっているか、推論能力はどのようなものかというように、人間の構造を探求した結果、人間の身体的・精神的な共通性を見て取り、人間は総じて言えば平等である、という見解に至りました。市民国家としてのリヴァイアサンの構想は、まさにこの直観に基づいています。

またルソーは、人間のエゴイスティックな側面を鋭く見て取り、この直観に基づいて、正当な国家の構想に取り組みました。この直観から相互配慮状態としての自然状態の崩壊や、一般意志のもとでの共和国の設立といった議論が導かれてくるので、人間の本質規定はルソーにおいても原理的な意義をもっているといえます。

この2人と比較すると、ロックは神が人間を互いに傷つけあわないよう自然法(つまり神の意志)に従うものとして造られた、だから人間は互いに傷つけあってはならないという言い方になっており、キリスト教の物語を前提としているので、普遍性という観点からすればかなり劣ると言わざるをえません。

問題は共有可能性

ロックの議論が物語に基づいているなら、ホッブズやルソーも同じではないか、と思う人がいるかもしれません。

何らかの仮定に基づいているという点では3人とも同じです。ただ問題は仮定を置くことそれ自体にあるわけではありません。なぜなら問題は、その仮定がどの程度の共有可能性、説明力をもっているかという点にあるからです。

問題は仮定に共有可能性があるかどうか

世界には多くの宗教があります。創造主も同様です。「造物主はイエスではない、カオスだ」「ブラフマーだ」「ちがうパチャカマックだ」「違う空飛ぶスパゲッティ・モンスターだ」…というように、イエス以外にも創造神とされる神はいくらでもいます。スパゲッティ・モンスターはパロディーですが、イエスがスパゲッティよりも優れていると判断せざるをえないような決定的な理由はありません。なぜなら習俗的・宗教的な物語は、それぞれの文化に応じて多種多様であって、どれが最も正しいかを決定することは不可能だからです。

空飛ぶスパゲッティ・モンスター
空飛ぶスパゲッティ・モンスター

確かに、世界宗教は多くの人に信仰されていますが、共有可能性の観点からすると、数学や基礎的な論理学などの命題とは本質的に異なります。この違いは、突き詰めると表象(イメージ)概念(本質)との違いに帰結します。ロックの議論が普遍性を欠いている本質的な理由はここにあります。つまりロックの言い方は表象的であり、キリスト教が信仰されている地域、時代を超える共有可能性をもちえないのです。

ホッブズ、ルソーは人間の身体と精神のありようを観取して、人間像を概念的に定義します。そしてこの人間像に基いて、人間同士の関係性がどのような状態に帰結するかについての過程を概念的に記述しています。だから私たちは「確かにホッブズの言うように、万国共通、人間は感覚、想像、知識をもっているし、言語能力や推論能力を備えている。…でも本当に万人が権力の欲求をもつだろうか?」、というように彼らの議論の流れを追い、「なるほど確かにそう言える」「いやこれは違うな」というように、議論の中身を私たちみずから吟味検証することができるのです。この可能性があるかどうかが、その哲学の水準を決めるといっても過言ではありません。その点でいうと、ホッブズとルソーは哲学としての水準を満たしていますが、ロックの議論はそうではないと言わなければならないように思います。

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