ウパニシャッドを解読する

ウパニシャッドは、バラモン教の聖典ヴェーダ(リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)に末尾に収められている著作群だ。

『ウパニシャッド』という名前の本があるわけではない

ウパニシャッドとは、サンスクリット語で「奥義書」とか「秘教」を意味しており、ヴェーダの総仕上げとして位置づけらた著作群だ(なので『ウパニシャッド』という名前の著作があるわけではない)。全部で200以上の著作がウパニシャッドを構成しているが、いずれも著者は不明だ。

今回見るのはもちろんウパニシャッドの全てではなく、『ブリハッド・アーラヤヌカ』、『チャーンドーギヤ』、『カウシータキ』、『カタ』の各編であり、それもごく一部だ。とはいえ、そこでウパニシャッドの重要なポイントは示されており(梵我一如など)、それを理解することであれば、さほど難しくないはずだ。

ヨーロッパ哲学の進み行きと似ている

以下で見るように、ウパニシャッドもまた、古代中国思想の代表である『大学』と『中庸』と同様、古代ギリシアに始まるヨーロッパ哲学と同じ過程を辿っている。物語を用いた世界説明から概念による世界像の記述へと移っていく過程は、まるで古代ギリシア哲学の進み行きを見ているかのようだ。

「業」と解脱の概念

まずは『ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド』を見ていこう。ここではバラモンのヤージニャヴァルキャと他のバラモンたちの対話が物語形式で描かれており、ヤージニャヴァルキャが彼らに世界と生の“真理”を説いている。

興味深いのは、仏教の中心概念である解脱がウパニシャッドですでに論じられていることだ。

ヤージニャヴァルキャは言う。私たちは善い行いによって善なるものに、悪い行いによって罪あるものになる。欲望をもつ人間は世界に執着して業を積み続けるしかなく、そこから解脱することはできない、と。

ヤージニャヴァルキャは、私たちは言葉・眼・気息・思考力を通じて解脱に至ることができるという。ここではまだ解脱の具体的な方法については抽象的なイメージでしか論じられていない。これはウパニシャッド後に現れてくる古代インド哲学の諸派で様々な議論を通じて深められ、仏教でようやく概念的に定式化されるに至った。

ちょうど近代哲学がスコラ哲学から出てきたように、仏教はバラモン教から現れ、これを乗り越えていった。にもかかわらず仏教が業と解脱の概念を捨てることなく、これを受け継いだのは興味深い。何か理由があったはずだ(偶然否定されず、そのまま権威になったのかもしれないが)。

ブラフマンとアートマンの合一(梵我一如)

次にヤージニャヴァルキャは、ブラフマン(梵)とアートマン(我)について物語る。ウパニシャッドの全体は、これら2つの概念をめぐって展開している。そう言っても決して言い過ぎではない。

ブラフマンとは宇宙の最高原理を、アートマンとは個体の本質を指している概念だ。ヤージニャヴァルキャは次のように言う。

アートマンとはいわば世界、人間、被造物の網の目をなす糸であり、万物の内制者だ。それは認識の主体として万物に内在している。

私たちはアートマンによって初めて何かを認識することができるのだから、それが何であるかを認識することはできない。アートマンとは、「目に見えない視覚の主体、耳に聞こえない聴覚の主体、思考されない思考の主体、認識されない認識の主体」なのだ。

アートマンが何であるかを言い当てることはできない。それはただ「非ず、非ず(neti, neti)」としか表現することができないのだ。

この『非ず、非ず』という(標示句によって意味される)アートマンは、不可捉である。それは把捉されないから。不壊である。それは破壊されないから。無執着である。それは執着しないから。それはつながれていないが動揺もせず、毀損されもしない。

このアートマンを知ることで、バラモンは現世的な願望から離脱し、遊行者となる。したがってバラモンは何かを知りたがるべきではない。知りたがらないことも知りたがることも等しく煩わしいと感じるとき、かれは聖者となり、真のバラモン、つまり宇宙の最高原理であるブラフマンと合一した人となるのだ(梵我一如)。

ここでブラフマンは虚空とか叡智、生命、目、耳、思考力、心など様々に表現されているが、それが具体的に何なのかは結局よく分からない。

ここでは、世界を太陽神スーリヤ、風神ヴァーユ、河神サラスヴァティーといった神々の織りなす物語ではなく、概念によって世界を説明しようとする態度が見られる。こうした転換は古代ギリシアにおいても見られたものだ(オリンポス十二神による世界説明から「水」や「無限なもの」といった概念による世界説明へ)。

