ヴェーバー『職業としての政治』を解読する

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ヴェーバー『職業としての政治』を超コンパクトに要約する

『職業としての政治』(1919年)は、社会学者のマックス・ヴェーバー(1864年~1920年)が学生に向けて講演した際の内容をもとにした著作だ。

本書でヴェーバーは政治、政党、官僚などのテーマについて論じている。具体的な内容は『国家社会学』で取り上げられたテーマとかなり重なっている。「同じ原著の別の翻訳?」と思ってしまうほどだ。それだけヴェーバーの議論に一貫性があるということだろう。

ただし本書の議論には、いまから見るとかなり古い箇所も多い。ヴェーバーは本書で当時のドイツ、イギリス、アメリカの政治についても論じているが、当時はそういう見方が一般的だったのかな、と参考程度に止めておくのがいいだろう。

『国家社会学』との共通点

本書と『国家社会学』の議論の共通点を取り出すと、大体次のような感じにまとめることができる。

  • 国家とは正当な(legitimate)暴力行使を条件とした支配関係
  • その正当性の根拠は3つ
    1. 伝統の権威
    2. カリスマの権威
    3. 合法性
  • 現実の統治には行政スタッフ(官吏)と行政手段が必要
  • 近代国家は、行政スタッフと行政手段が分離される過程と平行して発展してきた
  • 政党間の争いは「官職任命権」をめぐって生じる
  • かつて政党は名望家団体として運営されていたが、今日では近代的政党組織(マシーン)として運営されている(特にアメリカで)
  • マシーンの登場は「人民投票的デモクラシー」の登場を意味する(デマゴーグが指導者に選ばれるように)
  • 同時にボスが登場
    • ボス=票集めの資本主義企業家
    • ボスは明確な政治原則をもたず、票集めのことしか考えない

共通する論点は以上の通りだ。ただ重複する内容を論じてもアレなので、以下では本書に独自の内容について詳しく見ていくことにしたい。

『国家社会学』はこちらで解説しました → ヴェーバー『国家社会学』を解読する

政治「のために」生きる?政治「によって」生きる?

ヴェーバーによれば、近代国家は政治にたずさわるスタッフから行政手段を奪い去る過程のうちで発展してきた。

かつては国王やその取り巻きが行政手段を所有していた。しかし次第に彼らから行政手段が取り上げられていった。

この過程のうちで生まれてきたのが、いわゆる職業政治家だ。

政治は臨時の業務や副業、または本業としても行うことができる。副業としての政治とは何かというと、要は生きる糧として行われるのではない政治のことだ。例えば政治団体の幹事などは“副業としての政治”だ。

しかし支配者は次第に、みずからを補佐することを本職とする政治家を必要とするようになった。それが職業政治家だ。職業政治家とは、みずからが支配者になるのではなく、支配者の補佐として働くことを本職とする政治家のことだ。

ヴェーバーによれば、職業政治家のあり方には2つのタイプがある。

ひとつは政治「のために」生きるあり方、そしてもうひとつは政治「によって」生きるあり方だ。政治を生活の収入源としようとするひとは政治「によって」生きる政治家であり、とりわけ官吏がそれにあたる。

同じく政治を職業とするといっても、二つの道がある。政治「のために」(für)生きるか、それとも政治「によって」(von)生きるか、そのどちらかである。この対立は決してあい容れないものではない。むしろ、少なくとも精神的には、いや多くのばあい物質的にも、両方の生き方をするのが普通である。

この〔「のために」と「によって」の〕区別は事態のもっと実質的な側面、すなわち経済的な側面に関係している。政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」ということになる。

官吏は政治をなすべきでない

ヴェーバーによれば、政治が「経営」(裁判官や官吏といった「器具」を用いて営まれる行政のこと)として発展するにつれて、官吏は専門官吏と「政治的」官吏に二分されるようになった。

しかしヴェーバーによれば、官吏はあくまで行政の執行機関であり、政治を行う機関ではない。なぜなら政治は官吏ではなく、政治家に属するものだからだ。したがって官吏は政治を行うべきではない。そうヴェーバーは言う。

しかし本来的に官吏は政治をなすべきでない。官吏は行政を「憤りも偏見もなく」行うべきである。なぜなら党派性や闘争といったことは、官吏ではなく政治家の本領に属するものだからだ。

