ヴァーツァーヤナ『論証学入門』を解読する

『論証学入門』は、サーンキヤ学派やヴァイシェーシカ学派とならぶ、古代インド哲学の主要な学派ニヤーヤ学派を代表する哲学者ヴァーツァーヤナの主著だ。

本書はヴェーダーンタ学派、とくにラーマーヌジャの思想の対極にあると考えると分かりやすい。

ヴァーツァーヤナも解脱を可能にする原理を模索する点では、ラーマーヌジャと共通している。しかし、ラーマーヌジャが瞑想による帰依をその原理としたのに対し、ヴァーツァーヤナはアートマンなどの真理を認識することこそが解脱のために必要だと主張する。

ヴァーツァーヤナからすれば、瞑想なるものはアイマイであり、方法論として成立していない。本当に解脱が誰でも到達可能となるためには、方法論は論理的でなければならない。こうした確信が本書の議論を支えている。

真理は有効な活動をもたらす知識にもとづく

初めに見ておきたいのは、ニヤーヤ学派の真理観だ。ヴァーツァーヤナは次のように言う。

真理とは何か?ある知識が有効な活動をもたらすとき、その知識は真だといえる。何らかの手段によって対象を理解し、その対象についての知識を得て、ある活動が行われるとき、その活動が上手く行けば、その知識は正しいといえるし、そうでなければその知識は間違っていたことになる。

こうした一連の状況のうちで真理は規定されるのであって、対象についての認識から離れたところに真理があるわけではない。

とりわけ論証学においては、真理の認識とは、アートマン・身体・感覚器官・対象・意識・思考器官・活動・欠陥・転生・結果・苦・解脱といった12の対象をあるがままに認識することを指している。これによって解脱の至福が達成されるのだ。

このアートマンに関する学問(としての論証学)においては、真理の認識とは(定句三・九に列挙される)アートマンなど(十二種の対象)の真理の認識である。(それによってもたらされる)至福の達成とは、解脱に至ることである。

アートマンはブラフマンと対になる概念。アートマンは万物のうちにある本質(我)であり、ブラフマンは宇宙の最高原理(梵)であるとされる。

要は解脱に役立つものを正確に認識することが必要だとするのだが、その一方で、有るものを「ある」と、無いものを「ない」とありのままに把握することが真理であるとも言っているので、結局のところ何を真理と考えているのかハッキリしない。真の認識こそが結局は解脱に役立つのだ、ということだろうか?

それでは(対象の)真理とは何か。—有るものにとっては存在、無いものにとっては非存在(が真理)である。有るものが、「有る」とありのままに倒錯なく把捉されたとき、それが真理であり、また、無いものが、「無い」とありのままに倒錯なく把捉されたとき、それが真理である。

単に「役立つものが真理だ」と言ってしまえばあまりに世俗的となってしまうので、ヴァーツァーヤナは真理の基準を「あるがままの認識」に置こうとする。しかしこの言い方では不十分だ。

アートマンは欲求や知識などから推論される

ただし、ヴァーツァーヤナいわく、アートマンは知覚によって捉えることはできず、ただ推理や「証言」によってのみ理解されるべきものだ。

証言とは、信頼しうる人、つまりみずから対象を認識して、その認識を誰かに知らせる動機を持っているひとからなされる教示を指している。この証言によってアートマンは捉えられるが、推理によって捉えるときの手がかりとしては、欲求や知識などがある。

欲求がアートマンの手がかりとなる理由は、何かを欲求するためには、あらかじめそれと同じ種類の対象から快感を得ているのでなければならず、過去の経験と現在の経験が帰属する同一の主体がなければならないという点にある。そしてこの同一の主体こそ、アートマンにほかならない。

得ようとする欲求は、(過去から存続して)多数の対象を経験する一個(の主体)に、(過去と現在の)経験の統合によっておこるのであって、(それはこのような主体としての)アートマンの(存在を示す)徴表である。なぜならば、(それぞれに)定まった対象をもつ個々の意識があるだけ(で、それらが帰属する同一の主体がない)とすれば、(過去に見たのと同種の対象を見ても、それを得ようとする欲求は〕ありえないからである。

