ヴェイユ『自由と社会的抑圧』を解読する

本論『自由と社会的抑圧』(『自由と社会的抑圧の原因をめぐる考察』)Réflexions sur les causes de la liberté et de l'oppression socialeは、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909年~1943年)による著作だ。1934年に書かれた。

マルクス主義に噛みつく

シモーヌ・ヴェイユ
シモーヌ・ヴェイユ

本論の主題は、一応、自由な社会について構想することだ。ここで「一応」というのは、初めに「自由の本質は何か?」と問いを立て、これに対して原理を示そうとするかわりに、ヴェイユは真っ先にマルクス主義への批判を行っているからだ。

ただ、本論のマルクス主義批判がどれだけ有効なのかについては、かなり疑わしい。というのも、同郷のベルクソンが『時間と自由』でカントに対して行ったのと同様に、ヴェイユは概念にイメージを対置するという仕方で批判を行っているからだ。

ヴェイユは本論で、生きた時代が重なるケインズのように、それまでの経済学説が陥っていた根本的な問題を取り出し、それを解決するような世界観を提示しているわけではない(ケインズの主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』が発表されたのは、本論が発表された2年後の1936年)。わずか120枚程度のタイプ原稿にそれを求めるのは酷かもしれないが、イメージによっては誰もが納得できる世界観を示すことができないことも確かだ。

それでは、以下、本文に沿ってヴェイユの主張を確認していくことにしよう。

搾取は大工業がある限り無くならない

エンゲルス
エンゲルス

まず初めに、マルクス主義的な世界観のポイントを確認しておきたい。

マルクスの相棒フリードリヒ・エンゲルスは、マルクス主義の入門書『空想より科学へ』で、大体次のように論じていた。

近代に入ると、資本主義的な生産方法によって、労働手段は集積された。工場が現れ、計画的な分業が行われるようになった。

資本主義では、「生産の無政府性」と呼ぶべき事態が生じる。資本家は競争に負けないよう、資本家は機械をどんどん改良する。その結果、労働の過剰供給が生じ、失業が生じてしまう。その一方で、資本家には富が集中する。生産手段を所有する資本家が生産物を所有するからだ。

ここで、資本家階級ではなく、社会が生産手段を所有すれば、労働者がこれを直接にコントロールできるようになり、搾取は無くなる。生産力を資本家階級の手から奪い、それを社会による所有へと渡すことによって、搾取はもはや生じえなくなるのだ。

ポイントをひとことで言えば、ヴェイユが本論で言いたいのは、資本家と労働者のどちらが生産手段を所有しようと、それが「大工場主義」を取り続ける限りは、搾取は無くならないし自由な社会も実現できない、ということだ。

なるほどマルクスは、労働者が搾取される真の理由が、享受と消費にむかう資本家の欲望ではなく、競合する他企業をしのぐべく、可及的すみやかに自企業を拡大せねばならぬ必然性にあることを論証した。ところで、競合相手の集合体と戦う武器を鍛えるのに最大の時間をつぎこむべく、配下の成員の消費を極限まできりつめる必要があるのは、企業だけではない。労働者を擁するあらゆる種類の集合体も同じである。したがって、この地表に権力闘争が存在するかぎり、そして勝利の決定要因が工業生産であるかぎり、労働者は搾取されつづける。

企業と企業を掌握する人びとにたいする労働者の完全なる従属は、工場の構造にもとづくのであって、私的所有の体制にもとづくのではない。

要するにこういう具合だ。

大工場の分業生産では、ベルトコンベアー式ルーティーンを延々と繰り返させることで、労働者から思考能力が奪われる。そのため、労働者が生産手段を手に入れたところで、上から指図する指揮官とその命令に従う犬、という構造を維持している限り、どんなに頑張っても搾取が消えることはない。

言われたとおりの作業しかできない労働者が自由になれるわけがない。言われたとおり以上の作業ができる(創造性を発揮できる)労働者を輩出することが、自由な社会のカギとなる。思考とか実践とか、難しい概念を用いてはいるものの、本論でヴェイユが言いたいのは、実のところこれに尽きる。

