[Q&A]「定言命法」のポイントは何ですか?

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カントの「定言命法」って何ですか?

断言的に(=無条件的に)命令すること。カントはこれだけが道徳の規準になると考えました。

定言命法は、ドイツの哲学者イマヌエル・カント『実践理性批判』で示した概念です。

定言命法は「断言命法」、仮言命法は「仮定命法」

定言命法の原語はkategorischer Imperativで、英語だとcategorical imperativeになります。

categoricalには「カテゴリーの」という意味のほかに「断言的な」という意味があります。たとえばcategorically saying…とすると「断言的に言うと~」という意味の現在分詞になります。なので定言命法は断言命法と言いかえることができます。こっちのほうが分かりやすい気がしますが、固有名詞として定着しているので仕方ありません。

定言命法と対比されるのが仮言命法です。これは原語ではhypothetischer Imperativ、英語だとhypothetical imperativeです。hypotheticalは「仮定の」という意味なので、仮言命法は仮定命法と言いかえることができます。

以上を踏まえて2つを対比すると、おおよそ次のような感じになります。

  • 定言命法(断言命法):(いいからとにかく)「…しろ」
  • 仮言命法(仮定命法):「~が欲しいなら、…しろ」

定言命法は純粋に(=無条件的に)…しろ!と命じるもの。一方、仮言命法は、何かが欲しければ、…をしろ!と命じるものです。

なぜ命令なのか?

カントのいう定言命法は、具体的には次のようなものです。

汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ

カントはこの定言命法だけが道徳の原理になると考えていました。

でもどうして道徳は命法に基づかなければいけないのでしょう?命令されなくても自然に道徳的な行為をするひとがいるじゃないか。そう思うひともいるのではないでしょうか。

この問題に答えるために、まず自然な私たちのあり方(とカントが考えている)に影響を与えている傾向性について見ておきたいと思います。

傾向性と格率

カントは、私たち人間が傾向性によって多かれ少なかれ影響されている、と考えていました。

傾向性は簡単に言うと欲求のことです。あそこに行きたい、もっといい生活がしたい、多くの人から認められたい、などがそれに当たります。

カントの考えでは、私たちひとりひとりの行為のルール(格律、マキシム)は、基本的に傾向性のもとにあります。疲れたから寝る、お腹が空いたからご飯を食べるというように、何か自分にとっての幸福を目がけているのが格率の特徴です。

格率はあくまで自分にとっての幸福を目指すもの。それが万人にとって正しいとは限らない。格律は私の行為のルールにすぎず、行為の一般的なルールとはいいがたい。なので道徳の規準とすることはできない。そうカントは考えました。

ここで大事なのは、人間は傾向性を完全に克服することはできないということです。自然に欲求を克服しているのはせいぜい神のような最高存在だけ(そもそも神の存在自体、仮定することしかできない)。人間が欲求を完全に克服することはできないので、道徳は命法に基づいて初めて可能となる。そういう順序です。

「してあげたい」からするのは道徳的ではない

たとえば電車で席に座っているときに目の前にお年寄りの方がやってきたとします。ここでそのお年寄りに席を「どうぞ」と譲れば、それは一般的に道徳的な行為と見なされます。

ただ、その際、席を譲るときに「このお年寄り、立っていて辛そうだな…。かわいそう、譲ってあげようかな」と思っていたとすれば、実はカントからすれば、それは全然道徳的ではありません。なぜならそこには「譲ってあげたい」という欲求が働いているからです。他人に何かをして自分が幸せになろうとすることも結局は欲求に流されているにすぎず、道徳的とは言えない。そうカントは考えたわけです。

自分で自分に課すから意味がある

仮言命法は傾向性に基づいていて、結局はそのひとにとっての幸福を目的としているので道徳の根拠とならない。断言的に命令する定言命法だけが道徳の根拠である。そうカントは考えました。

ここでひとつ重要なポイントがあります。それは、仮言命法が意識の外から命じてくるものであるのに対して、定言命法はただ意識が自分自身に与える(=課す)ものだということです。

理性が課してくる道徳法則に従い、義務として行為すること、ただこれだけが道徳的である。自分自身にできるだけ普遍的な仕方で課したルールに、他の誰からも命令されず、ただ自分の意志でのみ従うこと。これが道徳的であるために必要だ。そうカントは考えました。

「みんながいいって言うから」はダメ

カントは世界のどこかに「真の道徳法則」があり、それに従うことが道徳的であるとは考えませんでした。仮にそうしたものがあるとしても、それに依存すれば結局流されているにすぎないことになるからです。

同じ理由で、習俗や文化の既存のルールや慣習に従っている行為を道徳的とは見なしませんでした。

慣習はローカルなルールであり、その社会でしか通用しない規準である。ある社会では道徳的とされていることも、他の社会では不道徳的とされる。そうした規準をはたして本当に道徳と呼ぶことができるだろうか?カントの定言命法はこうした問題を解くために考案されたものです。

カントは定言命法によって、これであれば誰もが受け入れることができるだろう道徳の根拠を置くことができると考えました。これは規準の押しつけではありません。むしろ慣習の「言われなくても分かるだろルール」のほうが押しつけと呼ぶべきものです。

カントは定言命法によって、道徳の根拠をローカルな慣習、文化から、私たちにとって普遍的な「理性」の水準へと置き直しました。

正直なら道徳的か?

カントは道徳について論じた哲学者のなかでも特に有名です。私も初めは、道徳的な行為を純粋な意志の義務としてする言い方に強くひかれました。

しかし、カントの道徳論は結局のところ要請論であり、他者との関係性の視点が抜けている、というヘーゲルのカント批判を目にして、なるほど確かにそうだ、と納得した記憶があります。

たとえばカントからすれば、ウソをつくことはどんな場合でも道徳に反します。ただ、相手のことを本当に配慮してウソをつく場合、これが道徳に反しているといえるでしょうか。必ずしもそうではないですよね。将来に対して希望を持てない人に対して、「客観的に見て、あなたの将来は真っ暗だと思う」と言うことは、むしろ道徳に反する行いではないでしょうか?

そうした柔軟な視点が欠けていることも魅力のひとつかもしれませんが、カントの議論の意味をより深く知るためにも、ヘーゲルやニーチェの道徳論と比較してみることをおすすめします。

ヘーゲルとニーチェの道徳論については、以下の記事で解説しました。

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