ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』を解読する

『哲学探究』は、ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)の著作だ。1936年から1945年にかけて書かれた手稿と、1947年から1949年に書かれた手稿をまとめて、彼の死後、1953年に出版された。

ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(以下『論考』)にて、言語と世界の対応関係について、要素命題と「事態」の同型性、つまり論理形式の共有という観点から論じていた。要素命題は事態と形式を共有しているので、世界の像を作ることができる。本書でヴィトゲンシュタインは、言語ゲームという概念に基づき、この前提を一から考えなおす。

ゲームと言われると、初めはピンとこないかもしれないが、そのポイントは、言語はルールに基づき行われる営みだという点にある。

語に対応すべき対象があらかじめ定まっているわけでも、初めからその対応関係を知っているわけでもない。言葉の意味はそういうものではなく、言葉を使っているうちにその使い方が分かってくるという仕方で理解されるものである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

ヴィトゲンシュタインは『論考』によって、語りうるものと語りえないもの、明確に考えうることとそうでないことを区別し、それによって哲学は終ったと考えた。そして、捕虜生活から解放された後(『論考』は第一次世界大戦の任務に就いているなか書き上げられた)、小学校の先生として働き始めた。そのときヴィトゲンシュタインは、生徒に自由に作文をさせ、教師は誤っている箇所を指摘するだけで、生徒にみずから誤りを発見させるという形式の(当時としては画期的な)授業を行っていたという。こうした営みなどを通じて、ヴィトゲンシュタインは、『論考』のアプリオリな論理形式という考え方を最初から考え直し、言語を人間関係のうちでなされるゲームとして考えるようになったのだ。

では早速、本文を見ていくことにしよう。

「ダイイシ!」

最も単純な言語ゲームとして、ヴィトゲンシュタインは次のような例を示す。

Aは石材によって建築を行なう。石材には台石、柱石、石版、梁石がある。BはAに石材を渡さねばならないが、その順番はAがそれらを必要とする順番である。この目的のために、二人は「台石」「柱石」「石版」「梁石」という語からなる一つの言語を使用する。Aはこれらの語を叫ぶ。―Bは、それらの叫びに応じて、もっていくよう教えられたとおりの石材を、もっていく。―これを完全に原初的な言語と考えよ。

家を組み立てている大工のやりとりを考えてみよう。親方Aが「ダイイシ!」と叫ぶと、助手Bが台石を持っていく。このとき、Aは別に、「Bよ、私に台石を持ってきてくれ」と言っているわけではない。にもかかわらず、Bは、Aの「ダイイシ!」を理解し、それに応じて台石を持っていく。「ダイイシ!」に対して、「はい、これは台石です」と返答できたとしても、その言葉を理解したことにはならない。言葉は、言語ゲームのうちでその使い方を理解したときに初めて理解したといえる。そのようにヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

直示的定義の根拠

Finger pointing.
Finger pointing.

私たちは、台石を指さして、「これが台石である」と言うとき、それが台石であることを理解する。そのように対象を直接に示して定義することを、ヴィトゲンシュタインは直示的定義と呼ぶ。一見ここには何の不思議もないように見えるが、少し考えてみると、事態は決してそう単純ではないことが分かる。

「これを二という」―と言って二つのくるみを指す―といった二なる数の定義は、完全に精確である。―だが、それなら、どうして二というものをこのように定義できるのか。この定義を与えられた者は、「二」ということばによってひとが何を名ざそうとしているのか分らず、このくるみの集まりが「二」と呼ばれているのだ、というふうに受けとるだろう。

直示的定義は前提がなければ成立しない。なぜなら直示的定義は、色々な仕方で解釈されうるからだ。ヴィトゲンシュタインは言う。「ものの名を問うことができるためには、ひとはすでに何かを知っている(あるいは、することができる)のでなくてはならない」、と。「これを二という」という言葉が通じるには、私たちは、この「これ」が何であるかを、すでに分かっていなければならない。あるひとが突然上を指差して「これを二という」と言っても、それだけでは、彼が何を意味しているのか分からないだろう。