解脱は認識を正すことで可能となる

ヴァーツァーヤナによれば、真理が認識されたからといってすぐに解脱が起こるわけではない。解脱のためには、誤った認識を取り除き、誤った認識から生まれる欠陥を無くす必要がある。

欠陥には妬むこと、欺くこと、貪ることなどといった活動がある。誤った認識を無くせば、これらの活動は無くなる。活動が無くなれば生存は無くなり、生存が無くなれば苦が消滅し、解脱に至る。そうヴァーツァーヤナは言う。

真理の認識によって「誤った認識」が消減するとき、「誤った認識」が消滅したので「欠陥」がなくなり、「欠陥」がなくなれば「活動」がなくなり、「活動」がなくなれば「生存」がなくなり、「生存」がなくなれば「苦」が消滅する。そして「苦」が消滅したとき、究極的な解脱、すなわち至福があるのである。

アートマンそれ自体を知覚することはできない。それは私たちの認識を可能にする主体だからだ(この規定はウパニシャッドからずっと変わっていない)。しかし、それでもなお私たちは自分の理性によってそれが何であるかを推理することができるし、そうすることで誤った認識を無くし、解脱に達することができる。この直観がヴァーツァーヤナの主張の核心にある。

サーンキヤもヨーガもヴェーダーンタも間違っているという

ヴァーツァーヤナに言わせれば、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ヴェーダーンダ学派のいずれも誤っている。

サーンキヤ学派は、理性と精神原理を区別し、その上で理性は原質から現れてきたとする。しかし知識、意識、認識はどれも同じ意味なので、その区別には根拠がない。

またヴェーダーンダ学派は、解脱においてアートマンの幸福が現れ出て、それによって解脱した人自身も幸福になるとする。しかしそれは証拠がない。そのことは知覚も推理もできないし、聖典も証言していない。

ヨーガ派は、ヨーガの精神統一によって生じる功徳が尽きることはないとする。しかしそれも証拠がない。むしろ反対に、生じたものが永遠に続くことはないことのほうが、より確かだと推理される。彼らは「永遠の幸福が存在する」と推論するが、これもまた不合理だ。

注意しておかなければならないが、永遠の幸福を得ることを目的として解脱へと努力するかぎり、解脱することができるはずがない。それは永遠の幸福への愛着であり、愛着はすなわち束縛だ。束縛があるにもかかわらず解脱に達することはありえない。

もし人が、解脱において永遠の幸福が開顕されると考えて、永遠の幸福への愛着によって解脱のために努力するならば、彼は解脱に達しないであろう。—達することができないのである。なぜならば、愛着は束縛と認められ、だれかが束縛があるにもかかわらず解脱したというようなことはありえないからである。

真理をめぐる信念対立

ニヤーヤ学派の論理学は、ただ単に真理を論理的に規定することを目的にしているのではなく、解脱という目的に相関して構想されている。その意味では確かに真摯だと言えなくもない。

しかし、ヴァーツァーヤナのような立場は、人間の知性で解脱に達することはできない(ので神への帰依が不可欠だ)とするラーマーヌジャの立場との対立構造を作らざるをえない。

もちろん現代においては、解脱の可能性はそもそも問題とはなりえない。しかしインド哲学は私たちに、真理をめぐる思想の営みが袋小路に入り込むことの必然性を示している。

例えばイデオロギー対立のように、真理をめぐる信念対立は今日でも認められる。そしてしばしば、そうした対立構造が現れたところでは、「私たちの理論はそうした諸派すべてを包括する」と、自分たちの理論を上位に置くことによって対立構造を解決しようとするような試みが行われる。

だが、そうした試みは、決して根本的な解決にはつながらない。なぜならここで必要なのは、そうした対立構造が生じてくる理由を解明することであり、その理由を示せない限りは、その自称包括論も数あるひとつの立場にすぎないからだ。

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