哲学書の選び方

ここでは哲学書の選び方について書いてみたいと思います。

大学の講義やゼミなどでは、哲学者の主張について教えてくれても、哲学書の選び方を教えてくれることはないと思います。ただ、私自身の経験からすると、この点を知っているかどうかで、自主的に哲学書を読む際の効率が大きく違ってきます。初めのうちは興味のおもむくままに読んでいっても問題ありませんが、哲学書を読む順番についても多少意識しておくと、哲学を系統立てて理解することができるはずです。

何か原理に基づいているわけではありませんが、私の思う限り、主なポイントは以下のとおりです。

  • 本屋を信用しない
  • 哲学の流れを意識する
  • 先入観を意識的にストップ
  • 慌てない

1.本屋を信用しない

たとえば大学生協や街の書店に行くと、哲学書コーナーや文庫コーナーでは特集コーナーが組まれています。『東大教師が新入生にすすめる本』など、知的好奇心をくすぐる本が所狭しとディスプレイされています。

ただ次のことを忘れてはいけません。

本屋は営利企業である。

当たり前といえば当たり前ですが、本屋が第一に追求しているのは利益です。あなたに教養を身につけさせることではありません。本屋はあなたが本を買ってくれればいいのであって、あなたに哲学の基礎を与えることを第一の目的としているわけではありません。

どういうことかというと、こと哲学書に関しては、本屋のディスプレイに惑わされないように気をつけないといけないということです。

哲学書は基本的に売れ行きはよくありません。むしろ企業全体の業績からすれば、足を引っ張るお荷物に近いものです。にもかかわらず哲学書を扱っているのは、おそらく、文芸部門も含めた一体としての企業活動に重きを置いているからです。「文芸部門があってこその本屋だ」という経営判断ゆえに、文芸部門はいわば“生かされている”のだと思います。そうでなければお荷物はさっさと切って、その分リソースを売れ筋の部門につぎ込むはずです。

そこで合理的に考えると、生かされている文芸部門は自分たちの首が切られないように奮闘するに違いありません。どうすれば本を売ることができるかについて必死で考えるはずです。知的ぶりたい青年の心理を熟知している彼らにとって、哲学の基礎的な教養がない新入生などカモ同然です。ちょっとエレガントな概念やテーマで引きつければ、すぐにヒットする。ここに営業攻勢をかけない理由はありません。

El Ateneo bookstore
雰囲気に飲まれない

もちろん本屋が悪いとか、利益至上主義でケシカランと言いたいわけではありません。それが彼らのビジネスであり、ご飯を食べるための手段ですから、自由主義社会において否定されるべき理由はどこにもありません。ただ、彼らが哲学のプロでないことも明らかです。売れ筋やトレンドを把握していても、哲学がどのような展開を見せてきたのかについて理解しているわけではありません。

…理解しているひともいるでしょうから、適切に言い換えます。

「売れ筋やトレンドと、哲学の本流のどちらを優先するか?」という質問で、後者を選択する本屋は、どれだけ哲学を愛しているとしても、ビジネスとしては失格です。会社としては、哲学教育などは個人でやるべき事柄であって、会社のリソースを使うべきものではありません。経営陣としても、売り上げが出なければ責任を問われかねませんから、古典に手を出すなどという冒険はできるだけ避けたいはずです。

そういうわけなので、企業としての本屋に哲学教育を期待するのは非合理的なのです。

タイトル、表紙につられない

本のタイトルや装丁につられないことも大事です。スタイリッシュな表紙や知的な紹介文は、本をなんとかして手に取ってもらうための血のにじむような努力のたまものです。たとえどれだけ中身が素晴らしくても、手にとってもらえなければ、ショッピングカートに入れてもらえなければ意味がありません。

しかし、哲学を系統的に理解するためには、そうした本屋の戦術にはまるのではなく、みずから著作の良し悪しを判断できるようになる必要があります。「あの先生が推薦しているんだから間違いない」と臆断するのではなく、みずからの理性で議論の妥当性を判断できるようにならなくてはいけません。つねに吟味検討の姿勢を忘れないことが大事です。

古典は判断基準を与えてくれる

こうした判断基準を身につけるために、古典が役立ちます。「古いモノほどいい」から古典を読むのではなく、古典を読んでいると、これまで哲学で何が問題とされてきたのかを知り、私たちが人間一般としてどのように思考を展開してきたのかを知ることができます。そして、これによって、いま生きている私たちが問題としているようなことの多くが、これまでの哲学者たちによってすでに考え尽くされたものであることがだんだんと分かってきます。