生産性が無限に増大する保証はない

ヴェイユいわく、マルクスは生産力が無限に増大すると暗黙のうちに認めていたが、そのことは決して保証されているわけではない。むしろ疑わしい、という。

労働生産性を高めるために、人びとがこれまで取って来た方法は、主に3つの段階に分けることができる。第一段階は自然エネルギーを活用すること、第二段階は労働の合理化、第三段階はオートメーションだ。

連続的な大量生産システムで運用されるのでなければ、自動機械群は利益をもたらさない。したがって、その運用は過度の経済的集約がひきおこす混乱と濫費にむすびつく。他方、それらの機械群は、現実の諸欲求を満たす必要をこえて、はるかに多くを生産する誘惑を生みだし、人的労力と物的資源という宝を益なく費消する。

とりあえず当座はつぎのことを了解するだけでよい。すなわち、今後の労働生産性の進歩の可能性については疑いの余地がないとはいえず、また、どうみても生産性は高まるよりも低くなると考えたほうが、現状ではよほど理にかなっている。さらにこれこそもっとも重大なことであるが、生産性の持続的かつ限界なき増加などは厳密にいえば構想しえないのである。

そうヴェイユは言うが、具体的な根拠があってそう論じているわけではない。機械が過剰生産の誘惑を生み出すと言われると、何となくそれらしく聞こえるが、思いつきの域を超えていない。

「指揮官-犬」構造

工場自体のあり方を変える必要がある、とヴェイユ
工場自体のあり方を変える必要がある、とヴェイユ

ヴェイユは、続けて次のように言う。

分業が推進されれば、専門家とそれに従う人びと、という構造が生み出される。

マルクス・エンゲルスは資本家階級がみずからの利益を守るために国家や警察といった制度を生み出すと論じた。しかし、この構造を解消しない限り、大多数の人びとはいたるところで服従を強制される。生産手段が社会に属そうと、そのことは変わらない。

国家による抑圧が、人民から峻別される常設の管理装置の存在、すなわち官僚・軍事・警察の装置に依拠することを、マルクスは明確にみてとった。しかし、これら常設の装置は、管理機能と遂行機能のあいだに事実として介在する根源的区別から不可避的に生じる結果なのだ。この点についてもまた、労働運動はブルジョワ社会の悪弊をそっくり再生産する。

自然による抑圧からの解放は見かけだけであり、現代の労働者はかつてと同じ隷従状態にある。これは、誰かが考え、それに従って大多数が動くという構造(ここではそれを「指揮官-犬」構造と呼んでおきたい)を変えない限り、解決することはできない。マルクスはこのことに気づかなかった、とヴェイユは主張する。

自由な社会=肉体労働社会

以上を踏まえ、ヴェイユは次に、ではどうすれば指揮官-犬構造を解消することができるのか、という問いに取り組む。

ここでのカギは、言われるがままに動くのではなく、自ら進んで問題を発見し、これに取り組む創造性を発揮できるような労働者だ。指揮されずとも自ら進んで動ける労働者が自由な社会の軸になるはずだし、そうでなければならないとヴェイユは考える。

こうしたイメージから、ヴェイユは自由とは何であるかについて論じる。つまり、自分の思考が「実践」に反映されるとき、ひとは真に自由となるのだ、と。

肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。

人間は限界を有する存在なので、神学者たちの神のようには自己の存在の直接的な創始者たりえない。だが、人間に存在をゆるす物理的な諸条件が、もっぱらおのれの筋肉の努力を導く思考のわざであるとき、人間は神的な権勢に対応する等価物を手にするだろう。それこそが真の自由なのである。

これは言い換えると、自分で絶えず考え、解決策を見出そうとする姿勢で貫かれるような労働こそが、自由な社会の軸になるということだ。

ヴェイユは、労働こそ社会の中心となるべきであり、学問や芸術もまた、労働に固有の正確さと厳密さに倣わなければならない、と考える。この意味で、ヴェイユのいう自由な社会は、労働社会、もっと言えば肉体労働社会にほかならない。

人間の弱きを考慮するならば、労働の観念すら喪失したような人生が、さまざまな情念やおそらくは狂気にすらさらされるだろうことは、充分に理解できる。

自己にうち克つ機会を与えてくれるのは、ぶつかって乗りこえねばならぬ障碍である。学問や芸術やスポーツのようにこのうえなく自由とみえる活動でさえ、労働に固有の精確さ、厳密さ、細心さを模倣し、ときには凌駕しさえするのでなければ、なんの価値もない。

