ヴェーバー『職業としての学問』を解読する

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ヴェーバー『職業としての学問』を超コンパクトに要約する

『職業としての学問』は、社会学者マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)が当時の大学生に向けて行った講演の内容をまとめた著作だ。講演は1917年のミュンヘン大学で行われた。1919年に発表された。

当時のドイツでは、第一次世界大戦の敗戦が濃厚となりつつあり、大学生の間では、「学問が人生や世界の意味を明らかにしてくれるのではないか?」という期待感が生まれつつあった。本書は、そうした気風を感じ取った軍人タイプのヴェーバーが、「意味を一挙に解明してくれるような超越項など存在しない」とニーチェばりに看破し、「学問を職業とするかぎりは、本当に取り組むべき根本問題に、着実に、日々コツコツと取り組まねばならない」と説く学問論だ。

これに加えて、本書では価値自由世界の脱呪術化(魔法からの世界解放)といった、合理性と並ぶヴェーバーの重要な概念も示されている。以下ではそれらについても確認することにしたい。

冒頭でヴェーバーは当時のアカデミズムの状況について論じていますが(「大学のポストに就くのは運次第の側面がある」など)、あまり重要ではないと思うので割愛します。

隣接領域の縄張りに入るべからず(?)

ヴェーバーは次のように言う。

いまや学問はかつて見られなかったほど専門化が進んでいる。おそらくこの傾向はこれからもずっと続くだろう。

私たちはもはや、ただ自分の専門に閉じこもることによってしか、学問上で何かを成し遂げることはできない。隣接領域の縄張りを侵すようなことは諦めなければならない。

いわば「遮眼革」(馬が前方しか見えないように視野をさえぎる装具)を着用することのできない人、たとえば写本のある箇所の正しい解釈を導くことに全身全霊で取り組むことができないような人は、およそ学問には縁がないのだ。

こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られるのである。これはたんに外的条件としてそうであるばかりではない。心構えのうえからいってもそうなのである。われわれも時折やることだが、およそ隣接領域の縄張りを侵すような仕事には一種のあきらめが必要である。

学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる。

いわばみずから遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。

…とあるが、かく言うヴェーバー自身、社会学にとどまらず、経済学や、歴史学、宗教学などにおいて優れた業績を残したことを忘れてはいけない。そもそも、ヴェーバーがここで言う「隣接領域」が、現代におけるそれと同じものを指しているとは限らない。もしかしたらヴェーバーは、それらの学科を一括して「文化科学」(いまでいう人文科学)と呼んでおり、それに対置される自然科学を隣接領域と考えていたのかもしれない。

いずれにせよ、今日において、ヴェーバーのこの主張を額面通り受け取ることには、かなりの問題があると言わなければならない。

自分の取り組むべき問題(Sache)に専心せよ

ヴェーバーは、学生たちに「専門の領域に専心せよ」と言っておきながら、自分の側では様々な領域で多くの業績を残した。

これは矛盾ではないだろうか?そう見ることも出来なくはない。しかし自分の発言に対して強い責任感をもつヴェーバーが、果たして適当なことを言うだろうか?

むしろ私には次のように思える。ヴェーバーは自分が本当に取り組むべき問題をしっかりとつかんでいたために、それまでの既成の学問の枠組みを止むに止まれず踏み越えていくほかなかったのだ、と。なぜならヴェーバーは、学者たるもの、自分の取り組むべき問題(「仕事」「事柄」、Sache)に専心しなければならないと考えていたからだ。

学問で個性が生まれてくるとすれば、それはただ自分の「事柄」に専心することによってのみだ。

しかもこのことは学問だけではなく、芸術についても当てはまる。偉大とされる芸術家はいずれも、自分の「事柄」以外のものに取り組んだためしはない。

学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。しかも、このことたるや、なにも学問の領域にばかり限ったことではない。芸術家でも、自分の仕事Sacheに仕えるかわりになにかほかのことに手を出した人には、われわれの知るかぎり偉大な芸術家は存在しないのである。

学問の進歩とは「主知主義的合理化」の過程

ところが学問と芸術は同じものではない。なぜなら学問は、芸術と異なり、絶えまない進歩の過程のうちにあるからだ、とヴェーバーは言う。

ただし、学問は次の点で芸術と異なる。それは学問が絶えず進歩するよう運命づけられているということだ。

学問に生きるものとしては、後世の人びとがわれわれよりも高い段階に到達することを想定しておかなければならない。

ヴェーバーによれば、こうした学問の進歩は、合理化、とりわけ主知主義的合理化の過程の一部をなしている。

主知主義?

