ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を解読する

ヴィトゲンシュタイン
ヴィトゲンシュタイン

本書『論理哲学論考』は、オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889~1951)の著作だ。1918年に執筆され、1921年に出版された。

ヴィトゲンシュタインの思想は、大きく前期と後期に分けられる。本書は前期の代表作だ。後期の代表作は『哲学探究』(未完)である。『論理哲学論考』以外の著作はいずれも、彼の死後まとめられた。

ヴィトゲンシュタインは本書で、思考の限界を画定しようとする。思考の限界を画定することで、私たちは有意義な(=真偽の判断を下すことができる)命題と、そうでない命題を区別することができる。この区別をはっきりさせることで、それまでの哲学は語りえないものをあれこれ語ろうとしていたが、それはすべて無理な試みだったことが分かる。そうヴィトゲンシュタインは論じている。

この洞察は、カントの『純粋理性批判』における伝統的な形而上学批判を思い起こさせる。事実、本書は、それまでの哲学の構図を大きく塗り替えた。ヴィトゲンシュタイン以後、言語を哲学的あるいは論理学的に考察することが、哲学におけるひとつの主要なテーマとなったのだ。

なお本書では、箇所によってはきわめて難解で、とても読みにくく、研究者の間でも意見が分かれることがある。なので以下では、重要な構造にのみ着目していくことにしたい。興味があれば、ぜひ自分でチャレンジほしい。もちろんその際には「難解だからこそ何か真理が潜んでいるはずだ」という先入観を取り外して、フラットに読むことが大切だ。

言語と世界の対応関係

本書におけるヴィトゲンシュタインの基本の構えは、言語と世界は対応関係にあるはずだ、というものだ。言語が最小単位の命題にまで分解できるように(これをヴィトゲンシュタインは要素命題と呼ぶ)、世界もまた最小の要素に分解することができると考えるのだ。

そこでヴィトゲンシュタインは、世界は「物」の総体ではなく「事実」の総体であり、事実は成立した「事態」からなるとする。事態の成立に応じて、事実が定まる。ここでのポイントは、事態は相互に独立しているということ、また、事態は「対象」同士の結びつきによって成立するということだ。ヴィトゲンシュタインによれば、対象は「単純」であり、それ以上分解することはできない。また、対象は事態のうちにしか存在しない。したがって、事態と対象が世界の基本単位ということになる。

ただ、ここでヴィトゲンシュタインは、対象が最小単位であること、また、事態が相互に独立していることの根拠について論じているわけではない。そのことはあくまでも「そうでなければならない」という仕方で要請されているだけだ。

「論理形式」と「写像」

ともあれ、ヴィトゲンシュタインによると、世界が正しく記述できるためには、世界の単位が確定できなければならず、また、世界の単位と記述の単位が同型でなければならない。そうした同型性を、ヴィトゲンシュタインは「論理形式」と呼ぶ。

思考された世界が現実の世界とどれだけ異なっていようと、明らかに、その思考された世界は現実の世界と何らかのもの、すなわち形式を共有していなければならない。

論理形式は、対象同士が結びつく“幅”によって規定されている。たとえば、「花」は「美しい」とは結びつくことができるが、「円周率」とは結びつくことができない。対象にはそれ固有の形式があり、形式を共有するかぎりにおいて、相互に結合することができる。この結合関係を言語によって写し取ることで成立するものを、ヴィトゲンシュタインは「像」と呼ぶ。

これを逆に言うと、対象と「像」の共通性が、事態の写し取り(=写像)を可能にしていることになる。その共通性それ自体を写し取ることはできない。「像は写像形式を写像することはできず、ただそれを示すだけである」。

像は現実のモデルである。

諸対象は、像において、像の諸要素に対応している。

ここで重要なのは、像の要素である命題は、事態を描写するときに限り、真偽の判断を行うことができるということだ。

命題は「名辞」からなり、事態の成立あるいは不成立を描写する。事態の成立と不成立は、命題の成立と不成立と一致し、そうした一致の可能性をもつ命題のみが意義をもつとされる。言いかえると、成立しない事態についての命題は意義をもたない。先ほどの例を使うと、「花は円周率である」という命題は、成立しない事態なので、意義をもたない、というわけだ。

さて、ここまでの議論を振り返ってみよう。初めにヴィトゲンシュタインは、世界を単位まで分解する。世界は「事実」からなる。事実は成立した「事態」からなり、事態は「対象」の連関として成立する。ヴィトゲンシュタインは、事態と対象を世界の単位として規定したのち、言語に着目し、対象と論理形式を共有する「名辞」と「要素命題」を言語の単位として規定するのだ。