先述の分析が正しければ、もっとも完璧に人間的な文明は、肉体労働を中枢に擁する文明、肉体労働が至高の価値を構成する文明だろう。

ただし、肉体労働はあくまでも「人間を目的」とするべきであり、生産物そのものを目がけるのであってはならない。

肉体労働は、労働がもたらす生産物との関連ではなく労働を実践する人間との関連において至高の価値となるべきであって、名誉や報酬の対象であってはならない。個々の人間にとっての肉体労働は、おのれの生が自身の眼にもそれじたいで価値と意味を有するために個人がもっとも本質的に必要とするなにかを構成すべきである。

ルーティーンではなくクリエイティヴィティ(創造性)を

みんなで一緒に作業に取り組むべき
みんなで一緒に作業に取り組むべき

むろん、肉体労働といっても、ヴェイユからすれば、工場で指図されている限り、状況は何も変わらない。誰かに問題の解決法を考えてもらっている間は、単にルーティーンをこなしているのと同じことだ。

では、どうすればよいか。

ヴェイユは次のように考える。すなわち、つねに「方法的思考」(=創造性)を発揮するような労働こそ真に自由な生産方式である、ルーティーン化された労働が、創造性による労働に対して優位に立つべきではない、と。

まったき自由をそなえた唯一の生産様式とは、方法的思考が労働の全過程で機能するような様式だろう。克服すべき困難はあまりにも雑多なので、あらかじめ定まった規則の適用などできるわけもない。もちろん、獲得された知識に出番がないという意味ではない。だが労働者には、自身がおこなう労働に指示を与える構想を、つねに精神に現前させておくことが求められねばならない。それも、構想を了解したうえでたえずあらたな様相を呈する個々の例にそれを適用させるというやりかたで。

本文では、構想を精神に現前させるとか、構想を個々の例に適用させるという仕方で論じているが、これは要するに、的確な現状把握に基づき、臨機応変に創造性を発揮することが大事だ、ということだ。

みんなで一緒にがんばろう!

以上を踏まえて、ヴェイユは、各人が創造性を発揮し、ともに尊敬し合う社会こそ自由・平等・博愛の精神に満ちあふれた唯一の社会であると論じる。

みんなで一緒に考え、ともにコントロールし、それでいて各人が独立しているような社会こそが最善の社会である。それがマルクス主義を乗り越える方向性だ、とヴェイユは考えるのだ。

職工長の監視下で流れ作業にたずさわる労働者の一団は、哀れをさそう光景である。一方、ひと握りの熟練労働者がなんらかの困難に足止めを食らい、めいめいが熟慮し、さまざまな行動のありようを呈示し、他の仲間にたいする公的な権威の有無にかかわらず、だれかが構想した方法を一致団結して適用するさまは、みていても美しい。

社会の進歩は何より個々人の努力にかかっている。集団、国家、権力に任せてはならない。指導者-犬構造ではなく、自主的なコラボレーションにより個々の力を結集することで、初めて自由な社会は実現できる。そうヴェイユは主張する。

社会が進展する諸原因は、個としての人間の日常的な努力にのみ求められるべきだろう。

個として行動する人びとの啓かれた善意こそが、社会進歩にとって唯一の可能な原理である。

現代社会は非人間的

軍需産業に従事する女性たち
軍需産業に従事する女性たち

現代社会からは方法的精神(=創造性)が消えつつあり、個人が数学、科学などの全体像を見渡せなくなっている。

労働では機械が主役になり、生産物の交換には貨幣が使われるようになる。このシステム全体が私たち人間の手を離れ、独立して動くようになる。

この流れに応じて、以下の2つの現象が現れてくる。ひとつは、国家が経済・社会の中心になること、もうひとつは、経済が軍事に従わせられるようになることだ。こうした社会は戦争準備を中心に動くようになる。

かかる変容をこうむった社会的生の主軸となるのは、戦争準備をおいてほかにない。権力闘争が征服と破壊によって、換言すれば拡散された経済戦争によって遂行される以上、本来の意味での戦争が前面に押しだされても驚くにあたいしない。