主知主義的と言われると、難しく聞こえるかもしれない。

もともと主知主義とは、認識論において、認識の起源を意志、とくに情念や感情に求めるのではなく、分析的で知的に把握する理性に求めようとする態度のことを指している(逆の立場は主意主義という)。

「認識の起源は知性と意志のどちらにあるか?」このように問いを立てると、私たちはどうしても「認識の起源がどちらかにあるはずだ」と考えてしまう。

しかし認識論的に言って、この問いは絶対的な答えの出ない性質のものだ。ニーチェが論じたように、私たちは、自分の認識を反省的にしか見て取ることができず、それゆえ認識そのものではなく、認識の現象を、結果として受け取ることしかできない(『権力への意志』)。認識の起源が知性であるという命題は、原理的に検証不可能なのだ。

では主知主義的合理化とは?

ただ、もちろん、ヴェーバーは認識論的な意味で主知主義と言ったわけではない。主知主義の原語はIntellektualismusなので、「知性主義的合理化」と訳しても、そんなに外れているわけではない。

ともあれ、ヴェーバーによれば、主知主義的合理化の意味はおおよそ次のようなものだ。

そうしようと思えばどんなことでも知ることができること、したがって、そこに何か神秘的で予測しえない力が働いているのではなく、すべての事柄は原則的に予測可能かつ操作可能であること、これらのことを信じているというのが、主知化し合理化しているということの意味である。

このことをヴェーバーは、世界の脱呪術化(魔法からの世界解放)Entzaubarung der Weltと呼ぶ。

「世界の脱呪術化」によって、技術と予測が、呪術の代わりをつとめるようになる。このことが合理化の内実である。つまり合理化の本質が「世界の脱呪術化」である、とヴェーバーは言う。

このことは魔法からの世界解放ということにほかならない。こんにち、われわれはもはやこうした神秘的な力を信じた未開人のように呪術に訴えて精霊を鎮めたり、祈ったりする必要はない。技術と予測がそのかわりをつとめるのである。そして、なによりもまずこのことが合理化の意味にほかならない。

ここでヴェーバーのいう「予測」は、『国家社会学』などにおける「計算可能性」と、ほぼ同じ意味だ。「計算可能な法律と官僚制が資本主義経済を支える本質条件である」というのがそこでのヴェーバーのポイントのひとつだった。

自然科学は世界の意味を教えてくれない

ヴェーバーは続けて次のように言う。

天文学や生物学、物理学などの自然科学が、世界の意味を教えてくれると考えるのは大間違いだ。仮にそうしたものがあるとしても、それら諸学の学的認識によってそれを跡づけることはできない。むしろ自然科学は、世界に何らかの意味があるに違いないという信念を打ち崩してきたのだ。

確かに、ヴェーバーの言うように、自然科学が生や世界の意味を教えてくれることはない。このことはハッキリしている。

ただしこのことは、私たちが学問の一切の分野で意味一般を探求してはいけない、ということと必ずしもイコールではない。なぜなら哲学はこれまで、意味の探求を中心問題のひとつとして取り組んできたからだ。

意味を探求する学問=本質学

エトムント・フッサール
エトムント・フッサール

現象学を打ち立てたエトムント・フッサールは、主著『イデーン』において、学問を事実学と本質学に区別し、前者を実在するモノについての学問(つまり経験科学)、後者を経験の本質(意味)についての学問と捉えた。

ここでのポイントは、学問には意味を探求するのに適した領域と、そうではない(そうすべきではない)領域があるということ、そして両者にはそれぞれに適した方法があるということだ。