生活様式の一致

ただ、ヴィトゲンシュタインはここで、直示的定義は不可能だと言っているわけではない。そうではなく、直示的定義は、状況や関係性に応じた解釈を必然的にともなうため、アプリオリに(経験に先立って)行うことはできないということ、言いかえると、経験の構造に共通性があれば、その限りにおいて直示的定義は成り立つということだ。ヴィトゲンシュタインは言う。

「言語ゲーム」ということばは、ここでは、言語を話すということが、一つの活動ないし生活様式の一部であることをはっきりさせるのでなくてはならない。

言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活様式の一致なのである。

生活様式を共有している限りにおいて、言語ゲームのうちで直示的定義は可能となる。経験の類似性が言語ゲームにおける一致の根拠である。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

ヴィトゲンシュタインは、小学校教師の経験から、言語ゲームにおける要求-応答を言語ゲームの原型と考えるようになった。そのことは本書や、本書に先立つ『青色本』にもあるとおりだ。その点からすると、ヴィトゲンシュタインによれば、直示的定義は、私たちが生のうちで十分な経験を積んだときに成立することになる。

ただし、ここでいう対象は、『論考』のように、固有の形式を備えた究極単位として要請されているわけではない。むしろそれは、言葉を使ううちに次第に分かってくるようなものなのだ。

では、それは一体何だろうか。

「範型」が言語ゲームの要素

ここで『論考』の全体的な枠組みを再確認してみたい。ヴィトゲンシュタインは、世界を有意味に語ることができるためには、以下のような構造が言語と世界の間に成立していなければならないとした。

名辞 - 対象

要素命題 - 事態

複合命題 - 複合的な事態

言語 - 世界(事実の総体)

以上の構図から導かれる点を踏まえると、『論考』の要点はおおよそ次のようにまとめることができる。

  • 世界は「事実」からなり、事実は成立した「事態」からなる
  • 事態は成立しているか、あるいは成立していないかのいずれかである
  • 事態は「名辞」から構成される「要素命題」に対応する
  • 要素命題に「論理操作」(否定、かつ、または…)を行い、要素命題同士を組み合わせることで「複合命題」が構成される
  • 論理操作の回数に制限はないので、複合命題のパターンに論理的な限界はない
  • ただし、対象が経験されうる範囲は「私」の世界のうちに限られているので、実質的には限界がある
  • 言語の限界の外側は、思考の外側である
  • 思考の外側は語りえないもの(倫理など)
  • 語りえないものについては、沈黙しなければならない

『論考』の議論は、命題と事実の間に同型性が存在するという直観によって支えられている。その同型性が論理形式と呼ばれているものだ。命題と事実が論理形式を共有しているので、言語は世界を写し取る(写像する)ことができる。これが『論考』の基本の考え方だ。

対象は経験に先立ち、単純なものとしてあらかじめ存在している。この『論考』の前提を、ヴィトゲンシュタインは根本から考え直し、いまや次のように考える。要素は観点に相関して存在する。絶対的に単純な要素があるわけではない。要素は「範型」(パラダイム)であり、叙述のための道具なのだ、と。

まさにこのことは、第四八節の言語ゲームにおける一要素について、われわれがそれを名指しながら「R」という語を発音する場合に、あてはまる。われわれは、そうすることによって、このものに自分たちの言語ゲームの中で一つの役割を与えたのである。それは、いまや、叙述の手段なのである。

言語ゲームの類似性

名辞が指示する対象は、絶対的な単位ではなく、「範型」である。範型は言語ゲームの道具であり、言語ゲームは生活様式の一部である。生活様式は厳密な一致がありえず、ただ類似性をもつだけである。それゆえ、言語ゲームもまた、類似性をもつにすぎない。

われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代りに、わたくしは、これらの現象のすべてに対して同じ言葉を適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、―これらの現象は互いに多くの異なったしかたで類似しているのだ、と言っているのである。

もし対象を絶対的な単位として規定することができれば、どこまでが「語りうるもの」であり、どこからが語りえないものであるかを、厳密に規定することができる。だが、ヴィトゲンシュタインいわく、範型は、状況と経験に応じて規定される言語ゲームの道具なので、厳密な同一性を保証することはできない。それゆえ、ゆるやかな仕方でしか言語ゲームの境界は定めることができない。

ヴィトゲンシュタインは、「われわれが境界を知らないのは、境界線など引かれていないからだ」と言う。これはつまり、境界線は経験に先立ってあらかじめ引かれているわけではなく、言語ゲームの状況とその目的に相関する形でしか引くことしかできないということだ。「正確である」ということも、この文脈にてようやく意味をもちうる。

「不正確」ということは、もともと非難さるべきこと、「正確」ということは称讃さるべきことである。そして、このことは、不正確なものはもっと正確なものほど完全にその目的を達成しない、ということである。だから、そこでは何を「目的」と呼ぶかが問題になる。わたくしが太陽までの距離を一メートルまで正確に述べなかったり、家具師に机の幅を〇・〇〇一ミリまで正確に言ってやらなかったりすると、不正確ということになるのか。

たとえば学校の授業という言語ゲームにおいては、太陽までの距離が1メートルずれていたところで、不正確とは言えないだろう。だが宇宙船の打ち上げミッションという言語ゲームにおいては、致命的な問題となるはずだ。

何が言語において正確であるかどうかは、それ自体で規定されるわけではなく、範型を設定する目的に応じて定まってくるしかない。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

ゲームの規則は慣習的

言語ゲームは生活様式のひとつであり、その境界線は、生活のうちでの経験と目的に相関する形で初めて引くことができる。この観点から見ると、言語ゲームの規則もまた、あらかじめ規定されているわけではなく、ただ経験に応じて定まってくるだけだということになる。

ある規則に従い、ある報告をなし、ある命令を与え、チェスを一勝負するのは、慣習(慣用、制度)なのである。

慣習といっても、これは相対主義的に「しょせん一切は慣習にすぎない」ということではない。ここで言われているのは、生活様式が変様すると、言語ゲームも変わらざるをえず、規則もまた同様であるということだ。ルールに絶対の根拠はなく、だからといって相対的であるわけでもない。

他人の「痛み」

『論考』においては、世界は「私」が経験できる限りの世界であり、他人の存在しない独我論的な世界だった。だが本書においては、他人は言語ゲームのプレイヤーとして位置づけられる。

ここでヴィトゲンシュタインは、他人のもつ感覚、なかでも痛みを問題とする。

『論考』の観点では、他人の感覚、たとえば痛みを理解することはできない。それは直接に経験できないし、検証することもできない。したがって他人の痛みにについての命題には真偽が存在せず、問答無用にナンセンスとなる。だが言語ゲームのうちでは、経験の共通性がある限りで、直示的定義は可能となる。痛みもまた同様だ。

人間のようにふるまうものについてのみ、ひとは、それが痛みを感じている、と言うことができる。

確かに私は他人の痛みを直接にイメージすることはできないが、経験の類似性に基づいて理解することができる。経験の類似性は、身体の類似と生活形式の類似に基づく。言いかえると、人間としての共通性が、痛みの感覚の理解を支えているはずである。そうヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

その点からすれば、私たちは、たとえば注射を打つときに他人がどのような痛みを感じているかを理解することはできるが、死の痛みを理解することはできないことになる。その痛みは、ただイメージすることしかできず、直示的に定義することはできない。なぜなら、死は生という言語ゲームから退場することであり、振る舞いの一致という可能性が失われる、まさしくその瞬間にほかならないからだ。

