ヴェーバー『国家社会学』を解読する

『国家社会学』は、ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864年~1920年)の主著『経済と社会』(1922年)に収録されている国家論だ。

本論でヴェーバーは次のような問いに取り組む。「社会学的には、近代国家の本質は何か?また近代国家における政党、議会の本質は何か?」

ひとことで言うと、近代国家とは合法的な支配関係であり、専門的官僚制と合理的法律を備えた合理的国家である、というのがヴェーバーの解答だ。

「合理的国家」においてのみ近代資本主義は成立

ヴェーバーによれば、「合理的国家」としての国家は、ただ西洋にのみ存在した。

東アジアや西アジアには、たとえば中国やモンゴル帝国のように、近代ヨーロッパをはるかに上回る広さの領土を手中に収めた国家があった。しかしヴェーバーはそれらを合理的国家には含めない。なぜなら合理的国家の本質は専門的官僚制と合理的法律だが、近代ヨーロッパ以外の国家にはそれらが欠けていたからだ。そうヴェーバーは考える。

ここでヴェーバーが合理的国家を問題とするのは、近代資本主義は合理的国家においてのみ成立しうる、と直観していたからだ。

ヨーロッパの中世から近世にかけて経済活動を牛耳っていたのは教会であり、当時は修道院が合理的経済の担い手だった。しかし後に教会が禁欲的理想を復活させようとしたため、代わりに王侯が合理的経済政策を施行しようと試みた。重商主義が現れたのはこのタイミングである。

重商主義とは、貿易収入と租税にもとづく近代的権力国家の形成を意味している。というのも重商主義国家は「資本主義的企業」のように振る舞い、対外的支配力を増加させることを目的とするからだ。

では、なぜ重商主義国家=合理的国家においてのみ、近代資本主義は成立できるのか。ヴェーバーによれば、その理由は、形式的かつ計算可能な専門的官僚制の司法制度にある。

あらゆる神権政治とあらゆる絶対主義の司法は、実質的傾向をもっている。逆に、官僚制の司法は、形式的・法律的傾向をもっている。この形式主義的な法律は、計算可能なものである。

「計算可能」はちょっと分かりにくいかもしれない。これは“合理的な予測可能性”と言い換えると分かりやすいだろう。ある条件・状態が~であれば、合理的に考えると次の状態は…となるはずだ。こうした予見・予期が成立している状態を、ヴェーバーは計算可能と呼んでいる。

これを簡単に言い換えると、おおよそ次のようになる。

資本主義が成立するためには、法律といった合意にもとづく「一般ルール」が、掟や宗教、暗黙の慣習といった「習俗のルール」の上位にあるのでなければならない。もしそうでなければ、その国家において資本主義経済は成立しえない。

時代性を考慮する必要があるが、以下のヴェーバーの例えは大変分かりやすい。

中国にあっては、次のようなことも起り得る。ある男が他人に家を売ったが、暫くして後に、買い手の所へやって来て、貧乏してしまったからもとの家に入れてくれという。買い手がもし同胞扶助という古代中国の掟を無視するならば、神霊のたたりがある。そこで、貧乏した売り手は、強制借家人として、家賃なしに、もとの家に住み込むことになるのである。こういう法律をもっては、資本主義が経営を行うことは不可能である。資本主義に必要なのは、機械の如く計算の可能な法律である。祭祀的・宗教的及び呪術的見解は、何等の役割も演じてもならないのである。そういう法律は、近代国家が国力増強の要求を貫くために法律家と提携することによって、始めて生れ出たのである。

ヴェーバーの代表作に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』がある。誤解されがちだが、ヴェーバーは、決して現代の資本主義がキリスト教に支えられていると言ったわけではない。そのような強引な理論が成立しないことはヴェーバー自身がよく理解していた。プロテスタンティズム(カルヴィニズム)のもつ合理的禁欲の性格が初期の資本形成を可能とした一因である。そう主張していたにすぎない。

とはいえ、官僚制と合理的法律があれば十分であるわけでもないだろう。資本主義の成立には複数の要因が関わっていたはずだからだ。たとえば複式簿記のような会計技術や株式がなければ、資本主義がここまで拡大することはなかったに違いない。

国家=合法的な物的強制力に基づく支配関係

さて、ウェーバーは続けて次のように言う。

国家については、活動の内容から定義することはできない。近代国家の本質を社会学的観点から取り出すためには、国家に特有の手段、つまり「物的強制力」に着目することが必要となる。