ただ、注意しておきたいが、フッサールのいう意味とは、世界のどこかに隠されているようなもの(いわゆる「世界の究極の意味」)ではなく、あくまで私たちの意識における経験のうちから観て取られるものに限られる。さらに言うと、意識の外側に意味が実在するというのは、現象学的には背理だ。

前者が学問の対象とならないという点においては、ヴェーバーの言い方はまったく正当だ。しかし後者に関してはどうだろうか。これは本質学の領域で扱うことができる。そうフッサールは考えた。私には、ヴェーバーよりもフッサールの言い方のほうが説得力があるように思えるが、どうだろうか。

学問の価値は人びとの解釈に委ねられている

ヴェーバーによれば、学問の価値、つまり結果が「知るに値する」かどうかは、人びとの解釈にまかせることしかできない。ある学問から導かれる結果が重要かどうかを、学問それ自体が論証することはできない。そうヴェーバーは言う。

ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない

それはただ、人々が各自その生活上の究極の立場からその研究の成果がもつ究極の意味を拒否するか、あるいは承認するかによって、解釈されうるだけである。

これを受けてヴェーバーは、「では、この事実に対して、学問に携わる者はどう対するべきか?」という問いを置き、次のように答える。

まず、自然科学においては、学者はただ学問それ自体に奉仕するべきであり、そこから「世界のあるべき姿」を導こうとする試みは控えなければならないという。自然科学の成果をどう評価するかは、ただ人びとに委ねられているからだ、と。

自然科学の場合、自然法則が知るに値するのは、ただ自然科学それ自身のためである。忘れてはいけないのは、自然法則をいくら探求したところで、それが理想の世界像を示してくれることはないし、私たちが自然科学にいかに関わるべきかについて、自然科学の方から答えを与えてくれるようなこともない、ということだ。

また、経済学や国家学といった社会科学においても、自然科学と同様の態度が求められる。とりわけ政策は教室で取り上げられるべきトピックではない。教師が学生に対して自分の価値観を強要することがあってはならないからだ。そうヴェーバーは主張する。

教師に求められるのは知的廉直である。それはつまり、文化的対象の論理的関係や内部構造について事実を確定することと、その文化的内容についての価値判断の問題や、当の文化においていかに生きるべきかについての問題に答えることが、全く異質の「事柄」であることを理解していること、これである。

一方では事実の確定、つまりもろもろの文化財の数学的あるいは論理的な関係およびそれらの内部構造のいかんに関する事実の確定ということ、他方では文化一般および個々の文化的内容の価値いかんの問題および文化共同社会や政治的団体のなかでは人はいかに行為すべきかの問題に答えるということ、—このふたつのことが全然異質的な事柄であるということをよくわきまえているのが、それである。

これが有名なヴェーバーの「価値自由」Wertfreiの規準だ。

価値自由=事実と価値を「区別」すること

誤解されがちだが、ヴェーバーは、事実(あるもの)と価値(あるべきもの)を徹底的に「区別」せよと言っているのであって、価値に関係しない事実認識が可能であると言っているわけではない。つまりデュルケーム的な意味での「社会的事実」が認識可能であると言ったわけではない。

むしろヴェーバーは、私たちの認識はそもそも価値相関的であるため、認識の客観性を担保するためには、価値を学問的な命題の妥当根拠へと持ち込まないよう、自らを厳しく律しなければならない、と考えていたのだ。

デュルケームの認識構造が素朴な「主観-客観」図式のもとにある一方で、ヴェーバーはニーチェ的な価値・観点相関性の図式のもとにあり、その点で両者は本質的に異なる。認識論的に見れば、ヴェーバーのほうが原理的だ。

価値自由については、こちらで詳しく解説しました → ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を解読する

「運命」が価値秩序の争いの決着をつける

ヴェーバーは続けて次のように言う。

学問的に特定の価値観を強要できない理由はほかにもある。それは、今日の価値秩序は解決しがたい争いのうちにあり、そこで決着をつけるのはただ「運命」のみであるからだ。

こんにち世界に存在するさまざまの価値秩序は、たがいに解きがたい争いのなかにあり、このゆえに個々の立場をそれぞれ学問上支持することはそれ自身無意味なことだからである。

