[Q&A]「方法的懐疑」は何のため?

デカルトの「方法的懐疑」は何を目的としたものですか?

「思想の普遍性の根拠をどこに置くか?」という問いに答えるために、デカルトは“あえて”世界全体を疑いました

デカルトは『方法序説』方法的懐疑の概念を打ち出しました。

方法的懐疑はその名の通り懐疑する(疑う)ことです。

私たちは、たとえば人の話を疑ったりする程度の懐疑であればそれなりに(毎日ではないかもしれませんが)行っています。しかし方法的懐疑はそうした懐疑とは本質的に異なるものです。

これらのどこに違いがあるかというと、日常的な懐疑はある特定の対象に限って行われるのに対して、方法的懐疑は世界の全体を疑います。つまり方法的懐疑は文字通り一切を疑う懐疑です。

デカルトはみずから方法的懐疑を行い、次のようにそのプロセスを表現しています。

感覚は疑わしい。感覚は欺くことがあるからだ。では自分の内側の思考、たとえば幾何学の証明は真ではないか?それについても私たちは間違いを犯しうる。後になって証明が反駁されることもある。したがって疑わしさを取り除くことはできない。夢もまた疑わしい。

こう考えてゆくと、何ひとつ確実なことは残らないように見える。しかし、まさにそのように疑っている自分が存在すること、これは決して否定できない。

ここにおいて私たちは「われ思う、ゆえにわれあり」Je pense, donc je suis(コギト・エルゴ・スム)という最も確実な命題を手に入れるのだ。

「われ思う」の意味

この命題に対しては、これまで主に2つの方向から評価が与えられてきました。

ひとつは、「われ思う、ゆえにわれあり」は、合理主義つまり理性主義の現われであり、真理主義の起源だとするものです。コギト・エルゴ・スムは絶対的真理の基礎づけであり、形而上学への野望である。これはいわゆるポストモダン思想のほうから向けられるたぐいの批判です。

私はこれが間違っているとは言いません。ただしそれがデカルトの意を十分に汲んだ上で発せられているかというと、それはとても疑わしい。そのことはもう一方の評価を見ると分かります。

それは、「われ思う、ゆえにわれあり」が真理ではなく、思想の根拠をどこに置くかという問題意識に由来したとする評価です。

デカルトが方法的懐疑を導入した背景には、デカルト自身が言うように、懐疑論が哲学のうちで次第に強い勢力をもつようになったことがあります。当時、学問の頂点にあった神学は、神や信仰の意味などの問題に取り組むのではなく、天使は何人いるのかというようなことについてああだこうだの議論を行なっていました。こうして学問が人びとの生にとって意味あるものではなく、単に学者たちの議論の場所となってゆくと同時に、古代の懐疑論(ピュロン主義)が再発見され、強い勢力を持ち始めました。

デカルトが『方法序説』を著したのは、まさにこのタイミングでした。デカルトは、人びとにとって学問の意味が急速に失われつつあることを目の当たりにして、学問を誰もが納得できるスタート地点から立て直さなければ、学問が存在する意義そのものが失われてしまうと考えました。つまりデカルトには、普遍性の確保が学問にとって本質的に重要だという強い直観があり、それに導かれて、方法的懐疑という方法を考え出したのだということができます。

方法的懐疑は「どうすれば学問の普遍性を確保できるか?」「思想の根拠をどこに置くか?」という問題に答えるために考えられました

普遍性の意味

注意しておきたいのは、ここでいう普遍性とは絶対的真理のことではなく、共通了解の可能性のことを指しているということです。普遍性と聞くと条件反射的に「ヨーロッパ中心主義!」「近代主義!」と反応するひとがいますが、デカルトの観点から見ると、普遍性は、地域や人種などの特殊な条件を越えて誰もが確かに受け入れられるような事柄について当てはまるものです。

言い換えると、デカルトは、世界の一切を近代理性によって捉えることができる、というようには考えていませんでした。デカルトは理性が共通了解の可能性の最後の砦だと考えていたものの、理性万能主義者ではありませんでした。これは留意しておくべきポイントです。

もちろん、これは私なりに読んで得たひとつの解釈にすぎません。もしかすると別のより妥当な読み方があるかもしれませんので、ぜひ直接本文にあたって考えてみてください。

『方法序説』の全体はここで解説しました → デカルト『方法序説』を解読する