論理操作の反復で「語りうる」すべての命題を構成できる

ヴィトゲンシュタインによると、要素命題に論理操作を行うことで、複合命題が作られる。論理操作とは、「否定」や「ならば」、「かつ」などによって命題同士を結びつける操作のことをいう。

ヴィトゲンシュタインは、論理操作の反復可能性が、世界記述の可能性を充たしていると考える。反復可能性というと難しく聞こえるかもしれないが、これは、要素命題に「否定」を加えたり「かつ」を施したりしていくことで、世界を、ちょうど数列のように記述していくことができるということだ。

要素命題の成立あるいは不成立は、経験的に検証できる。したがって、要素命題の集まりである複合命題は、要素命題の検証を踏まえて検証することができる。論理操作は命題同士を関係づけるだけであり、命題そのものを変化させるわけではない。事態が相互に独立であるという前提を取る以上、ある命題に論理操作を施すことが他の命題に影響を及ぼすことは、原理的にありえないからだ。

私に一切の要素命題が与えられていると仮定してみよう。そのとき、単に次のような問いが残される。どの命題を私は要素命題から構成することができるのか、と。これが全ての命題であり、そのような仕方で命題は限界づけられている。

ここでまとめてみよう。世界が正しく記述できるためには、世界は事態と対象に落とし込むことができなければならず、それらと形式を共有する名辞と要素命題を規定できなければならない。それができれば、あとは論理操作を繰り返し、要素命題同士を関係づけていくことで、事実についてのすべての可能な命題が構成できることになる(もっと正確に言うと、その可能性が論理的に保証されている)。それらの命題が、「語りうるもの」についてのすべての命題にほかならない、とヴィトゲンシュタインは考えるのだ。

論理学の命題はつねに「真」

Infinite.
Infinite.

「私」の世界は、その立ち現れ方が私の経験に応じてつねに編み変わるような性質をもっている。これに対して、経験に関わらずつねに真であるような命題がある。ヴィトゲンシュタインによると、それは論理学の命題だ。

論理学の命題は、トートロジー(同語反復)である。

トートロジーとは、たとえば「夜霧は夜の霧である」というものだ。経験的な真偽について語っておらず、ただ論理の必然性だけを示す命題がトートロジーと呼ばれる。それは経験にかかわらずつねに真である。したがって、論理学の命題もつねに真である。それは経験に基づいて真偽が確かめられる命題とは区別しなければならない。そうヴィトゲンシュタインは考える。

論理学の命題は、時間や場所や状況にかかわらずつねに真である。一見それがどうしたと思うかもしれないが、実はそのことが世界記述の客観性を保証する重要な条件なのだ。

論理学の命題はトートロジーである。これは言いかえると、論理操作をどれだけ(たとえ無限に)繰り返したとしても、その正確性が保証されているということだ。

もし世界の正確な模型を作ろうと思えば、道具の尺度はつねに一定である必要がある。昨日30cmだった定規が、明日には20cmになるようなら、その模型の品質を保証することはできないだろう。1メートルはいつでも1メートル、1キログラムはいつでも1キログラム。パーツの長さや重さが正確に測ることができるからこそ、正確な模型が作ることができるし、その模型の品質を保証することができる。論理学の命題がトートロジーであることの意義はこの点にある。

独我論的世界

論理操作による反復可能性には限界がない(=論理空間を充たしている)。だが、実際に「私」という主体が世界のすべてを言い表せるわけではない。というのも、私にとって、経験していないものは対象となりえず、それゆえ名辞に落とし込むことはできないからだ。

経験的な実在は、もろもろの対象の総体によって限界づけられる。その限界は、要素命題の総体のうちにおいて再度現れ出る。

私は、自分の経験の範囲内においてしか、対象を取り出し、名辞を組み合わせ、要素命題を作りあげることができない。確かに、名辞の組み合わせのパターンには取りうる“幅”がある。「花」は「白い」とは結びつくが、「円周率」とは結びつかない。だが、そもそも「花」が何なのか知らなければ、これが何と結びつきうるのか見当がつかないはずである。

私の生の内実は、対象とその配置の仕方によって定まってくる。それゆえ、私と異なる経験をもちうる他者は、私の世界には存在しないということになる。

世界と生はひとつである。

私は私の世界である。

私は私だけの世界を生きており、そこに他者は存在しない。ヴィトゲンシュタインのいう世界とは、他者の存在しない、ただ私だけが生きている独我論的な世界なのだ。

価値や意味は世界の外にある

最後にヴィトゲンシュタインは「倫理」について論じる。

世界の意味は、世界の外側に存在していなければならない。世界のうちでは、一切はあるがままにあり、起こるがままに起こる。世界のうちには、いかなる価値も存在しない。

それゆえ、いかなる倫理学の命題もまた存在しえない。

ヴィトゲンシュタインによると、世界は事実の総体だ。事実は成立している事態からなり、事態は要素命題によって言い表される。要素命題は名辞からなり、名辞は対象に対応している。対象は私によって経験されるものであり、対象の経験が私の世界を限界づけている。そうヴィトゲンシュタインは論じていた。