アートマンは熟睡するとブラフマンの世界へと入る

ヤージニャヴァルキャは続けて次のように言う。

私たちの右の眼のなかにはインドラと呼ばれる人間(プルシャ)がいて、彼の向く方向にしたがって認識は生じる。このプルシャがすなわちアートマンだ。

インドラすなわちアートマンには次の3つの状態がある。1つ目は目覚めてこの世にある状態、2つ目は熟睡して彼方の世界にある状態、そして3つ目はこの世とあの世の間、すなわち夢の状態だ。このようにアートマンは現世と熟睡の間を行き来する。

このアートマンが無力化すると、人間の諸機能はアートマンへと集まってくる。彼はもはや物を見ることができず、何かを聞くこともできない。そしてアートマンは人間の身体から上へと出て行き、それにしたがって気息と全ての機能も上へと出ていく。こうして肉体を離れたアートマンは母胎へと下って行き、次の生へと受け継がれていく。

欲望をもつ人の場合、アートマンは世界に執着し、そこから離れることはない。しかし欲望を持たない場合、もしくはそれが満たされた場合、諸機能は上へと出て行くことはない。彼はブラフマンそれ自体となり、ブラフマンに到達するのだ。

ブラフマン=オーム(聖音)

熟睡すればアートマンはブラフマンの世界へと入ることができる。そう『ブリハッド・アーラヤヌカ』で言われていた。しかしこの規定は『カタ』で変化を見せる。

熟睡でブラフマンに到達すると言われても本当にそうなのかは誰にも分からない。目覚めたときには何も覚えていないからだ。これでは説得力はゼロだ。

そこで編み出された方法が、「オーム」(聖音)を認識することだ。『カタ』では「オーム」それ自体がブラフマンであり、ひとは「オーム」と唱えることによってブラフマンの世界において栄光を受けるのだ、と説かれる。

全ヴェーダはその語を伝え、また、人々はそれをすべての苦行(に匹敵するもの)と語り、それを求めて人々が禁欲生活をする、その語をそなたに簡潔に語ろう。—「オーム」(聖音)がそれである。

これこそ実に不滅のブラフマン(宇宙の最高原理)、これこそ実に不滅の最高者、まことにこの不滅のものを認識すれば、だれでも望みのものがかなえられる。

これは最もすぐれた拠りどころであり、これは最高の拠りどころである。この拠りどころを認識すれば、人はブラフマンの世界において栄光をうける。

「オーム」とはヴェーダの読誦の最初と最後に、また神聖な儀式を始めるにあたって唱えられる聖音のことだ。これはキリスト教の「アーメン」に当たる。ちなみにカルト宗教のオウム真理教(現・アーレフ)の「オウム」はこれに由来する…。

初めに有(ある)があった

最後に、簡単に『チャーンドーギヤ』で展開されている存在論について見ておこう。

古代ギリシア哲学では、パルメニデスが「あるはあり、あらぬはあらぬ」と説いた。これが一般に古代ギリシアでの存在論の始まりとされる。このパルメニデスと同様の存在論が『チャーンドーキヤ』のうちにある。

太初には、愛児よ、この世界には『有』だけがあった。

どうして無から有が生ずることがあろう。そうではなくて、愛児よ、太初にこの世界には有だけがあり、それは唯一のもので、第二のものはなかったのだ

この「有」は熱を生み出した。熱は水を生み出し、水は食物を生み出した。また熱は卵を、水は生命を、食物は芽を生み出した。かくして世界に存在する一切は、熱・水・食物の3つを起源としているのだ。

万物の起源を存在(有)に求めるためには、抽象的な思考力が最大限に発揮されていなければならない。思考力の無限性については『ブリハッド・アーラヤヌカ』ですでに強く意識されていた(「思考力は、実に、無限であり、無限であるのは神々全体である。それによって彼は無限の世界(神々の住む天上界)をかちうるのである」)。

世界を理解できるだけの思考力が人間に備わっていることがある程度一般的に確信されていること、これが思想の発展にとっての重要な鍵だ。これは言うまでもないことだろう。

古代インド哲学の出発点

今回はウパニシャッドのごく一部を見ることができただけにすぎない。しかしそれでもなお示されているポイントは確かに理解することができる。

自分のアートマンを深く了解し、アートマンと宇宙の原理であるブラフマンを合一させる(梵我一如)ことで、業を捨て解脱することができる。そしてそれによって真の幸福を得ることができる。これが共通するポイントだ。

バラモン教から仏教へ

こう見るとバラモン教から仏教が出てきた理由もよく理解できる。バラモン教はバラモン階級における内部的な宗教だった。しかしアートマンとブラフマンの概念は、階級を越えていく普遍性をもっている。業も解脱も同様だ。人間の本質に定位するかぎり、特殊な一階級のうちに限定されなければならない理由はない。貴族も平民も貧民もひとしく業と解脱のうちにある、そう考えられるようになるのは当然の流れだ。