そして、これらの神々を支配し、かれらの争いに決着をつけるものは運命であって、けっして「学問」ではない。

「運命が決着をつける」とヴェーバーは言うが、これは別に根拠があるわけではない。

自分の世界観と整合する立場を取れ

学問は究極的な価値を支持することはできない。だからこそ、ヴェーバーによれば、次のことが肝心となる。それはつまり、現在の自分の立場が、自分の世界観の根本態度から整合的に導かれるようなものであらねばならず、それゆえに、自分の行為の究極的な意味については、みずから責任を取れるのでなければならない、ということだ。

われわれは諸君につぎのことを言明しうるし、またしなくてはならない。これこれの実際上の立場は、これこれの究極の世界観上の根本態度—それは唯一のものでも、またさまざまの態度でもありうる—から内的整合性をもって、したがってまた自己欺瞞なしに、その本来の意味をたどって導きだされるのであって、けっして他のこれこれの根本態度からは導きだされないということがそれである。

われわれもまた、われわれの任務をわきまえているかぎり—そしてこのことはここでは当然の前提である—各人にたいしてかれ自身の行為の究極の意味についてみずから責任を負うことを強いることができる

信じる価値が各人各様であるからといって、何でもかんでも好き勝手に表現するようになると、学問という営みそれ自体が崩れてしまう。なので、なぜ自分がこういう議論を展開したのかについては、各人がそのことを整合的に説明できなければならない。自分が行った議論については、各自が責任を負わなければならない。そうヴェーバーは言うわけだ。

「日々の要求」に従おう

最後にヴェーバーはこう主張する。

主知主義的合理化の進んだ世界、脱呪術化が進んだ世界においては、かつて見られたような崇高な諸価値を公的な場所で見出すことは困難となる。したがって私たちは、自分の取り組むべき問題に専心し、ただひたすら「日々の要求」に従うことにしよう。学問のうちに何か君たちを導いてくれるようなものを待ちこがれても、何事もなされることはないからだ。

トラブルを回避せず、問題・困難に立ち向かえ

ヴェーバー
ヴェーバー

価値自由の概念については、いまでもなるほどと思わせられるところがある。学問の世界に関わっていると、「私のこの研究は主流ではないけれど、学問的には実は価値あることなのだ」と、暗黙のうちに考えているような人に出くわすことも少なくない。研究の価値は一般的な人びとの判断に最終的に委ねざるをえないというヴェーバーの直観は、まったくそのとおりだ。

だが、現在とヴェーバーの時代とでは、学問の置かれている状況は全く異なる。「専門バカ」という言い方さえあるように、現代はむしろ学問の専門化・細分化の時代だ。学問相互の知見を交換し合うことはほとんど不可能となり、学科の内部でさえ話が通じないことが当然となってしまった。

ヴェーバーの講演は、浮ついている(ようにヴェーバーに映った)学生たちに向けられている。彼らに情熱はあったが、事実につくすという心構えが足りなかった。だから「日々の要求」へと帰れ、と彼らに説いたのだ。ヴェーバーがニーチェの「末人」der letzte Mensch, the last manの概念で学者たちを批判しているのは、この文脈で考えると分かりやすい。末人とは、困難や問題に立ち向かってこれを克服しようとするのではなく、なるべくトラブルを避け、自分自身がそれなりに幸福であることが一番の関心事であるような(ニーチェからすれば)近代的人間の典型のことだ。

そもそも本当に解決すべき根本問題や、それに取り組むだけの気概が欠けていることは、専門分野に取り組む以前の話であり、そうした末人は最初から学問を職業とするに値しない。ヴェーバーが言わんとするのはそういうことだ。もしこの著書が大学の授業で取り扱われているなら、担当の先生が末人かどうかチェックしてみるといいかもしれない。学者は専門の領域に閉じこもっていなければならないという箇所をとりわけ強く押し出してきたら、そのひとは、まさに末人である。

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