ではここで、倫理はどのように位置づけらればよいのだろうか。倫理は「このようにある」ではなく「このようにあるべき」という法則に基づく。したがって倫理学の命題は直接に検証できない。実際に成立している事態だけが直接に検証しうるものであるからだ。

直接に検証できない事態について語ることはできない。したがって「生の問題」については何も言うことができない(=語ったところで、それはナンセンスとなるしかない)。それはただ示されるだけである。それゆえ、次のようになる。

語りえないものについては、沈黙しなければならない。

注意すべきだが、ヴィトゲンシュタインはここで、世界に「生の問題」など存在しないと言っているわけではない。そうではなく、たとえこの世界においてではないとしても、それらは確かに存在していなければならないというのだ。世界の意味について語りえないからといって、それを否定するのでも軽視するのでもない。それらを示されるがままに、ひとつの「神秘」として受け入れるほかない、と考えるのだ。

言語と世界は直接に対応している?

本書の議論を振り返ってみよう。

――世界は「事実」に分解される。事実は「事態」からなり、事態は単純な「対象」からなっている。事態は相互に独立している。対象と名辞は「論理形式」を共有する限りで、命題に写し取る(=写像する)ことができる。写し取られた命題は、論理操作(否定、かつ、または…)によって結びつけられ、それによって複合命題が成立する。複合命題の真偽は、要素命題の真偽を検証することを通じて検証される。それゆえ世界を作りあげている「事実」は、検証の積み重ねによって、経験的に検証することができる。

しかしそのことは、世界と言語の対応関係も経験的にしか分からないわけではない。論理学の命題は、これとは異なる水準にある。論理学の命題は、対象の経験にかかわらず、つねに真となる。それゆえ、要素命題を論理操作によって結びつけていくことで世界を記述する可能性が、経験に先だってあらかじめ保証されている。

また、倫理についての命題は事実に依拠しないので、真理条件をもたない。それゆえ、人生における意味や価値については語りえない。なぜなら価値は世界の外側になければならないからである。「語りえないものについては、沈黙しなければならない」。それはただ、示されるがままに受け入れるしかない――。

言語と世界の対応関係については、おおよそ次のようにまとめられる。

名辞 - 対象

要素命題 - 事態

複合命題 - 複合的な事態

言語 - 世界(事実の総体)

『論考』から『探究』へ

ヴィトゲンシュタインは本書で、語りうる領域、すなわち思考しうる領域と、語りえない領域の境界を画定しようと試みた。では、果たしてそれは成功しているだろうか。

ここで着目すべきなのは、言語と世界の対応関係だ。ヴィトゲンシュタインは、事態が相互に独立であるという前提のもとで議論を行っているが、果たしてその前提はどこまで妥当だろうか。たとえば、「この花は白い」は「この花は青くない」を含んでいる。事態の解釈は多義性をもつため、事態を一義的に写し取ることはできない。また、対象と名辞の関係については、あらかじめその名辞が対象に対応することが分かっていなければ、そもそも、その対応関係を見て取ることはできない。単純に名辞と対象が対応しているとは言えないのだ。この点についてヴィトゲンシュタインは、『哲学探究』で直示的定義という概念を置いて考察している。

確かに、本書を読むと、ヴィトゲンシュタインが哲学に大きなインパクトを与えた理由がよく分かる。言語と世界は対応している。言いかえると、本当に語りうるものは、ただ事実についてのみである。そうではない「倫理」について軽々しくおしゃべりすることは、厳に慎まねばならない。語りえないものについては、沈黙しなければならない。この論理的、というより倫理的な態度が、伝統的な形而上学批判以上の意味で、当時の知識人の実存に強い影響を与えたことは否定できない。

だが、より驚かされるのは、本書の約10年後、哲学の問題を解決したとそれまで確信していたヴィトゲンシュタインが、再び言語の問題に立ち帰り、言語について一から考え直しはじめたということだ。社会的に高い評価を受ける業績を残し、賛同者が集まってくると、その業績に問題点を見つけても、なかなかそれを直視できないのが人情だ。しかしヴィトゲンシュタインは、本書の前提を徹底的に吟味し、言語について改めて考えなおした。その結果残されたのが、後期の代表作である『哲学探究』だ。

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