国家とは、合法的な物的強制力を独占する人間共同体である。ただ国家のみが強制力を正当に行使する権能をもつ。その意味で国家は合法的な強制力に基づく支配関係である。

国家とは、歴史的に国家に先行する政治的団体と同様、合法的な(というのは合法的とみなされた)強制力の手段にもとづいて人間が人間を支配する支配関係である。国家が存続するためには、被支配者は、その時々の支配権の要求する権威に服しなくてはならぬ。

ヴェーバーによれば、国家とはひとつの関係であり、その関係は支配関係である。

支配関係と言われると、たとえば力で誰かをねじ伏せるといったイメージが思い浮かぶが、ヴェーバーいわく、国家の支配関係においては、そこに正当性があるかどうかが本質的な問題となる。正当性は国家が国家であるための最低条件だ。そうヴェーバーは言う。

正当性というとよく「正当性を調達する」という言い方がされる。国家は教育やイデオロギーなどによって自らを正当化する装置、システムである。国家はもともと悪であり、教育やイデオロギーなどを利用してみずからを正当化する、と。これはマルクス主義からポストモダン思想にいたる基本的な構えだ(例えばアルチュセール)。しかしヴェーバーはそのように考えない。国家=悪という命題には何の根拠もない、というわけだ。

では、その正当性の根拠は何だろうか。ここでヴェーバーは次の3つをあげている。これが有名な「支配の三類型」だ。

第1は伝統の権威だ。これは「昔からそうだった」の妥当性と、その伝統を習慣的に守ろうとする気持ちの2つによって神聖化された風習のもつ権威のことだ。家父長制の国家がこれに基づいていた。

第2はカリスマの権威だ。これは指導者自身の卓越性や、神がかり的なスゴさに対する信頼に支えられている。たとえば預言者やデマゴーグ、政党のリーダーなどがカリスマ的支配を行っている。

そして第3は合法性だ。合法的な支配は、支配の権限が合法的な規定に基づいて妥当に与えられており、かつ支配はその権限によって行われているので、それに反対することは不当であるという確信に基づいている。こうした形態での支配は、近代の国家官僚によって行われている。

近代国家では、伝統の権威やカリスマ性は支配の正当性の根拠とはならない。たとえ現状では国家がそれらに依拠しているとしても、そのことは正当性の問題とは別の話だ。そうヴェーバーは言う。

近代国家=官僚主義的な「経営体」

ヴェーバーによれば、社会学的には、近代国家は工場と同様にひとつの「経営体」であり、しかも官僚主義的な経営体だ。

これはどういうことかというと、およそ次のような感じだ。

近代以前では、国家の行政手段と行政スタッフが明確に切り離されていなかった。しかし近代国家では行政スタッフが行政手段(=物的強制力)から、また、それに対する支配力から完全に切り離されている。このことが近代国家の概念の本質にある。

最後にみいだされるのは、近代国家にあってはあらゆる政治的運営手段に対する支配力が、事実上ただ一点の尖端に集中すること、また自分の支出する金銭や、自分の自由に使用する建物、貯蔵品、道具、軍需機械などの個人的所有者であるような官吏は、もはやただ一人も存しないことである。

運営手段に対する支配力は、行政スタッフがそれに服従し命令に応じるところの権力によって掌握されている。この権力のもとに運営手段が集中することで、官僚主義が用いる「器具」(裁判官や官吏、士官など)が生まれ、機能するようになる。

「器具」のニュアンスは少し分かりにくいかもしれない。

官僚制においては、裁判官や官吏はどこぞの家系が代々務めるというようなことはなく、基本的に誰に対しても開かれており、能力などの条件が満たされていれば、貧乏だろうと田舎出身だろうとそれに就くことができる。こうした官僚制における運営手段の一般性が、「器具」の概念に込められているポイントだ。

ヴェーバーによれば、こうした「器具」を備えた官僚制国家への進展は、近代資本主義の発展と深く関わっている。近代資本主義における企業の経営は、明確な基準(条例、法令、法律などの一般ルール)に基いて合理的に計算できる司法と行政が不可欠だからだ。この点についてはすでに確認したとおりだ。

官僚制化の流れのうちで、どうすれば自由を確保できるか?

