今日から使える「こじつけ」の見分け方

一見するとほとんど関係なさそうなこと同士の間に実は本質的な関係があると(「私が第一発見者です!」ばりのドヤ顔で)指摘することは、自分の意見を学問的に見せるためによく使われる方法です。

たとえば、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』を使って「インターネットのカオス的ネットワークは人間の欲望の無限定性を根源とする」と言ったり、「ガタリの『カオスモーズ』は現在のインターネットを予言していた」「ドゥルーズの『管理社会』はNSAによるネット監視活動を予言していた」と言うと、ちょっとカッコイイ感じがしませんか?

しかしちょっと待ってください。それは本当に関係があると言えるでしょうか?ただ意外だったり、見た目が似ていたりするだけのハッタリじゃないでしょうか?

哲学書のなかには、本質的な議論を行っているものもあれば、全てがこじつけで成り立っているようなものもあります。しかもこじつけと分からないような仕方で書いてあるからなおさらやっかいです。

ここでハッキリさせておきますが、哲学者は予言者ではありませんし、まして善意ある人間とは限りません。権威に流されないように注意して、その議論がハッタリでないかどうか、読み手の私たちが吟味する必要があります。「○○が言っているから正しいはずだ」と権威に流されているようではまだまだです。

以下の流れ

  1. 関係性そのものの本質を確認します。
  2. 1を踏まえ、こじつけが生じる理由について見てみます。
  3. こじつけを見分けるために気をつけておきたいポイントを簡単にまとめてみます。

意外な関係

「○○と▲▲には意外な関係がある」と言うと、確かに相手の気を引くことができます。「あの芸人とこの芸人が実は…!」「武田信玄と上杉謙信の意外な友情とは…!」という見出しに興味を引かれるひともいるはずです。

ただ、そうした関係性が誰にとっても理解できるときもあれば、うさんくさいときもあります。

自分の直感や感覚、「こうあってほしい」を証明するため、ある事柄と別の事柄を強引に結びつけようとする試みは、善意であろうと悪意であろうと関係なく、一般的に見受けられます。

関係性は存在確信である

「ここに関係がある」という見解と「ここに関係はない」という見解が対立する理由は何でしょうか?

現実的には様々な利害が絡んでくるので一概には言えませんが、認識論の観点からすると、関係性はひとつの観念(意味)であり、存在確信であることがその理由です。

たとえば、机の上に置いてある消しゴムやペン、教科書には“勉強道具”という関係性がありますが、それら自体に関係性があるわけではありません。別に成分を共有しているわけでもなければ、物質的に融合しているわけでもありません。

しかし、だからといって、消しゴムやペンが全く関係していないわけはありません。消しゴムとペンを買うときは、「この消しゴムとペンを勉強道具にしよう」というように、そんな意識せずこちらから関係づけを行うはずですが、一方で使っているうちに、向こう側から「私の勉強道具だ」という意味を与えてくるようになるはずです(よね)。

このように、関係性は私たちの側から与える意味であると同時に、向こう側からやってくる意味でもあるという2つの側面をもっています。これは私の妄想ではなく、誰にとってもそう言えるはずです。科学的な世界像はいったん脇に置き、ゼロから考えてみてください。

  1. 関係は存在確信
  2. こちらから「関係づける」ことができる
  3. 向こう側から与えてくるという側面もある

世界は関係性の総体

これは消しゴムやペンの間の関係に限りません。机は隣の机と関係しており、机は教室と関係しています。教室は建物との関係にあり、建物は学校の敷地との関係にあります。

私たちのいう「世界」とは、そうした関係性の一切からなる総体です(ドイツの哲学者フッサールも同じようなことを言っています)。この世界と一切関係がない事柄というものは原理的に存在しません。過去も未来も何らかの形で現在と関係しています。もしそうした関係性がなければ、そもそも過去や未来という観念自体が成り立ちません(現在からみた以前が過去、現在から見た以後が未来なので)。

いくらでもこじつけられる

要するに、ここから言えるのは、何の関係もないものが存在しない以上、こじつけようと思えば、いくらでもこじつけることは可能だということです。「現代社会の問題は肉食文化と関係している」(『草食系という衝動』)とか、「日本の問題は3塁打から読み解くことができる」(『ベースボール、ムラ社会、ニッポン』)とか、ハッタリをかませば何とでも言えます。なぜなら何にも関係しない物事は存在しないからです。

