第3回ポストモダン思想研を開催しました

11月25日、12月3日、10日の3日にわたって、第3回ポストモダン思想研を開催しました。今回はポストモダン思想家、ジル・ドゥルーズ(1925~1995)の『差異と反復』を扱いました。

ドゥルーズはフーコーやデリダと並ぶ、フランス・ポストモダン思想の代表的な思想家です。このサイトでも以前、フェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』について解説しました。

確かに『アンチ・オイディプス』と比べると、『差異と反復』のハリボテ感は小さいです。前者で顕著だった攻撃性(資本主義に結びついたフロイト主義に反旗を!)が弱まり、その代わりに、表象=再現前化による同一性に対して、反復と差異が真の根源にあるという仮説を対置しています。

同一性に対する批判は、フーコー、デリダ、ドゥルーズらに共通するものです。彼らはともに、同一性よりも差異が根源にあると論じています。これは硬直化・教条化したマルクス主義と、その起源にある近代を批判することを目的としています。『差異と反復』で、ドゥルーズはニーチェを評価し、プラトン、デカルト、ヘーゲルを批判していますが、読解の厳密性という点で言うと、ドゥルーズの問題意識に引きつけすぎており、独自研究になっています。要するに言いたい放題です。

『差異と反復』のポイント

本書の要点は次の通りです。

  • 同一性(表象=再現前化)ではなく、差異
  • 根源は差異(即自的な差異、否定に回収されない差異)
  • 差異的=微分的な「関係=比」
    • dy/dxは、数としてはとらえられない強度
    • それはむしろ関数を規定する傾き(導関数)
    • 絶えざる微分係数の変動によって関数が規定されていく、というロジックが数学だけでなく存在一般に妥当する、と見なす
  • 差異はうごめく力
  • この力が「理念」を形成している
    • 理念は微分的「多様体」であり、一枚岩でない
    • 理念は「差異化」と「異化」の2つを通じて立ち現れる
      • 差異化 = 理念の潜在的規定
      • 異化 = 規定された内容の具現化
  • 理念は、ヒエラルキーではなく、戴冠せるアナーキー
    • 理念は硬直化していない自由な戯れの多様体だ!
  • この革命的な力を、同一性の論理を支える思考のイマージュ(イメージ、問われることのない先入観)が隠蔽している
    • プラトンの「悪魔払い」
      • プラトンはイデア説によって、アリストテレスが表象=再現前化の論理を編み出す前にこれを批判している
      • これは論理的な試みではなく、むしろ道徳的な世界観の表れ(=「ケシカラン!」)
    • 生得的な良識や共通感覚といった概念は、そうしたイマージュから生まれたもの

デカルト的な良識と共通感覚は、プラトン的イデアの一枚岩の性格(=同一性)を確保するために編み出された概念。しかし根源にあるのは、差異であり反復である。ここでいう反復は、同じものの単純な繰り返しではない。それは一回限りの、意欲された、つねに新しい反復。否定を知らない、絶えざる再創造としてのニーチェ的永遠回帰。同一性や類似は、唯一の起源である差異の効果にすぎない。

同一性や類似は、差異によって異なるものを異なるものに関係させるシステムのなかで生産されたものなのだ(そのようなシステムはそれ自体、ひとつの見せかけである理由がそこにある)。同じもの、似ているものは、永遠回帰によって産み出された虚構である。そこには、今度は、もはや誤謬ではなく、ひとつの錯覚がある。それは、その誤謬の源泉にありながらも、その誤謬から切り離しうる不可避の錯覚である。

見せかけ(シミュラークル)の役割は、一切の範型を転倒させ、思想を攻撃へと転化することにある。どこへ向かう攻撃か?革命へと向かう攻撃だ。

革命は、差異の社会的な力であり、社会のパラドックスであり、社会的《理念》の本来の怒りである。革命は、けっして否定的なものを経由することがないのだ。

差異のうごめきが、ヒエラルキーに対抗する革命的な力をもっている。それは多様性が響き合う世界であり、確固とした基礎をもつ人格は存在せず、流動的で未規定的な個体しか存在しない。

主体がまずあり、社会はそうした主体の意志に基づいて構成される企て projet だというロック的な社会契約論への対抗意識に支えられている点では、ナンシーの言う共同体と共通しています(ナンシーの見解は、特異性の恍惚−脱自による露呈、「歓喜」の伝染と、死という有限性の分割・分有をともなう「共−現」が、共同性の内実であるというもの)。ナンシーの実存論的な感度と、ドゥルーズの唯物論的な感度という違いはありますが、近代的な主体性や意志に対する絶望という点では共通しています。

ただ、おそらくナンシーのなかには、ドゥルーズ世代に対する反省があります。同一性への対抗や、差異の革命を通じて、私たちの生が至高なものになるとは言いがたい。むしろ考えるべきは、一切の制度が存在しないゼロ地点において、果たして共同性は成立しうるのか、という点にある。こうしたモチーフは、差異の増殖と反乱というドゥルーズのある意味楽観的なイメージのもつ限界を踏まえたものだと言っていいように思います。

差異と自由は直結しない

ドゥルーズのイメージを楽観的と呼ぶのは、差異の解放が「自由」に直結させられているためです。

確かにそうした論じ方は、既成の価値観や社会観が硬直化し、そこに生きる人びとの生を抑圧するように働く場合は、彼らにとっては共感できるイメージではあります。ただ、アーレントが直観したように、自由は解放から直結せず、そのための社会的・政治的条件を必要とします。

自由の社会的条件は、いかに暴力を縮減できるかという点にかかっています。「力=累乗」が暴力として発現すれば、それはホッブズ的な「万人の万人に対する闘争」にならざるをえない。だからこそ私たちは共同体のルールを必要とするのであって、諸制度が差異の偶然的で自由な戯れを押さえ込んでいるというのは、表象的な(=イメージ先行型の)批判です。

社会が偶然このようにあるということが問題なのではありません。必要なのは、まさしくルソーが看破したように、「何がそれを正当なものとしうるか?」についての答えを与えることです。その原理に基づき、自由の公的空間を成立させて初めて、差異と自由を両立させることができる。この点についてのアーレントの直観はまったく適切です。

次回の予定

次回はハーバーマス、テイラー、バトラーらによる『公共圏に挑戦する宗教』を扱います。2009年にアメリカ、ニューヨークで行われた講演をもとにした論集です。メインテーマは、宗教と世俗の関係をどう考えればいいかというものです。

ドゥルーズとの最も大きな違いは、彼らにとって、現代では一元的な価値規範の不在と、価値の多元性がデファクトスタンダードになっているということです。そして彼らにとっての問題は、そのことを踏まえたうえで、そうした状況で生まれてくる対立(宗教対立、民族対立など)を調停するための考え方を置けるかどうかにあります。これについては、差異の解放は有効な解答となりません。なぜなら差異の存在が、そうした対立を生み出している理由のひとつだからです。

ざっと読んだだけですが、ハーバーマスは市民的(公民的)な理性にもとづいて共通了解を作り出せるかどうかが、市民社会における公民的倫理の条件であり、宗教がそれに取ってかわることはできないとに論じています。これに対してはテイラーが、市民社会の原理が宗教の原理より優先されるとする理由はないと批判しているものの、ハーバーマスに対する批判としてはあまり効いていません。なぜならここでの問題は、市民社会の倫理の根拠をどこに置くかという点にあるからです。

ハーバーマスがこのことについて、どこまでカント的な倫理観から離れて考えているかはともかく、問題設定としては面白いし、アクチュアルな切実さをもった問題でもあります。次回の研究会が楽しみです!

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