カント・哲学早わかり

イマヌエル・カント(1724年~1804年)は近代哲学のひとつの山場とも呼ぶべき哲学者。『純粋理性批判』(1781年)、『実践理性批判』、『判断力批判』は三大批判書と呼ばれ、読み返すたびに新しい発見を与えてくれます。

カントが優れているのは、ひとりで真善美の問題を原理から全て考え直し、それらについてカントなりの(しかし深い洞察による)解答を示したところにあります。もちろん全部が全部事態をうまく言い当てているわけではありませんが、原理の「深度」には確かに驚かされます。

ただカントの場合、書き方がドヘタなので、ポイントを捉えるのは一筋縄では行きません。カントはルソーを愛読していたようですが、書き方の率直さという点でいえば、両者ほど対極的な哲学者はいないと言っていいでしょう。愛読していたなら書き方も見習ってほしかったですけどね…。

『純粋理性批判』で認識の問題に取り組む

『純粋理性批判』の問題は真、つまり私たちにとって「正しい」認識とは何か、どうすればそれを獲得することができるかという点にあります。

カントは私たちの認識構造は感性、悟性、理性からなると考えていました。その内部的な仕組みとして「図式」や「カテゴリー」、「構想力」などがあると言っていますが、要するにポイントは次のような感じです。

私たちの認識装置は一定の枠のなかに制限されているので、物自体そのものを捉えようとする試みは「アンチノミー」(二項対立)にならざるをえない。たとえば世界の始まりについては、「ある」と言わざるをえないのと同時に、「ない」とも言わざるをえない。

注意しなければならないが、これは「あるとも言えるし、ないとも言える」ということではない。好き勝手にどちらかを正しいと見なせるわけでない。この対立は必然的に現れざるをえないと同時に、絶対にこれを解決できないという厄介な性質をもっているのだ。

しかし大事なことは、私たちの認識装置自体は共通性をもっており、それゆえにアンチノミーのような場合を除けば、必ず共通の認識に達することができる、ということだ。

問題は真理(物自体)を言い当てることにはない。大事なのは私たちの認識の仕方には共通の構造があり、私たちはこれを自分の意識のうちから見て取ることができるということだ。カントにはこうした直観がありました。これはカントに限ったことではなく、デカルトやロック、ヒュームなどの優れた近代認識論に共通する構えです。

『実践理性批判』で道徳の問題に取り組む

以上の議論を踏まえて、カントは次に道徳の本質は何かという問いに取り組みます。そこで書かれたのが『実践理性批判』です。実践理性批判の全体の問いは善。「私たちにとって道徳とは何か?」がテーマです。

カントの時代、道徳の判断基準はキリスト教に置かれていました。しかしカントはそれに満足しません。なぜならカントは、理性で追い詰めて考えれば誰でも道徳は何かを了解できるし、もしそうでなければ道徳の本質を見て取ったことにはならないと確信していたからです。

道徳の本質は何か?この問いに対してカントは定言命法kategorischer Imperativによって答えます。

定言命法は、いわゆる「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というものです。これが言わんとすることは、欲求から離れて自律的に、しかも普遍的な仕方で自分に課したルールのみが道徳的である、ということです。誰からも命令されることなく、自分の意志で普遍的な「よさ」を目がけようとする態度、これが定言命法のポイントです。

定言命法については、こちらでも詳しく解説しました → [Q&A]「定言命法」とは?

欲求は捨てきれない

いわゆる「カント主義」は、欲求を克服することが道徳の条件であるとする見方ですが、カント自身は、私たち欲求から完全に離れることはできないという点を深く洞察していました。

私たちは欲求を捨てきれないし、幸福を求める心を捨てることもできない。欲求から完全に離れている(つまり道徳を体現してしまっている)ような存在を仮に想定してみれば、それはせいぜい神のような最高存在でしかない。だから私たちが実際に完全な道徳に到達することはできない。

ここでおそらく、次のような疑問が出てくるのではないでしょうか。「じゃあ、道徳的な人間となる意味なんてあるのか?結局道徳を目指すことに意味なんかないんじゃないのか?」

この問題を解くために、カントは要請Postulatという独自の概念を打ち出しました。

3つの「要請」

確かに現実世界では完全な道徳に到達することができない。しかし私たちは完全な道徳が実現された「道徳世界」を想定することはできるし、その世界が成立する条件を考えることはできる。それは理性の「権利」なのだ。そうカントは考えました。

カントいわく、要請には以下の3つのものがあります。

  1. 自由
    • 欲求に流されずに何がよいかを判断し、行うための条件
  2. 魂の不死
    • 肉体の死によって完全な道徳へと進むことが妨げられてはならないから
    • 道徳世界を作り上げている原因

自由はまだ分かるとしても、魂の不死や神はなかなか納得しがたいはずです。

ただカントは、これらはあくまで要請であり、現実世界に実在すると考えるのは誤っていると考えていました。

現実には魂の不死はありえないし、道徳世界を作り上げている神もいるとは言えない。それらはあくまで、いつか完全な道徳が達成されるための条件でしかない。しかしその条件を見て取ることができれば、私たちが道徳的であろうとする理由や意味もハッキリするだろう。カントの道徳論はこうした構えで書かれたと言えます。

『永遠平和のために』で政治の問題に取り組む

以上の道徳論に基いて著されたのが『永遠平和のために』です。ここでカントはかつての国際連盟、今でいう国際連合のもとになるような政治構想を行いました。カントは次のように問題を設定します。

「戦争が起こりえない永遠平和状態はどのように規定できるか?」

カントの解答は次のようなものです。人間は利己的な欲求をもつため、国家間で戦争が生じることは否定できない。しかし戦争を通じてこそ永遠平和状態は達成される。それは合目的的な自然の「摂理」であって、自然はその目標へと努力するように私たちを義務づけるのだ、と。

このカントの結論は、「核」の存在ゆえに、現代では決定的に妥当性を失ってしまいました。しかし、それでもなおひとつの考え方としてはありえるかなと思います。

主な著書

カントの主著には以下のものがあります。

  • 『純粋理性批判』
  • 『実践理性批判』
  • 『判断力批判』
  • 『人倫の形而上学』
  • 『プロレゴメナ』
  • 『啓蒙とは何か』
  • 『永遠平和のために』

その他、教育論や自然哲学(自然科学の原型)についても著作を残しています。

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