[Q&A]カントと功利主義の違いは?

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カントの道徳論と功利主義との違いは何ですか?

カントは「形式」を重視するのに対して、功利主義は「実質」を重視しています。ただし、恣意的な前提を置いているという点では、両者は共通しています。

カントの道徳論と、ベンサム・ミルの功利主義の違いについて質問をいただきましたので、答えてみたいと思います。

カントと功利主義は一見するとまったく対極的な立場のように思えるかもしれません。カントが欲求に打ち克つことが道徳に必要な条件だと考える一方、功利主義は一切を利害や損得勘定で考える、というように。

しかしベンサムとミルは、功利主義と道徳を対立するものとは考えませんでした。彼らは彼らなりの仕方で、カントとは異なる原理に基づき、道徳のあり方を構想していました。

それで、違いはどこにあるの?

シンプルにまとめると、両者の本質的な違いは、カントが道徳の形式性を強調したのに対して、功利主義は道徳の実質性を強調したという点にあります。

カントの道徳論=定言命法に従うべし

カントは『実践理性批判』で、何が道徳的であるかを判断する規準として、「定言命法」の概念を提示しました。

私の自己ルール(格律)がつねに道徳法則を与えるものであるように行為すること、理性が与える道徳法則に従い、義務として行為すること、ただこれだけが道徳的である。そうカントは考えました。

カントいわく、幸福や快を目的とする行為を道徳的と見なすことはできません。自律的に行った行為のみが道徳的といえる。幸福や快を目的とする行為は、自愛の原理に基づいており、その目的によって他律的に決められている。自律的でなければ道徳的ではないので、そうした行為を道徳的と見なすことはできない。このようにカントは主張しています。

また文化的によいとされる行為も道徳的とはいえません。カントによれば、定言命法は私たちの理性が与えるものです。端的にいうと、理性で考えれば何が正しいかを判断できるのであって、「ここではそれが正しいとされているから」というのは道徳の根拠にはなりません。

定言命法については、こちらでも書きました → 「定言命法」とは?

でもなぜ定言命法に従わなければならないの?

イマヌエル・カント
イマヌエル・カント

ただここで、おそらく次のような疑問を抱くひともいると思います。一体なぜ私たちは定言命法に従わなければならないのか、と。

これに対してカントは、一応次のように答えています。

道徳的法則に対する尊敬〔の感情〕こそ唯一の、またそれと同時に疑いをさしはさむ余地のない道徳的動機である

この尊敬は、〔行為者の〕活動の主観的根拠であり、換言すれば、法則を遵奉せしめる動機であって …

道徳法則を守る理由、それは道徳法則に対する尊敬である。そうカントは主張しています。

でも、これはかなり無理矢理な論理です。万人が一概に道徳法則を尊敬するとは限らないし、それが道徳的であると知っていながら、あえて道徳法則から外れたことをするような人もいるからです。

功利主義(ベンサム・ミル)の道徳論

ジェレミー・ベンサム
ジェレミー・ベンサム

この点に関して、功利主義(特にベンサムとミル)はどう考えるでしょうか?

ベンサムとミルの両者とも、行為の正しさの基準は、その行為が「幸福」を促進すると判断できるかどうか、という点に置いています。これはカントのまったく対極にある考え方です。カントであれば「幸福を目的とした行為は、主観的で他律的だから、まったく道徳的であるとはいえない」と答えるはずです。

しかしベンサムとミルは、私たちの行為はそもそも快楽(幸福)を目的として行われるものだという前提を置き、これに基いて議論を展開しています。

ベンサムは『道徳および立法の諸原理序説』のなかで、人間は第一に苦痛と快楽によって支配されていると主張し、これにもとづいて功利性の原理を置くことができる、と言っています。

ベンサムはこちらで解説しました → ベンサム『道徳および立法の諸原理序説』を解読する

ミルは「快楽と言っても、私たちにとって重要なのはただの快楽ではなく、人間的快楽じゃないですか?」と批判しているものの、功利性の原理については積極的に自説のうちに取り込んでいます(取り込んでいるというよりも、むしろ基礎としています)