ここでヴェーバーは次のような興味深いことを言っている。

いったん官僚制が支配的になったところでは、官僚制が支えていた文化それ自体が崩壊するのでない限り、消滅したという事例は歴史上まったく知られていない。官僚制は不可避的であり、私たちは官僚制化の絶え間ない流れのうちにいるのだ。

この根本的な事実を前にして、私は次の問いを置いてみたい。それはつまり、官僚制への絶対的な流れのうちで、私たちはいかにして「個人主義的な」行動の自由を確保することができるか、というものだ。

私たちは、この人権の時代から得られた成果を捨てて生活することはできない。そう考えるのは、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。

ヴェーバーはしばしば官僚制を「鉄の檻」というメタファーで表現する。こう聞くと官僚制はいわば監獄であり、そこからは誰も逃れられない、というようなイメージが浮かび上がってくる。しかしヴェーバーはそこでポストモダン思想的なシニシズムにはおちいらない。彼は自分の発言に強烈な責任感を抱いているがゆえ、「自由の不可能性」とかその他もろもろを“放言”するほどに、自分を貶めることができないのだ。

以上が国家に関する議論だ。

政党の本質

次にヴェーバーは「政党」について論じる。

ヴェーバーによれば、政党とは宣伝の組織だ。何の宣伝か?ある政治的地位、とくに議会に当選するための宣伝だ。つまり投票獲得が政党の本質的な目的だ。この点に対してはいわゆる“道義的な”非難が投げかけられるかもしれない。しかしそうした非難は政党の存在理由を否定することにはまったくつながらない、とヴェーバーは言う。

今日では政治的地位への、あるいはある決議機関内への当選を目指すところの、投票獲得が政党の目的である。

政党闘争それ自体を除去することは、積極的な国民の代表の存在を全面的に打ち消すのでもない限り、不可能なことである。

ヴェーバーによれば、政党は以下の2つの原理に基づいている。1つは官職授与権を有すること、そしてもう1つは世界観を共有することだ。

第1の点に関して言えば、政党の指導者は、政党内の従属者を選挙に出馬させ、指導的な地位へと送り込むことが政党の目的となる。第2の点については、政党は世界観を共有し、内実のある政治的理想を実現することを目的とする。

政党は独自の伝統をもち、それに応じた目的をもつ。と同時に官職授与権も目的とする。選挙戦に勝利すれば安定した政府のポストに就職させられる。議会政治の国家ではこれが普通であって、世界観を共有することで成り立っている政党も、多かれ少なかれそうなのである。

また、政党においても、官僚主義化は進行する。この点は資本主義経済や司法制度の場合と同じだ。

政党の指導者と「ボス」

かつて政治は名望家階層による牧歌的なものだった。しかし近代の政党が現れると、そうした状態は終わり、政党の指導者たちが政治を牛耳るようになった。政党組織の支配者による「経営」が、名望家階層と国会議会の支配に取って代わった。

形式的には、政党は民主化される。党員集会が候補者を選出し、名望家が議員の推薦に影響を及ぼすことはもはやない。そうした「機械」が作り出されることを通じて、「国民投票的デモクラシー」が到来するのだ。

しかしここで決定的に重要なのは、政党の指導者が、国会議員たちに対抗して自らの意志を強制できるということだ。彼は議会以上の支配力をもつようになる。彼にとって、議員とは自分に服従している部下以外の何ものでもないのだ。

ところで、こうした政党とともに現れるもの、それが「ボス」だ。ボスとは、選挙運動に必要な資金を集める政治的な資本主義企業家のことだ。ボスは資金を直接かつ内密に受け取る。もしボスがいなければ、資金提供者は安心して資金を提供することができないだろう。その意味で、政党にとってボスは不可欠なのだ。

ボスは、大きな財政的有力者から直接に金を受取る人物として、不可欠なのである。財政的有力者たちは、選挙目的のために出す金を、有給の政党職員とか、その他公然たる会計を行う者に委託することは、しないだろう。金銭問題に関して賢明な思慮をもつボスこそが、選挙資金を供給する資本主義的階層にとって、必要な人物なのである。

議会とは=被支配者の「同意」を表明する手段

次にヴェーバーは議会について論じる。ヴェーバーいわく、近代の議会とは、被支配者を代表するものであり、支配関係が存続する前提条件である内面的な同意を外側へと表明するための手段である。

言い換えると、議会それ自体が統治し政治を行うわけではない。大衆国家において政治は与党、内閣による独裁という色彩を帯びざるをえないのだ。

むしろ議会の第一の使命は、官僚を監督することにある。官僚は、専門の知識を“職務上の秘密”へと置き換えることで、権力を得ようとする。それゆえ議会は、官僚がみずからの問題にきちんと取り組んでいるかどうかをチェックしなければならない。