生の一部としての言語ゲーム

Language Game
Language Game

以上、『探究』のポイントを確認してきた。最後に要点をまとめてみよう。

本書でヴィトゲンシュタインは、『論考』の写像説のかわりに、振る舞い一致図式を示している。『論考』では、論理形式の同型性が一致を支えているとされていたのに対し、『探究』では、経験の同型性が言語ゲームにおける一致を支えているとされる。

経験が厳密に一致することはない。それぞれの言語ゲームに応じて、経験は異なったものとなるからだ。だが、しかし、生活形式を共有しており、振る舞いの一致が見られるなら、そこに共通の理解が成立していると言っていいはずである。そのようにヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

振る舞いの一致よりも、意識における確信として

生活形式の共通性に言語ゲームにおける一致の根拠を置くことにより、本書でヴィトゲンシュタインは、『論考』の言語観を拡張したと言うことができる。論理的真偽判断に基づく言語は、言語ゲームのひとつのあり方でしかない。それ以外の事柄についてのおしゃべりは慎まなければならないという考え方は、彼にとって、もはや満足のいくものではなくなったのだ。

ただし、他人の感覚の理解という点では、ヴィトゲンシュタインが明快に問題を解いているとは言いがたい。その理由は、本質的には、彼が言語ゲームから知覚や意識における表象(イメージ)を排して、振る舞いの一致に理解の根拠を置いていることにある。心の痛みや苦しさは、振る舞いを通じて理解できることもあれば、できないこともある。私たちはそれを押し隠すことができるからだ。

それでは、一体どのように考えればいいだろうか。

ひとつの方向性としては、他人の感覚については、振る舞いの一致よりも、意識における確信という観点から考えれば、よりよく納得することができる。

私たちは他人の言語表現だけでなく、表情や仕草、口調をもとに、「このひとは苦しんでいるな」という確信を抱いたり抱かなかったりする。そのことは関係性にも依拠する。彼が親友であり、心の底を見せあうような間柄であると信じているなら、ウソをついていないという確信を抱くはずだ。

確かにそれはあくまでも私の確信を超えない。だが、そうした疑いを引き起こす条件が現れない限りは、私は彼が本当に苦しんでいるという揺るがしがたい確信を抱き続ける。経験と確信のこうした関係性は、フッサールが『イデーン』で「連続的調和」と呼んでいるものにほとんど重なる。

私たちは、言語ゲームのうちで、相手が“実際は”何を考え、感じているのかを理解することはできない。仮に振る舞いが一致しようと、それはウソかもしれないからだ。そのことを含めて論じるためには、振る舞いよりも、意識における確信として考えるほうが明快だ。このことは私たちの経験を辿りなおしても確かに納得できるはずだ。

不安の人ヴィトゲンシュタイン

本書でヴィトゲンシュタインは、共通の理解が成立するための条件として、いわゆる「本質」が共有されていなければならないという考え方を明確に否定している。

その背景には思うに、ヴィトゲンシュタインがつねに不安を抱えており、素朴に何かを信じることができなかったことがある。

私たちは、論理学的に真偽判定できるものだけが語りうるものであるとした『論考』からも、また、言語ゲームに本質は存在せず、ただ類似性があるだけだとした本書からも、疑いえない根拠を置くことに対して彼が強い不安を抱いていたことを感じ取ることができる。

ヴィトゲンシュタインを、相対論的経験論者に転向した元論理学主義者と見なすのは正当ではない。彼自身、おそらく、言語ゲームの相対性を説くポストモダン的な論調に同意することはなかっただろう。ちょうど『論考』を一面的にしか捉えなかった論理実証主義に全く賛同しなかったのと同様に。ヴィトゲンシュタインはそうした素朴な独断論に生涯陥らなかった。しかしそれは、共通了解に対する可能性を信じていたからというより、何も信じられないのではないかという不安にさいなまれていたからだ、と考えるほうが妥当であるように思う。

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