スピノザ『エチカ』を解読する

スピノザ
スピノザ

本書は、オランダの哲学者バールーフ・デ・スピノザ(1632~1677)の主著だ。1662年から1675年にかけて執筆され、スピノザの死後、1677年に出版された。

スピノザはデカルトライプニッツと並び、合理論を代表する哲学者だ。近代哲学の初期における認識論の分野で活躍した。

合理論に対する立場に、ロックヒュームによる経験論がある。合理論と経験論のポイントを対比的にまとめると、おおよそ次のようになる。

  • 合理論
    • 根本原理から推論を合理的に積み重ねていけば、世界は正しく認識できる。
  • 経験論
    • 世界は知覚経験の及ぶ限りで認識できる。知覚経験に先立つ根本原理は存在しない。

歴史的には、合理論が数学の発展とともに現れ、これを受けて経験論が合理論の独断的な性格を指摘するという仕方で展開してきた。

スピノザは本書で、根本原理を置き、そこから合理的な推論を積み重ねて、世界のあり方を描き出している。まるで数学の証明を行っているかのようだ。事実、本書の正式タイトルは、『エチカ 幾何学的秩序に従って論証された』というものだ。

スピノザが幾何学的な書き方を選んだ背景には、中世ヨーロッパにおける世界観、とりわけキリスト教的世界観の決定的な凋落がある。

スピノザは、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争の末期、三十年戦争(1618~1648)が行われている時期に生まれた。本書を読むと、スピノザがポスト宗教戦争の世代感覚から、伝統的な宗教とは異なった仕方で善の根拠を置くことができるはずだ、と確信していたことがうかがえる。こうした問題意識は、まさしくデカルトやホッブズといった優れた近代哲学者が共通して抱いていたものにほかならない。

汎神論

本書におけるスピノザの基本的な構えは、神は唯一無限の「実体」であり、その他一切は神の「属性」であるというものだ。

系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六により)自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。

系二 第二に、延長した物および思惟する物は神の属性であるか、そうでなければ(公理一により)神の属性の変状であるということになる。

スピノザの見方では、あらゆる物体は、神に由来してしか存在しえない。神は、そこからあらゆる物体が生じてくるところの基礎であり、神が思惟する仕方と同じように、自然世界は存在する。こうした世界観を汎神論という。

神は必然的に存在する根本原因である。このことは、神が一切の起源であり、神の外側には、神に影響し決定するようなものは何もありえないということだ。

事物の必然性の背後には神がいる。神の本性が自然のあり方を決定しているので、事物はいまあるように存在するほかない。全ては必然的なものとして、神に決定されている。これがスピノザの「神即自然」という概念のもつ意味だ。

概念的に規定された神

こう言われると、スピノザはかなりアブナイ世界観をもつ哲学者だと思うかもしれない。だが、当時の世界観においては、神の理念はごくごく自然なものであり、疑う条件そのものが存在しなかった。ここではむしろ、スピノザのいう神が純粋に概念的なものであることに着目したい。スピノザは言う。

神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。

神が宗教と密接に関係していた時代において、スピノザは、宗教的な性格をもたない神の概念を示した。当時の知識人の間では、そのことさえ一種のタブーだった。実際、スピノザは、18世紀のドイツでは無神論者として受け取られた。中世から近代にかけてのヨーロッパ的世界観を考えると、スピノザの議論は、かなり先進的なものだったのだ。

人間も神の属性

スピノザによると、事物だけでなく、人間もまた神の「属性」だ。

人間は精神(=意識)と身体からなる。身体は、私たちがそれを感覚するように存在する。その理由は次の通りだ。

人間の精神は神の知性の一部であるい。それゆえ、身体のなかで生じることは、精神によって完全に知覚されねばならない。なぜなら神のうちに、身体についての認識があるからだ。それゆえ精神は、身体の観念を正しく構成することができる。

これに対して、精神は、身体の刺激状態の観念によってしか、外部の物体を知覚することができない。それゆえ、外的な事物を、身体と同じような仕方で、完全に認識することはできない。

人間の感情について

第3部にて、スピノザは、私たち人間の感情について論じている。

スピノザによれば、精神と同様、感情もまた、自然の必然性、力から生じてくる。私たちの意志が何らかの仕方で規定されているのと同じく、感情もまた原因をもつ。それゆえ感情についても、これまでと同じ方法で論じることができるという。

ここで見ておきたいのは、自己保存の努力(コナトゥス)という概念だ。

自己保存の努力(コナトゥス)

スピノザは言う。精神は自己の有に固執しようと努力する。この自己保存の努力が、精神と身体に関係すると、衝動になる。衝動は人間の本質であり、したがって自己保存の努力が人間の本質にほかならない、と。衝動は意識にもたらされることで欲望となる。ここからスピノザは次のように結論する。すなわち、私たちが欲望するものが善となるのだ、と。

次のことが明らかになる。それは、我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する、ということである。