たとえば社会的な不平等や格差は、近代哲学が徹底して考えてきた問題です。なぜ人種や国籍による差別が不当なのか。色々な考え方があると思いますが、哲学的には、性別や出自にかかわらず人格としてともに等しい存在として社会を作り上げているという近代社会の理念に根本から反するからだ、と答えるほかありません。この点を知っているかどうかで、社会の見え方や捉え方が大きく違ってきます。

もし古典を一度も読んだことがなければ、すでに考え尽くされた問題を「この問題はきわめて現代的な問題だ」と誤解してしまうかもしれません。もしその問題にいつまでも引っかかってしまうようなことがあれば、時間と労力の浪費となりかねません。その意味で古典はまさに基礎教養だといえます。

2.哲学の流れを意識する

この点と関連して、もう1つの原則は、哲学の歴史を意識することです。これはとくに、読もうとしている哲学者が批判している対象が、その哲学者に先立つようなときに言えます。カントを読む前にニーチェを読んだり、デカルトを読む前に20世紀のフランス思想を読んだりするのがこのケースにあたります。

YEAH!!!
舞い上がらない

批判する側の言い分だけ聞いていると、なるほど確かにそれらしく聞こえます。しかし公平に判断するためには、両者の言い分に等しく耳を傾ける必要があります。本当はニーチェを読む前にカントを読んでおき、その上で両者の議論を公正にジャッジするのが理想的ですが、もし逆の順番に読むのであれば、ニーチェの批判についてはいったん判断を留保しておくのがいいでしょう。カントを読まずして「ニーチェ最高!」と舞い上がるのは性急です。

ニーチェのカント批判だけを聞いているだけでは、カントの議論の意義はおろか、ニーチェの議論の意義を見て取ることさえも困難です。カントのポイントをつかんでいなければ、そもそもニーチェの批判がどれだけ妥当なのかについて検討することはできません。解説書の解説に頼るしかなくなってしまいます。

しかし哲学においては、最終的には自分自身の理性でもって妥当性を確かめられるかどうかが問題です。したがって解説書に依存するのは避けなければなりません。たとえどれだけその哲学者の議論に通じている学者の説であっても、本人ではない以上、それはあくまでひとつの解釈にすぎません。権威に負けないのが大事です。

解説書が役立つ場合と要らない場合

解説書については、自力でなんとか読める著作の場合は、あえて読まないほうがいいこともあります。日本語に翻訳されても何を言っているかほとんど分からないような哲学者(たとえばカントやヘーゲル)については解説書が有効な場合が少なくないですが、たとえばアリストテレスやデカルトのように翻訳でそれなりに分かる場合、解説書は専門的すぎるケースがあります。その哲学者の専門的な研究者になるのでないかぎり、議論の全体の構造と核心を捉えることが第一の目標です。細かな箇所は後回しで問題ありません。時間は無限にあるわけではないですから、優先順位をつけて読んでいくのが賢明な判断です。

流行に流されない

確かに最新の思想は興味を引きます。具体的な問題が見事な表現で浮き彫りにされると、それだけで「なるほどそうなのか」と思えてくることさえあります。

ただ、その議論が本当に説得的なものなのかについては、その著作だけからではなかなか判断できません。基準となるものに照らし合わせてこそ、その言い方が妥当かどうかを判断することができるからです。いきなり現代の著作を読んでも、教養がたまっていなければ判断のしようがありません。その著作がある哲学者を批判しているとして、その哲学者の議論を理解していなければ、その批判がどこまで妥当なのか判断することができません。この点については上ですでに書いておいた通りです。

現代の問題に対する意識をもつことは大事です。自分や社会に対して何らかの不和・不遇の感覚があるからこそ、哲学が興味深く見えてくることもあります。ただ、だからといって基礎なしに応用問題に取り組むのは無謀です。応用問題は考え方のフレームワークを習得した後で取り組むのが効率的です。この点は他の学問と全く同じです。

3.先入観を意識的にストップ

次のポイントは、先入観をもたないことです。

哲学では「読まず嫌い」は厳禁です。実際に読む前から「観念論?どうせ形而上学でしょ」「西洋哲学?どうせ理性中心主義でしょ」と決めてかかるのは、哲学に対する態度としては不当なものです。

哲学書を選ぶときは、自分があらかじめ抱いている感覚に合致するものを選んでしまいがちです。「ほらやっぱりニーチェは合っていた。キリスト教は邪教なんだ」というように、ニーチェの議論を検証する読み方ではなく、自分の素朴な確信を支持してくれるようなものを暗黙のうちに選んでしまうことがあります。自分の世界観に反する見方を心地よく感じるようなひとは滅多にいませんからね。こうした読み方は信念補強型といえます。

