デカルト・哲学早わかり

フランス出身のルネ・デカルト(1596年~1650年)は近代哲学の祖です。「われ思う、ゆえにわれあり」はデカルトの代名詞と言っていいほど、多くの人びとに知られています。

デカルトと中世哲学は、学の普遍性という点において区別されます。自然科学の急速な展開につれて、キリスト教の権威は次第に凋落し、もはや学の根拠をそこに求めることはできなくなりました。「神が世界を創造し人間を創造した」とするキリスト教の教説が、キリスト教が信仰されている地域でしか通じないローカルな物語であることが自覚された時代において、いかに学を立て直すことができるか。これがデカルトの根本の動機にあったと言うことができます。

デカルト以前

デカルト以前、中世ヨーロッパではスコラ哲学が哲学の主流でした。スコラ哲学を代表するトマス・アクィナスが「哲学は神学のはしため(女中)である」と考えていたように、神学が最強の学問であり、哲学は神学を補佐する学問として位置づけられていました。

しかし時代が下るにつれ、スコラ哲学は「一体天使は何人いるのか?」といった、学派的にしか意味のない議論を延々と行うようになり、アウグスティヌスのような初期キリスト教哲学に見られる「本当の生き方とは何だろうか?」というような動機を次第に失っていました。これと並行して、懐疑論が力をもつようになり、学問の意義それ自体が疑われるようになりました。

方法的懐疑の意義

デカルトの方法的懐疑は、まさにこうした状況において生まれてきたものです。デカルトは方法的懐疑によって学問の基礎を敷き直そうとしましたが、これは「真理の基礎づけ」というようなことではなく、学問の基礎を明確にし、その意義をハッキリさせることがデカルトにとっての目的でした。

私たちの誰もが、理性を備えているかぎり、方法的懐疑を行うことができる。「われ思う、ゆえにわれあり」の正しさは、私たちが自分の理性によって確かめ直し、吟味・検討できるはずだ。その確かめ直しの可能性が保証されていること、これが学の第一の条件である。その直観がデカルトの方法的懐疑を支えている最も重要なポイントです。

物語に依拠せず再検証の可能性を確保するという方法は、まさしく自然科学の基礎となりました。たとえばニュートン力学の体系は、誰もが実験によってその妥当性を確かなおすことができ、もしそれが確認できなければ、より普遍的な理論を置くことができる仕組みになっています。このことが、相対性理論と量子力学がニュートン力学を拡張する仕方で成立してきたことの認識論的な背景にあります。

方法的懐疑は共通了解の可能性を規定するために考えられた方法

確かに、厳密に言えば、思考(=思う)から存在(=あり)をダイレクトに導くことはできません。それは色々な哲学者がすでに指摘していますし、自分でちょっと考えればすぐに分かります。ただそれは二の次の話です。

方法的懐疑は、誰もが納得でき、かつ、そうせざるをえない地点から出発することで、共通了解がどの領域まで可能なのかを規定するための方法として考えだされました。デカルトはしばしばヨーロッパ中心主義と批判されることがありますが、むしろ、文化や時代性の違いを超えて誰もが共有できる知の根拠を置くことにより、ヨーロッパ中心主義を何とか脱却しようとしていたと言うのが正当な評価です。

主な著書

デカルトの主な著作には以下のものがあります。

  • 『方法序説』
  • 『世界論』
  • 『省察』
  • 『哲学原理』
  • 『情念論』

デカルトは決して多作ではありませんが、それでもなお哲学の歴史では非常に重要な位置を占めています。哲学で重要なのは著作の多さではなく、原理の深さと鋭さであること。デカルトを読むとそのことがよく理解できます。

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