事後的に批判しないこと

これまでの哲学には、現代の見地からすればナンセンスな議論が数多くあります。プラトンは『パイドロス』で、私たちが善や美が何であるかを分かっているのは、私たちの魂が肉体へと降りてくる前にイデアの世界を巡ってきたからだと論じました。スピノザは世界の事物はそれぞれが神の属性だといいましたし、ヘーゲルは世界史とは絶対精神の運動だと考えていました。

こう見てみると、現代に生きる私たちはどうしても「昔の哲学者はアホだったんだな」と思ってしまいがちです。アホとまでは行かなくても、あまりに古すぎて理解するに値しない、と思ってしまうかもしれません。

国家主義?

たとえばヘーゲルは『法の哲学』で、私たちの自由の最終形態は「国家」であると論じました(外的な事情がそうさせた側面があるようですが)。国家のために犠牲となることは個々人の義務である。個々人が自分の自由を放棄する勇気は、むしろ普遍的な自由を実現するのだ。国家の独立こそが国民の第一の自由であり、最高の名誉であるとさえ主張していました。

勇気のこの形態は、つぎのような最高諸矛盾の厳しさを含んでいる。すなわちこの勇気が、自由の放棄そのものでありながら、しかも自由の顕現であるという矛盾 …

… その諸外国のおのおのが他の諸外国に対して独立しているのである。この独立において現実的精神の対自存在が現存在をもつのであるから、独立こそ一国民の第一の自由であり、最高の名誉である。

マキャヴェリもまた、国家の独立を自由と関係づけて論じた哲学者のひとりです。彼は『政略論』(ディスコルシ)でローマ帝国があれだけ強大な国家となりえた理由のひとつには、国民が自分の利益よりも公共の利益を優先したことがあった、と主張していました。

その国王の絆から脱したローマがあの大帝国へと成長をとげていったことについては讃嘆のあまり言うべきことばを知らないほどである。その理由はいとも簡単に理解できる。つまり個人の利益を追求するのではなくて、公共の福祉に貢献することこそ国家に発展をもたらすものだからである。しかも、このような公共の福祉が守られるのは、共和国をさしおいては、どこにもありえないことはたしかである。

… あらゆる思惑を捨てさって、祖国の運命を救い、その自由を維持しうる手だてを徹底して追求しなければならない。

後出しジャンケン

確かに、現代の視点をそのまま適用すれば、ヘーゲルやマキャヴェリの議論はきわめて国家主義的です。現代において「祖国を守り自由を維持する方法を考えなければならない」と主張すれば、かなり偏った思想をもっているひとと思われるに違いありません。

しかし現代の視点で歴史上の哲学者の学説をジャッジするのは“後出しジャンケン”のようなものです。

哲学書を評価するときの大原則は、その時代にどのような問題があり、これを解決するためにどのような方法を示したか。そしてその方法は問題をきちんと解決しているのかという3つを確認することです。このことからすると「マキャヴェリは国家主義者だ」という批判は、批判の要件を満たしているとはいいがたい。

具体的に言うと、以下のような感じです。

たとえばこれから何万年か後に、地球に宇宙人がやってきたとします。友好的であれば問題ありませんが、必ずしもそうとは限りません。自分たちの星で資源が無くなり、地球に攻め入って資源を奪おうとしているかもしれないからです。その場合、おそらく現代の国際問題のようなものが宇宙へと舞台を移すことでしょう。

2012年に公開された『バトルシップ』というSF映画はこうしたテーマを見事に描き出しています。批評家には酷評されているようですが、独自の魅力がありますので、もし時間があれば見てみてください。

スターウォーズ
「いまこそスターウォーズに学べ」と言い出す哲学者もいるかも

ここまで事態が進展するとこんなことを言う思想家が出てくるかもしれません。「これまでの哲学は地球中心主義だった」「哲学は地球人のみを考察の対象として、宇宙へと目を向けることを避けてきた」、と。

ここで言いたいのは要するに、そういう批判がダメだということです。

現代社会が直面している喫緊の課題は、国家間のすさまじい格差を縮小させ、国際的なテロや紛争の脅威を可能な限り縮減させ、地球上の人びとが一般に平和と自由を享受できるための条件を見いだすことです。

もちろん、宇宙の存在を無視していいわけではありませんが、現代の主要な課題は宇宙ではなく地球上にあります。それらの問題に対してどれだけ普遍的な原理を示すことができるかということが重要な課題なのであって、地球ばかりに目を向けていることそれ自体が批判の対象になるわけではありません。

数学と同じ

事後的な批判が無意味だという点では、哲学よりも数学のほうが分かりやすいかもしれません。

哲学と数学は、いわゆる文系と理系という対立においては、まったく正反対の事柄のように思えるかもしれません。ただし、提示された問題の意味、問題に対する解法の妥当性、その解法の原理的な射程。この3点に着目して学説を吟味したうえで、それを乗り越える新たな原理を提示してきたという点で、それらは深く共通しています。というのも、こうした一連のサイクルによって、学問一般は進展してきたからです。

哲学と数学は、その歴史が、それ自体として、概念の展開の歴史であるという点で深く共通しています。昔の数学者が実数しか知らず複素数を知らなかったために批判することはできませんし、ユークリッドが平行線公準を前提していたからといってバカにするのはまったくのナンセンスです。哲学も全く同様です。「昔の哲学者の説はどれも誤っているなフフン」と批判しても、それは本質的な意味では批判とは言えないものです。