そういうこじつけは今に始まったことではありません。「産業社会が人間性を滅ぼす」とか、「インターネットが良き人間関係をダメにする」という言い方が普通に学問的なものとされていた時代もあったわけですから。確かにインターネットは人間社会を変容させました。しかしインターネットには様々な側面があるわけで、私たちの生の可能性を広げてくれたことも確かです。それを無視して「ほらやっぱりネットは問題だ」と言うのは、事態を一般化しすぎています。

注:『草食系という衝動』や『ベースボール、ムラ社会、ニッポン』という名前の本はありません。念のため。

キーワードは本質連関

冒頭で取り上げたヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』で、プロテスタンティズムと資本主義の関係を指摘しています。初めて読んだときは、ほぼ間違いなく「えっ?キリスト教と資本主義が?」と意外な感じを受けるはずです。これを逆説的と見るひともいますが、逆説的に見えるのはちゃんと読んでいないからです。

詳しくはこちらで書きました → ヴェーバー『プロ倫』を超コンパクトに要約する

また、先にあげたヘーゲルは、自由は欲求と教養の相互連関を通じて立ち現れると論じました。他にも、フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユは、私たちのエロティシズムは「禁止」への侵犯に支えられているという論じました。

ただ、実際に読むと分かりますが、3人は別に「ちょっと意外なこと言ってやろう」とか「意外なことを指摘するのが(=脱常識化が)学問の役目だ」とは考えていません。もしかすると考えていたのかもしれませんが、少なくとも議論としては現れていません。もしその程度のチャチな議論であれば、これほど長く読まれ続けることはなかったはずです。

こじつけを見分けるポイント:本質連関を洞察しているか

こじつけとそうでない議論は、関係性を本質的な構造(本質連関)として洞察できているかどうかに着目すると、比較的簡単に見分けることができます。

本質と聞くと「隠された真理」のように思われることもありますが、それは本質とは“共通項”のことです。ペンの本質は書くための道具であること、コップの本質は飲むための道具であること、という具合です。普段は隠されているようなものは本質ではありません。

というわけで、こじつけを見分けるためのチェックリストを考えてみました。結構使い回しが利くはずです。

  • それは本質連関?
  • 関係していると言わざるをえない?
    • そうも言える、では弱い
  • 偶然でない?
  • 誰でも受け入れざるをえない?
    • 一部の人には分かる、では弱い
  • 無理矢理ひねり出していない?
    • 現代社会と結びつけようとしている場合は要注意!
  • 「ちょっといいこと言ってやろう」の感じが出ていない?

ある関係性が本質的だと言えるためには、それが特殊なケースでなく、他の場合についてもそう言えるし、言わざるをえないことが必要です。

たとえばヘーゲルのいう欲求と自由の関係性は、ヘーゲルだけでなく、読んでいる私たちにとっても当てはまり、かつ納得できるものになっています。

何もしたいという欲求がなければ、自由の感覚はありません。目標があってそこに向かうからこそ、自由を感じられるはずです。学校や職場で与えられる課題を解決するだけでは、多少のやりがいは感じられても、自分の人生を自由に生きているとはなかなか実感できないはずです。

まあ究極的には他人の頭の中をのぞくことはできないですから実は思い込みにすぎないのかもしれませんが、200年近く前に生きていたドイツ人の言うことがなるほど確かにと思えるからには、それがただの思い込みにすぎないと判断するのも逆に難しい。他の人も「確かにヘーゲルは上手く言えている」と判断しているから尚更です。

哲学のポイントは、それが“考え方”であることにあります。哲学者が言ったから正しいとかいうことではありません。自分で考え、他の人たちとも考えてみた結果、それが確かに妥当であると判断せざるをえないようであれば、それは妥当です。エラい哲学者が「1+1は2ではない」と言ったところで変わりません。というか、権威に流されるようではまだきちんと考えていません。

フェアな関係で、相互に確かめ合うこと

自分の見て取った関係性が本質的かどうかを確かめるためには、他の人たちとそれについて確かめ合うことが必要です。これはクラスメートやゼミ仲間のような、できるだけフェアな関係で行うのが理想的です。なぜなら年を取り、社会的・学問的な地位が高くなると、自分より下の人たちには心置きなくツッコめても、率直な意見をもらうことが難しくなるからです。内心は「んなわけねーだろジジイ」でも、仕事上は「ですよね!その通りです、先生!」となることもあります。こうなってしまえば、もう思い込みを直すすべはありません。

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