官吏として倫理的に優れたひとは政治指導者には向かない。というのも政治指導者は責任の原則のもとにあるからだ。

党派性、闘争、激情—つまり憤りと偏見—は政治家の、そしてとりわけ政治指導者の本領だからである。

政治指導者の行為は官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。

政治家には3つの資質が必要

職業としての政治は、政治家に対して権力感情を与える。ではいかにして職業政治家は権力にふさわしい人間に、また、権力が与える責任に耐えられる人間になるのだろうか。そうヴェーバーは問いを立てる。

この問いに対してヴェーバーは、政治家にとって重要な資質を取り出し、これに答えようと試みる。

それは、情熱、責任感、判断力の3つだ。

政治家にとっては、情熱(Leidenschaft)—責任感(Verantwortungsgefühl)—判断力(Augenmaß)の三つの資質がとくに重要であるといえよう。

ーー情熱は、「事柄」(Sache)に尽くし、それに対する責任が行為の従うべき規準となったとき、はじめて政治家を作り出す。

事柄に“没主観的に”献身することこそ、政治にとってきわめて重要なことだ。

そのためには、政治家は冷静さを失わず、虚栄心を克服して、事柄から距離を置き、現実をあるがままに受け止めなければならない。

ここでヴェーバーの言う「事柄」は、英語ではthing, matter, affairなどに該当し、まさに取り組まれるべき中心問題・根本問題という意味で使われている。"What's the thing?", "What's the matter?"というときのthingやmatterのニュアンスに近いと考えれば分かりやすいかもしれない。

権力の追求は、「事柄」への献身的追求を必要とする。そのことを見誤り、権力がエゴイスティックな欲求の対象として追求・利用することがあってはならない。なぜなら権力は政治の手段であるからだ。権力崇拝は政治を堕落させてしまうほかない。

権力は一切の政治の不可避的な手段であり、従ってまた、一切の政治の原動力であるが、というよりむしろ、権力がまさにそういうものであるからこそ、権力を笠に着た成り上がり者の大言壮語や、権力に溺れたナルシシズム、ようするに純粋な権力崇拝ほど、政治の力を堕落させ歪めるものはない。

何に権力を行使するべきかは信念の問題

では、政治家が権力を行使するべき「事柄」はどのようなものでなければならないのだろうか?

ヴェーバーはこれに対して、「それは個々の政治家の信仰(信念、信条)の問題である」、と答える。つまり政治家がなすべき事柄の内実は、ただ政治家の意志によってのみ規定されうるのであって、外側からこれを一概に規定することはできない、というのだ。

政治家がそのために権力を求め、権力を行使するところの「事柄」がどういうものであるべきかは信仰の問題である。政治家が奉仕する目標は、ナショナルなこともあれば人類的なこともある。

心情倫理と責任倫理

政治家がなすべき事柄は、ただその政治家の内面によって規定される。では政治家は自分の心情にもとづくことであれば何をしてもいいのだろうか。

ヴェーバーの言い方に従えば、原理的にはその通りだ。

ただしそれは、結果に対する責任がともなっている限りにおいてのことだ。そしてここにおいて、政治と倫理の関係が問題となるのだ、とヴェーバーは言う。

倫理的な行為には、心情倫理的に方向づけられた行為と、責任倫理的に方向づけられた行為がある。

2つの根本的な違いは、おおよそ次のようなものだ。

心情倫理においては、動機が善・正義であるかどうかが肝心であり、行為の結果は二の次となる。要は「後は野となれ山となれ」の精神だ。

純粋な心情の炎、たとえば社会秩序の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることにだけ「責任」を感じる。

「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対倫理である。

それに対して、責任倫理においては行為の結果に対する責任が問題となる。自分の行為の結果をある程度予見することができた以上、行為の結果に対する責任を誰かに転嫁することはできない。これが責任倫理の原則だ。

これこれの結果はたしかに自分の行為の責任だと、責任倫理家なら言うであろう。

心情倫理と責任倫理の妥協は不可能

原理的に、心情倫理と責任倫理を妥協させることはできない。

なぜなら、とりわけ政治においてこれは顕著となるのだが、「よい」目的を達成するためには、たいていは道徳的にいかがわしい手段を用いなければならないからだ。

責任倫理の観点からすれば、手段が道徳的であるか否かは二次的な問題だ(なぜなら重要なのは結果であって手段ではないから)。しかし心情倫理は、魂の純粋さを維持することの上に成り立つので、論理的に突き詰めると、そうした手段の一切を拒否するほかない。

