第2回ポストモダン思想研を開催しました

11月12日(木)、第2回ポストモダン思想研を開催しました。今回はポストコロニアリズムの思想家、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァク(1942~)の『サバルタンは語ることができるか』を扱いました。担当は早稲田大学・国際教養学部助手の岩内さんです。

研究会では、サバルタンに関わる「想像力」をキーワードに、熱い議論が交わされました。以下では、研究会での討論を振り返りながら、スピヴァクの議論から受け取ったポイントについて確認してみたいと思います。

ポイント

本書でスピヴァクは、フーコーとドゥルーズの対談に対する批判を手がかりに、「サバルタン」の概念によって、構造主義・ポスト構造主義による近代批判に対する再批判を行っています。

本書のポイントをまとめると、およそ次のようになります。彼らは自分たちが透明な存在になれると考えているが、それは誤り。国際的な分業体制において抑圧する側にいることに無自覚。彼らは主体を批判することによって、新たな「主体」を立ててしまっている。重要なのは、インドの寡婦のように想像を絶する状況のもとにある人びと、すなわちサバルタンを代表あるいは代弁することではなく、思考の「空白」を他者に引き渡し、自己を表象(=自己反省)することだ。

主体を立てると抑圧が生じる。抑圧を防ぐには主体を立てないようにしなければならない。それは自己も他者も同様。「他者を代弁する」と主張することは、しばしば容易に、他者を自己の側に引きつけて解釈し、隠蔽することにつながってしまう。社会の外部に存在する絶対的な他者、すなわちサバルタンについては、私たちは語ることも触れることもできない。サバルタンもまた語ることができない。この点に対する徹底的な了解が知識人に求められている。

こうしたスピヴァクの主張は、思想の条件、社会原理の実質に関わってくるものだと言うことができます。

想像力の問題として

サバルタンは「見えない」
サバルタンは「見えない」

スピヴァクの議論を良心の呵責のもとで受け取るなら、スピヴァクは単に「他者を措定する試みを脱構築せよ!絶えざる自己吟味が必要だ」、と主張しているにすぎないことになります。おそらくスピヴァクの一般的な受け取り方はこうした類のものではないでしょうか?

原理的には、スピヴァクの主張についてはいくらでも批判することができます。サバルタンの抑圧は人格の相互承認という近代社会の原理によって初めて批判されるべき問題として現れてくる。教育や社会制度を通じて、近代社会の理念が感受性のレベルで身体化されているので、抑圧は取り除かれるべきものとして映る。近代において初めて、各人は人格として平等であるべきだとする根本理念と、そうした理念の実質化に向けて社会を再編する可能性と条件が現れてきた。近代以前では、そうした構図がそもそも対立として現れてくることはなかった。サバルタンと非サバルタンという構図自体が不当であるわけではない、というように。

スピヴァクの主張を、近代哲学が示した社会原理に取って代わるものと見なすことはできません。ただ、だからといってスピヴァクの問題提起を無視するわけにいかないのも確かです。というのは、思想に対する態度として、普遍性に対する感度とともに、現実の限界性に対する感度を備えておく必要があるからです。そうした限界に届かなければ、普遍性はローカルなものにすぎなくなってしまう。このことに対する洞察があるのと無いのとでは、普遍性の概念のもつ内実が決定的に異なってきます。

言葉が届きえないという冷酷な現実によって、普遍性の概念を批判し、洗い直すこと。普遍性の内実が現代社会で生きうるかどうかは、この作業をどこまで徹底できるかにかかっている。スピヴァク自身がどう考えているかはともかく、このことは確かだと思います。

フーコーやドゥルーズがいまだにフランス現代思想としてもてはやされる一方で、スピヴァクのようなポストコロニアリズムが「はいはいポスコロねw」と片付けられている感がありますが、ここに潜んでいる動機も含めて、スピヴァクが示した問題は一度は真摯に受け止める必要があるのではないでしょうか?

思考の限界をめぐって

前回の研究会で扱ったナンシーもそうでしたが、ポスト構造主義以後の現役世代については、ただ単に近代社会・資本主義社会を相対化して批判しようとしても、それは有効性をもたないという直観があります。グローバル化する市民社会、資本主義に対して、「一致団結せよ!」とか、「いまこそ家族や地域コミュニティの絆を作り上げていこう!」と素朴に訴えることで、果たして私たちがよい生を送ることができるのだろうか?それとは違った可能性があるのではないだろうか?そうした問いかけを彼らの議論のうちから聞き取ることができます。

これはほとんど思考の限界点を探る試みとして行われています。なのでナンシーもスピヴァクも、とても読みにくい(スピヴァクはその点を同僚らから厳しく批判されているようです)。原理を組み立てていくというよりも、新たな社会の論理を触発するための思考実験を行っているようにも見えます。その点では、近代哲学の社会原理論と似ているところもあります(物語に基づく王権神授説から、仮説に基づく社会契約説へ)。最終的には、人間的欲望の原理論が欠けている点が決定的な分岐点となりますが、思想的な構えとしては、共通するところがあると言っていいのではないでしょうか?

次回の予定

次回は、スピヴァクが批判していたジル・ドゥルーズの著書、『差異と反復』 を取り上げます。ナンシー、スピヴァクとは異なる意味で(つまりグチャグチャで)読みにくく、苦戦すると思いますが、ひるまず頑張ろうと思います。

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