哲学書を読むときには、信念補強型ではなく信念検証型の読み方をするのが大事です。つまり自分の世界観にとって都合のいい見方を受け入れるのではなく、その議論がどの程度普遍性をもっているかについて吟味検討するように読むのです。そのためには先入観を意識的に保留し、公正不偏の態度で(哲学者を味方や敵と見るのではなく、ある程度の距離を保って)彼らの議論を吟味する必要があります。

なので哲学書を選ぶときには、特に思い入れのない哲学者の著作も積極的に取り入れるのがいいでしょう。具体的に言うと、Amazonの「…を買ったあなたには…もおすすめ」は積極的に無視しましょう。気づいたらつい似た傾向の本ばかり読んでいたということにならないようにするのが大事です。

4.慌てない

以前2ちゃんねるに「10代で読んでないと恥ずかしい必読書」のようなタイトルのスレッドがありました。正確なURLは忘れましたが、確か以下で挙げられている感じだったと思います。

これを見て「やばいほとんど読んでないどうしよう」と焦ったひとはいませんか?自分はそうでした。

ただ率直に言って、リストに挙げられている著作をむやみやたらに読もうとするのは、まったくの論外です。ちょっと落ち着いて考えれば、そもそも読んでないから恥ずかしいとか、読んでいれば恥ずかしくないという基準を置くこと自体が哲学の歴史を侮辱することなのはすぐに分かるはずです。

問題は、問いを適切に設定できるか、それに対してどれだけ普遍的かつ原理的な解を提示できるかにあります。知識はあくまでこの目的に従属するものです。キルケゴールのように哲学書をほとんど読んでいなくても深い直観に達するような哲学者もいますし、逆にどれだけ読んでいようと、私たちを深く納得させるような洞察を示せず、著書が“お勉強”の成果のお披露目でしかないような哲学者もいます。知識量で競うのはナンセンスです。大食い選手権じゃないんですから…。

で、何から読めばいいの?

2つ入り口があると思います。1つはプラトン、もう1つはデカルトです。この2人は哲学書を読み始めたばかりのひとにとっても、またすでに何冊も読んでいるひとにとっても、何度も立ち帰る価値がある哲学者だと思います。

プラトンとデカルトはともに、哲学から普遍性(共通了解の可能性)に対する感度が失われつつあることを直観して、普遍性を哲学に取りもどすことが、哲学をよみがえらせるための重要な鍵になると考えていました。彼らはあれこれ任意の物語を好き勝手に立てるのではなく、何に基づけば文化や宗教の違いを超えた相互了解が可能となるか、また相互了解はどこまで可能であり、どこから不可能なのかについて強く意識していました。

プラトンは当時勢力を誇っていたソフィストたちに抗して、考えるべきは「何が善(よさ)であるか」であり、善の本質を見て取ることだ、と主張しました。哲学が特に考えなくてはならないのは意味と価値の本質である、とする見方はまったく斬新なものでした。

デカルトは主著の『方法序説』を、当時の学問で使われていたラテン語ではなくフランス語で著しました。学者だけでなく一般の人びとも理解できなければ、自分の議論が本当に正しいのかについて判断することができないと考えたからです。

『方法序説』でデカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」 Je pense, donc je suisを学の出発点にしなければならない、と考えました。デカルトからすれば、これこそが洋の東西を問わず、文化の違いを超えて、誰もが受け入れられるような(受け入れざるをえないような)仕方で哲学を打ち立てるためのスタート地点でした。

ここはちょっと哲学をかじっただけのひとが「ほらこれがデカルトの例の西洋中心主義だ、理性中心主義と人間中心主義の起源だ」と批判して悦に入りたがる箇所です。その心構えがダメだというのです。自分でいちから読みましたか?大学のポストモダン思想の授業の受け売りになっていませんか?

頭のいいひとに通じればそれでいい(一般人には私の高尚な理論は分からなくてかまわない)とするような見方は、プラトンとデカルトからすれば、哲学的とはいえません。むしろ2人には、哲学は一般的な判断能力を備えているひとであれば必ず理解できるようになっていなければならないという強い直観がありました。これはいまなお哲学の魂というべき直観です。

デカルトの『精神指導の規則』という論文には、こうした直観が力強く現れています。少しマイナーですが、ぜひ読んでみてください → デカルト『精神指導の規則』を解読する

「歴史順に読むべきなんじゃないの?」

確かにその通りです。ただ共通点がある哲学者に関しては、むしろ並行して読んだほうが理解が深まります。なので、メインストリームはそれとしてきちんと読み、ときどき共通点のある哲学者をピックアップするのがいいのかな、と思います。

方法序説 (岩波文庫)饗宴 (岩波文庫)
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