連載中の文章について

現在、新潮社の電子雑誌『yom yom』にて、哲学に関する連載「知のバトン――哲学者が考え、引き継いできたもの」を書かせていただいています。2018年12月号からスタートして、早いもので1年以上が経ちました。

最近は、連載と『本質学研究』の文章が主な著述の場所となっており、このサイトやTwitterには、ほとんどタッチすることが出来ていません。自分の原点を脇に置くのは心苦しいですが、生活が懸かっておりますので、優先順位はどうしても下がってしまいます。

それと、常に連載のことを気に掛けていなければならないので(特に締め切り前)、あまり他のテーマについて書く心の余裕がないということもあります。連載のための勉強もしなければなりません(その成果は、いずれサイトで公開できればと思います)。

これは、文章を書くのが好きとか嫌いとかそういう話ではありません。端的に、文章を書かなければお金がもらえないので死んでしまう、ということです。やってみて分かりましたが、「好きを仕事にする」のは、会社など組織に属していなければ、生きるも死ぬもその人次第だという、なかなかシビアなことです。文章を書くという稼業は、単に何となく表現が好きというのではなく、死ぬまで表現を愛し抜く位の覚悟(そしてその覚悟を遂行するための能力)が無ければ、安易に推奨できないものだと思います。


yom yomでの連載の何より良いところは、自由に、書くべきことを書くべき仕方で書かせてもらえているという点にあります。

それまでの著作では、哲学者の学説に関する解説を行い、それを基にして、哲学の原理的思考を展開することを目的としてきました。自分としては、単にそれまでの哲学者の考えを要約するだけの「入門書」を書いてきたつもりはなく、原理的思考の基礎を置き、哲学の思考の導く可能性がどのようなものかについて考えることを中心の目的としてきました。とはいえやはり、難しい文章では商売になりにくいので、哲学の原理に関する大きなイメージを示すだけにとどめておき、それ以上の細かい箇所を扱うことについては多少遠慮しなければなりませんでした。

一方、今の連載では、最初こそ手探りの状態でしたが、議論が展開するにつれて、次第に細かい箇所についても取りあげています。中世哲学の議論、「富」の持つ意味の変遷、それに応じた政治・価値秩序の展開、現代における近代哲学の射程、観念の魅力と思想の関係、実存と社会の関係……。こうした自分としてはハードなテーマの文章を、お金を貰いながら書けることは、とても恵まれた機会だと感じています。

その機会を最大限まで生かすべく、連載の各回で、自分はその都度、自分の能力の届く限界まで書こうと心がけています。一度文章になってしまったものは、後から読み返すと平凡なものに見えてきますが、しっかりと考えて書いた文章については大体誰でも同じような感じを持つはずだと思うので、その点については余り気にしないようにしています。


難しい文章を易しく言い換えるだけなら、練習すれば誰でも一定出来るようになる。問題は、その先に進めるかどうかにあります。

文法的に意味が通ることは、文章表現の基本の前提にすぎません。根本の問題は、その文章が「読ませる」ものであるかどうかにあります。著者の力量は、そうした「読ませる」文章を書けるかどうかについてこそ問われるものです。

このことは文章に限らず、表現一般についても言えることだと思います。

例えば、歌の場合、音程やリズムを外さずに歌うだけなら、練習すればほとんど誰でも出来るようになるはずです(よほどの音痴は仕方がありませんが)。しかしプロの歌手は、それ以上に何よりも「聴かせる」ような仕方で歌う。プロは単に上手いのではなく、音程やリズムが原曲とは違っていても、あるいは違っていればこそ、素晴らしいと思わせるように歌う。この点に「カラオケ名人」とプロの歌手の違いがあると言ってよいはずです。

哲学の表現は、得てして難しいものになりがちです。ただし、その傾向を、表現の平易化によって対処しても芸がありません。正当な理由と意味のある難しさに関しては、これを防衛ラインとして維持すること。その上で、現代の私たちにとっての現実の意味を洞察し、その現実をよく生きる可能性の原理を解明すること。これらの課題に対して正当に応じることが、今の連載の中心の目標です。そして、連載全体の出来不出来は、この目標を達成できるかどうかに懸かっているという気がしています。