ここにおいて、心情倫理と責任倫理は厳しい対立関係に陥る。

ただしヴェーバーは、単純に一方を肯定して他方を否定するというような方向には進まない。ヴェーバーからすれば、心情倫理と責任倫理はともに倫理の本質をなしているからだ。

しかしここでヴェーバーは次のように言う。もし心情倫理が政治において「魂の救済」を目指すようなことがあれば、その目的それ自体が損なわれてしまうかもしれない。なぜなら心情倫理は結果を度外視するからだ。その意味で、心情倫理が政治の領域で活動することは、心情倫理それ自体にとっても決してよいことではない、と。

この「魂の救済」が純粋な心情倫理によって信仰闘争の中で追求される場合、結果に対する責任が欠けているから、この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ、信用を失うことになるかも知れない。

責任倫理に従って困難に立ち向え

政治においては心情倫理ではなく責任倫理が力をもたなければならない。責任倫理に従って行為し、どのような困難に直面しようとも、それに立ち向かうことのできる人間のみが、政治を天職とすることができる。そう最後に主張して、ヴェーバーは論を終える。

自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が—自分の立場からみて—どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。

本書の議論は以上だ。

政治家の資質とは?

本書でヴェーバーは、政治家の資質には情熱・責任感・判断力の3つがあると言っていた。

しかし、この3つが政治家に特有の資質といえるだろうか?

たとえば外科医もまた、情熱をもって患者・症例と対峙し、それを途中で投げ出さない責任感と、冷静さを失わない判断力が必要だ。教師も同じく、生徒に対して真摯に接する情熱と、教育を途中で放棄しない責任感が必要だ。

こう見ると、それら3つの資質を必要とする職業は、別に政治家に限定されるわけではない。なぜなら「事柄」に尽くすべき職業は、政治家のほかにいくつもあるからだ(というよりも、責任感の不要な職業がこの世に一体どれだけあるだろうか?)。

また、ヴェーバーは「事柄」の内実は一義的に規定することはできないと言っていた。しかし、滅私奉公的な献身であれば何でもいいのであれば、責任倫理に支えられている限りで、独裁もまた容認されうることになる。

そうした政治家が「よい」政治家であるとは限らない。そういう場合はあるかもしれないが、そうではない場合もあるだろう。

ルソーのほうがうまく言えている

政治家の資質については、ヴェーバーよりも近代哲学、とくにルソーの議論が参考となる。ルソーは『社会契約論』で、個々人の利害を目がける特殊意志、またはその総和である全体意志ではなく、一般意志を反映する統治のみが正当であると論じていた。

各個人が独力で生きていくことができない状態に至ったとき、人びとが互いに自由となるためには、社会契約を結び、各人の間に法的・権利的平等を確保するほかない。各人が相互に自由で平等であるような社会を目がけることのうちで、一般意志が現れてくる。その意味で、一般意志は社会の正当性の原理である。

自由で平等な社会を実現させるために、人びとは、自らのうちから代表を選出し、自らに代わって政治行為を行うよう彼らに委託する。したがって、党派的な利害ではなく、一般意志を代表するような政治行為だけが正当であり、一般意志に反するような政治行為は正当とはいえない。そうルソーは論じていた。

ルソーの議論に従えば、「よい」政治家とは、一般意志をたえず政治行為に反映させている政治家だと言えるだろう。

どこまで倫理が問題なのか

個人的もしくは党派的な利害を優先させることなく、一般意志をたえず政治行為に織り込んでいく政治家のみが、正当な政治家ということができる。強いて言えば、ヴェーバーのいう責任倫理はこの点において発揮されるべきものだ。なぜならここにおいて、政治家にとっての「事柄」は一般意志を政治に反映させることになり、その「事柄」を達成できるかどうかにおいて、政治家の責任が問われるようになるからだ。

しかし政治において問題なのが倫理ではなく正当性であるとすれば、そこに倫理をあえて持ち込む理由は無くなってしまうのが正直なところだ。

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