いでよ職業政治家たち

官僚たちの活動をチェックするためには、議会が権力をもたなければならない。そのためには何よりも、職業政治家の層が発達することが必要だ、とヴェーバーは主張する。

『職業としての政治』で論じていたように、職業政治家とは、情熱と冷静な判断力を兼ね備え、「責任倫理」によって支えられている政治家のことを指している。職業政治家のうちから責任ある指導者が現れてくるのであり、議会は彼らの行動に適うよう構成されなければならない。そうヴェーバーは言う。

激しい委員会活動を通じて鍛え上げられた職業政治家こそ、単なるデマゴーグではなく、責任ある指導者を選出することができる。そして議会は、そうした指導者の行動に適応するように構成されなければならない。

明白な責任がなければ、政治は成果を出さない

ヴェーバーによれば、議会主義化は必ずしも民主主義の進展と相関するわけではない。なぜなら民主主義が形骸化しても議会は存続するからだ。その意味で、議会主義化と民主主義は、むしろ対立関係にある、とヴェーバーは考える。

近代において政党は政党の指導者によって経営されるものとなり、政党の目標は従属者たち(器具)にポストを分配することになる。それゆえ原理的に、政党は国民からどれだけの投票を得られるかを最も気にするようになる。

ここにおいて、大衆が政治の世界で重要な存在として立ち現れてくる。

ただし注意しておくべきは、大衆が行政で重要な位置を占めると、民主主義はデマゴギーに至らざるをえないということだ。

大衆民主化が進んだ所では、政治指導者は大衆を煽動することで、大衆からの信頼を獲得する。しかし大衆は「明後日までのことしか考えない」。つまり大衆民主主義は、感情的要素によって導かれ、結局のところ非合理的だ。

それゆえ大衆民主主義ではなく、議会や責任ある議会政党こそ、安定した政治の根本条件だ。なぜなら明白な責任がなければ政治は成果を出さないからだ。

『大衆』それ自体は、(それが個々の場合にどんな社会的階層から構成されているとは関りなく)『明後日までのことしか考えない』。あらゆる経験が示す如く、大衆は、常に現実的な、全く感情的な・非合理的な影響力に身を曝しているからである。

明白な責任がなくなると、政党支配の成果もその他のあらゆる成果も期待できなくなる。

以上が本書の議論だ。

そもそも「責任ある政治家」とは?

本書におけるヴェーバーのポイントは、大体次のようにまとめることができる。

  • 近代国家は、合法的な強制力を独占する支配関係
    • 専門官僚制と合理的法律を備える
    • この2つが近代資本主義の条件となった
      • なので近代国家が近代資本主義の成立条件
  • 政党は有権者の票を得るための宣伝組織
    • 票が得られるかどうかが死活問題(もし選挙で勝てなければポストに就けないので)
    • したがって「ボス」が裏で選挙資金を集め、手引きをする
    • ここに「国民投票的デモクラシー」が誕生
  • 議会が安定した政治の根本条件
    • 議会は被支配者(=国民)の同意を表明する手段
    • と同時に、官僚の活動を監視する役割ももつ
  • 大衆民主主義では、政治は成果を出さない
    • 大衆民主主義は感情的・非合理的なので
    • したがって、 職業政治家の層を発達させ、議会が権力をもつようにしなければならない

近代国家についての直観はかなりイケている。官僚制と合理的法律が近代資本主義の基礎をなしているという考えは、仮説として見ても、それなりの説得力をもっているように思う。

その一方、政治家についての議論は、実践可能性という観点からすると、あまり得るところは無いように見える。

ヴェーバーは『職業としての政治』を含め、責任ある政治家の要件について論じている。しかし、具体的にそうした政治家を育成するための方法論を展開しているわけではないので、どうすれば実践へと生かせるかについては、本書を読んでもハッキリしない。

ヴェーバーは大衆民主主義に代わって職業政治家による政治が主流になるかもしれないと一縷の望みを抱いていたが、現実にはそうならなかった。ナチズムの到来である。しかもヴェーバーはある程度ナチズムの到来を予想していた(『職業としての政治』)のだから、なおのこと残念だ。もし職業政治家が議会で強い勢力をもっていたならば、ナチズムがあれだけの力を振るうことはおそらく無かったはずだからだ。