ミルはこちらで解説しました → ミル『功利主義論』を解読する

功利性の原理

「功利性の原理」の中身は、行為の正しさの基準は、その行為が関係する人びと全体の幸福を促進できるかどうかにある、というものです。

功利性の原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を、増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、または同じことを別のことばで言いかえただけであるが、その幸福を促進するようにみえるか、それともその幸福に対立するようにみえるかによって、すべての行為を是認し、または否認する原理を意味する。

この原理には2つの重要なポイントがあります。ひとつは、幸福を増やしてくれる行為は正しく、そうでない行為は正しくないこと、もうひとつは、当人の幸福だけを増やし、他者の幸福を減らすような行為は正しくないことです。

ミルによれば、まさにここに道徳の基準があります。つまり道徳とは、万人が量と質の両方において幸福(豊か)な生を送るために守らなければならない行為の基準のことであり、単に形式的な道徳法則のことではない。そうミルは考えるわけです。

ではどうして功利主義はエゴイズムだとされるの?

功利主義は自己中心主義として構想されたわけではありません。にもかかわらずそう考えられてしまうのはなぜでしょうか?

おそらく功利主義がきちんと理解されていないことも理由のひとつにあるでしょう。しかし、それに加えて、功利主義が依拠している仮定が根本的な説得力を欠いていることにも理由があるように見えます。その仮定は何かというと、私たちはエゴイスティックで自己中心的な側面を持ちつつも、同時に他者に対する「好意」を抱いている、というものです。

ベンサムは功利主義の精神に最も適合するのは、他者に対する好意であると論じていました。また、ミルは、私たちは社会を作り上げ仲間とともに生きようとする欲求(社会的感情)をもっており、文明の進歩につれてこれが一層強化されるのだ、と主張していました。

なぜ「好意」が功利主義の原理にもっとも適った動機であるかというと、それは、行為するひと自身も含めて、誰の功利も損なおうとすることなく、功利を純粋に高める自発性に基づいているからです。

文化や習俗によって縛られている世界では、他者のためになされる行為は、多かれ少なかれ当人の功利を犠牲にすることによって行われる。だが、近代に至り、そうした束縛が弱まると、各人は自分自身の幸福を目的とすることができると同時に、みずから進んで他者の幸福を促進することができるようになる。そうした「好意」がよく現れることができる条件を整備することこそ、政府が第一に果たすべき役割である。ベンサムとミルは、こうした直観を共通してもっていました。

ただ、この言い方では、社会原理論としてはやはり不十分だと言わなくてはいけません。なぜならここには「エゴイズムの相克」を解決するための原理が存在しないからです。

エゴイズムの相克を解決するための原理

近代哲学者、とくに ホッブズルソーヘーゲルは、それまでの社会に代わる新たな社会を構想するためには、どうすればエゴイズムの相克を生じさせずとどめることができるか、また生じた場合は、いかにこれを調停することができるかという問題に取り組む必要があると考えていました。

その際、彼らはともに、ベンサムやミルのように、他者への共感や好意を原理とすることなく、私たちがともに等しい(法的)人格として相互に承認するような社会においてのみ、自由と平等を両立させることができると考えていました。ホッブズのリヴァイアサン(=コモンウェルス)とは、まさしくそうした人格から構成される市民国家Civil state, Civitasの構想にほかなりません。ルソーの共和国や、ヘーゲルの市民社会も本質的には同じです。

でもルソーは「自然に帰れ」って言ったんじゃ?

ジャン=ジャック・ルソー
ジャン=ジャック・ルソー

ルソーは「憐憫の情を社会に取り戻さなければならないと言ったのでは?」と思うひともいるかもしれませんが、それは正しくありません。確かにルソーは『人間不平等起原論』において、自然状態では見られる憐憫の情は社会生活のうちでは失われてしまうと考えていました。

しかしこのことは、憐憫の情を取り戻さなければならない、ということにはなりません。むしろルソーは、相互の同意以外を近代社会の原理とすることはできないと『社会契約論』で考えていたのであって、自然状態に立ち帰らなければならないと考えてはいません。なぜならルソーにとって(ホッブズにとっても)自然状態とは、そもそも過去の事実などではなく、近代社会の正当性を提示するための方法的仮説に過ぎないからです。

自然状態についてはこちらで詳しく解説しました → 「自然状態」って何ですか?

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