未来の労働社会

最後にヴェイユは、創造性を発揮する労働者のモデルとして、熟練労働者を挙げる。

ヴェイユは熟練労働者を、第一次世界大戦前に現れた労働者のタイプとして最も美しいものである、と称揚し、彼らの労働モデルを参考にすれば、機械化を押しとどめ、工業化では対応できない労働様式を生み出すことが出来るはずだ、という希望を置く。

無数の小工房に分散された産業形態をもってしても、工作機械の逆方向への進展を誘発することはできず、同時に、近代工場の最先端技術による労働をもしのぐ高度な意識と創意工夫を求める労働様式を誘発することもできないとは、だれにも断言できまい。電気がこの種の工業組織に適するエネルギーを賄いうるとすれば、いよいよもって期待は大きくなろう。

レトリックで装飾した青年期的ロマン

本論には、大工場で働いたヴェイユ自身の経験が反映されている。だが率直なところ、ここでのヴェイユの議論は、経験の過度の一般化に支えられていると言わざるをえない。

文学的レトリックに満ちあふれているが、原理はない。いたるところに青年期的ロマンが顔をのぞかせている。残酷な言い方をすれば、とがった文才だけでかろうじて生きているような作品だ。

ヴェイユは、大工場化への流れを食い止めるためには、各人が努力しなければならない、という。だがそうした言い方は、ヴェイユ個人の夢想に支えられたものにすぎない。まず初めに「こうあるべき」という理想を置き、それに合致するよう、議論を後付け的に組み立てている感が、どうしても否めないのだ。

自由の条件について考えること

とりわけ、自由についてはその傾向が強い。

ヴェイユは思考と実践の合致に自由があるとしていた。これに対する素朴な疑問としては、「思考と実践が完全に一致することなどあり得ないのではないか?」というものがすぐに思いつく。ヴェイユは、そうした疑問に対する予防線として、それらの完全な一致はあり得ず、理念はそのものとして通用するのだ、という予防線を張ってはいる。

しかし、実現の見込みがない理念を目がけることは、信仰という形を取る以外には不可能だ。

確かに、理念を現状のほうから批判するのは哲学的には良くないやり方だ。だが、ここで大事なのは、私たち自身の経験のうちから概念の意味を見て取ることにある。

たとえば、私たちが三角形が何であるかを知っているのはなぜだろうか。それは、三角形について学校で教わり、何度も知覚し、それについて考えた経験があるからだ。厳密か否かは関係ない。超越項としての「完全な自由」という概念は、初めから形而上学的なものだ。

そこで、考えるべき方向性としては、私たちにとって自由とはどのような意味をもち、どのような条件で確信されるか、ということだ。

ヴェイユは本書で大工場生産に問題があると論じていた。だが、その点について論じる以前に、いかなる条件で私たちは自由を確信しうるかという点について考えることが必要だ。というのも、単純な話、仕事仲間との間で創造性を発揮するにせよ、それが何らかの外的な条件により強制されれば、自由を確信することは、およそできないからだ。

創造性とコラボレーションが自由の条件であるというのは、あまりにももろい議論だと言わなければならない。

アーレントと比べると…

本論はマルクス主義的世界観に潜む(ヴェイユからすれば)欺瞞を指摘したという点では興味深いが、マルクスに正面切って勝負を挑んだアーレントと比較すると、ヴェイユの存在感はひどく霞んでしまう。

労働は「必要」(必需)に応じて行われるものなので、そこに自由を求めるのは最初からズレている。自由は労働のうちにではなく、諸個人の間で行われる言論ゲーム(活動)のうちにある。なので課題は、いかにして労働が生において占める割合を減らし、活動の割合を増やすことができるかにある。そうアーレントは『人間の条件』で論じていた。

ヴェイユもアーレントも、マルクス主義的世界観を批判したという点では共通する。しかし議論の普遍性という観点で言えば、両者には明らかな違いがある。文才ではヴェイユが勝るかもしれないが、原理ではアーレントが圧倒的だ。

『人間の条件』はこちらで解説しました → アーレント『人間の条件』を解読する

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