キリスト教では善悪の規準は創造主たる神であり、神の意志に従うことが善く生きることだとされる。宗教を離れても、欲望を悪とする見方はさほど不自然というわけではない。人間の存在から離れたところに絶対的な善があり、それが善悪についての判断基準として働くというように考えるのは、ごく自然な考え方だ。

だが、ここでスピノザは、そうした見方とは逆の方向性を示す。

スピノザは次のように言う。善の判断が意志、欲望に先立つのではない。私たちが意志し、欲望するもの、私たちの生にとって役立つもの、それを私たちは善と呼んでいる。「善そのもの」があるわけではない。欲望があってこそ、私たちは何が善であるかを了解する(=確知する)のである、と。

善とは、それが我々に有益であることを我々が確知するもの、と解する。

自己保存の努力が、徳の基礎となる

スピノザいわく、欲望の対象を私たちは善と呼んでいる。だがここで、欲望と善を結びつけることに違和感をもつひともいるはずだ。しかしスピノザは、欲望と善を直結させているわけではない。この辺りの事情を、順を追って見てみよう。

まず、スピノザによれば、感情に流された欲望が目指す善は、決して完全なものではない。むしろ、理性によって私たちは、より完全なもの(=よりよい)を欲求するように動かされるという。理性の導きに従って生活する限りにおいて、ひとは自分の本性と一致し、しかも最も有益となる。スピノザは、そうした理性の導きに従った生活のうちに、徳があるとする。

ここでスピノザが根拠とするのが自己保存の努力という概念だ。

自己保存の努力は徳の第一かつ唯一の基礎である。なぜならこの原理よりさきには他のいかなる原理も考えられることができず(前定理により)、またこの原理なしには(この部の定理二一により)いかなる徳も考えられえないからである。

ここでいう自己保存は、単なるエゴイズムではない。ただ理性の導きにのみに従い、自己の利益を追求すること。それがスピノザのいう自己保存だ。自己保存はそれゆえ他の人びとを否定することにはならない。理性に従う人間は、公平であり、かつ自己の利益も求めるのだ、と。スピノザは言う。

徳に従うおのおのの人は自己のために求める善を他の人々のためにも欲するであろう。そして彼の有する神の認識がより大なるに従ってそれだけ多くこれを欲するであろう。

スピノザは本書の第4部で、感情のみに導かれる者は「奴隷」にすぎないという。

私たちはしばしば憐憫、憐れみによって行為することがある。だがその行為は理性的に吟味されたものではない。自己以外の人には従わず、自分自身のなすべきことを知り、それをなす理性的なひと、ただ彼のみが「自由人」の名に値する。そうスピノザは言っている。

感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのため自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名づける。

もちろん、スピノザの体系は汎神論なので、決定されてないという意味での自由があるわけではない。だがスピノザとしては、一切が決定されているということに流されてしまえば、善を認識することは初めから不可能になってしまうという洞察があった。

神の属性としての人間にとっての自由はどこにあるか。この点について、スピノザは次のように言う。徳を認識することによる喜びで心を満たすよう修練すると、理性で活動を統御できるようになる。理性的に自分自身を認識することで、神を愛し、自己を愛する。人間に対する神の愛のうちに、われわれの幸福、至福、自由があるのだ、と。

以上によって我々の幸福あるいは至福または自由が何に存するかを我々は明瞭に理解する。すなわちそれは神に対する恒常・永遠の愛に、あるいは人間に対する神の愛に存するのである。

スピノザいわく、真の徳は理性の導きのみに従って生活することにほかならない。こうした生活を可能とする条件として、国家が必要とされ、法律が必要とされる。感情は理性では抑制できないからだ。だが、不法に対する復讐として法律を行使することは、決して善いことではない。それは感情に流されることだからだ。

理性の導きに従って生活する人は、できるだけ、自分に対する他人の憎しみ、怒り、軽蔑などを逆に愛あるいは寛仁で報いるように努める。

不法に対しても、感情に流されることなく、理性に従い、できるだけ共同の利益を考慮して対処すること。神に対する愛が人間に対する愛に通ずると考えるスピノザらしい洞察だ。

体系を取り外して読む

Spinoza Statue

本書におけるスピノザの議論は、その世界観からすると、確かに普遍的な妥当性をもつわけではない。人間や事物が神の属性であるという主張それ自体は、現代的には受け入れることはできない。

だが、そのことでスピノザを捨てるのは、あまりにもったいない。

最初に確認したように、スピノザには、幾何学的な論証の形式を取ることで、善の根拠を普遍的に見て取れるという確信があった。その試み自体が成功しているとは言いがたいが、善の根拠を伝統的な宗教や習俗のうちに求めるのではなく、それを誰もが理性で了解できるような仕方で規定しようと試みたことは、やはり評価すべきだ。

また、彼の人間洞察の透徹したまなざしのうちにも、支配的な世界観にあらがいつつ人間を根本的に規定しようという思いが見て取れる。スピノザ自身はほとんど激情に流されることがなかったようだが、彼の真摯さのうちに読み手の心に訴えるものがあることは否定しがたい。

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