スミス『国富論』を解読する(2)

スミス『国富論』の前半はこちらで解説しました → スミス『国富論』を解読する(1)

前半の解説では、

  • 分業の価値
  • 交換価値の尺度としての労働
  • 価格の構成要素(賃金+利潤+地代)
  • 自然価格と市場価格
    • 市場価格は需要と供給のバランスによって定まる

という点についてそれぞれ確認した。

後半では、自然価格と市場価格が必ずしも一致しないということ、そうした状況がなぜ生じるのかについてのスミスの考察から見ていくことにする。

自然価格と市場価格がズレる理由

前半で確認したように、スミスいわく、価格を構成している賃金、利潤、地代にはそれぞれ自然率がある。

このことは、原理的な水準では、物事が自然のなりゆきに委ねられ、職業選択の自由が完全に実現されているような社会では賃金と利潤は全体として均等になることを意味している。そこには貧富の差は存在しない。しかし現実にはそうなっていない。賃金と利潤は不均等であり、それゆえ市場価格は自然価格からズレてしまっている。

スミスいわく、このズレは、職業の性質自体とヨーロッパの政策に由来する。職業の性質は仕方ないとしても、ヨーロッパの政策については改善の余地がある。スミスは次のように言う。

ヨーロッパの政策は3つの方法で市場価格に影響を及ぼす。第1に競争を制限すること、第2に競争を増加させること、第3に労働と貯えの自由な循環を妨げることによって。

競争の制限は同業組合によって行われる。ヨーロッパの政策は、同業組合に排他的な特権を与え、それによって競争を制限する。また公教育は人びと全体の水準を上げることで、職業の競争を激しくした。それによって賃金は自然率よりも低くなり、したがって価格も押し下げられてしまった。最後に、徒弟条例と同業組合法は、労働と蓄えの自由な循環を制限することで賃金と利潤を不均等にしてしまい、市場価格は自然価格からズレてしまう。

そうした規制ゆえに、自由な経済活動は阻害され、各人の能力すなわち自由が侵害されてしまう。それは決して適切な状態とはいえない。

重商主義を批判する

スミスは当時流行していた重商主義についても、同様のロジックで批判する。

重商主義とは、簡単に言うと、国内市場の余剰生産物を外国に輸出することから得られる金銀の差額を極大化する(輸出によってもうけをあげる)ことによって人びとの生活は富む、と考える政治経済思想のことだ。

富とは金銀のことであり、国家の富の源泉は外国貿易にある。これが重商主義の基本的な考えだ。スミスいわく、この方針のもとで政府、特にイングランドの政府は、商人に奨励金を分配し、彼らが積極的に外国と取引するよう向かわせてきた。

しかしスミスからすれば、奨励金や貿易独占は、製造業者の利益ばかりを重視することになり、その結果として、リソースの分配の理想的な均衡状態を崩してしまうことになる。

重商主義による規制は、公共の利益を犠牲とし、製造業者たちを富ませるにすぎない。奨励金による外国市場の拡大は、国内市場の犠牲の裏返しにすぎない。したがって、遠隔地との貿易を人びとへと開放し、大幅に自由化することが必要だ。それによってこそ、あらゆる産業部門を適切な均衡状態に置き戻すことができる。そうスミスは言う。

グレート・ブリテンに排他的な植民地貿易を与えている法律を、適度かつ徐々に緩和し、やがて大幅に自由にしてしまうことは、将来永久に、この危険からそれを解放しうる唯一の方策であり、またそれの資本のうちのある部分を、過度に成長したこの事業から引き上げ、利潤は少なくても他の事業にふりむけることを、可能にしあるいは強要しさえする唯一の方策であり、それの産業のある一部門を徐々に縮小させ、他のすべての部門を徐々に拡張させることによって、すべての産業部門を、完全な自由が必然的に確立し、また完全な自由だけが保持しうる、あの自然で健全で適正な均衡へ、しだいに復帰させうる唯一の方策だと思われる。

(神の)見えざる手

では、規制を撤廃すれば市場のうちで最適な富の分配が実現されるという論理は、一体何によって支えられているのだろうか?

それが(神の)見えざる手だ。

神の、をカッコに入れている理由は、スミスの実際の表現は「the invisible hand」だからだ(theという定冠詞が神を連想させると言えなくもないが)。

資本を用いる誰もが、みずからの利益を市場のうちで追求するとき、その社会にとって最も有利な仕事を自然に選ぶことになる。

まず第1に、かれは自分の資本を国内で、できるだけ多くの労働を維持できるように用いようとする。海外へと資本を投資するのはリスクが大きいからだ。

そして第2に、かれは国内取引で生産物ができるだけ大きな価値をもつようにする。つまり結果的に、誰もが必然的に社会の収入を大きくしようと努めることになる。

その意味で、個人はみずからの利益だけを意図しているにも関わらず、「見えざる手」に導かれて、社会の利益を推進するようになる。本来目がけていなかった目的を推進するようになるのだ。

自分自身の利益を追求することによって、彼はしばしば、実際に社会の利益を推進しようとするばあいよりも効果的に、それを推進する。公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人びとによって、あまり大きな利益が実現された例を私はまったく知らない。

税で社会のインフラを整備する

市場における規制が社会の均衡状態を妨げる。それゆえ、そうした規制を取り除くことが社会の健康状態を回復するために必要なことである。

しかしスミスは、そうした規制を取り除けば十分だと考えていたわけではない。

富の増加によって、新たな問題が立ちあらわれてくる。それに対処することが、市場経済だけでなく、公共の利益、人びとの生活を維持するために必要になる。その役割を果たすのは、市場の原理にできるかぎり左右されない政府だ。そうスミスはいうわけだ。

政府が関与すべき領域は、スミスによれば、防衛、司法、交通、教育の4つだ。

国が富むにつれて、国民全体は戦争を行う動機をもたなくなる。しかしその富ゆえに近隣の国の侵略対象となってしまう。 そこで政府は民兵制もしくは常備軍制によって、公共を防衛する必要がある。

防衛は外部からの脅威に対する予防措置だが、司法は国内の脅威に対する措置だ。司法権力を打ち立ててルールを公正に施行することで、国内で成員間に不正や抑圧が生じないように対策する、もしくは生じた場合はそれに対応する必要がある。

また、商業を促進するために、道路や橋、運河や港といったインフラを造り、それらを維持する必要がある。それらは公共事業の一環として整備されなければならない。

最後に教育だ。商業が促進され、分業が進むにつれて、人びとの労働は単純労働に限定されてしまう。そのため彼らは精神の活発さを失ってしまい、おろかで無知となってしまう。政府が何らかの対策をとらない限り、人びとはそうした状態に陥らざるをえない。

彼自身の特定の職業での彼の腕前は、このようにして、彼の知的社会的軍事的な徳を犠牲にして獲得されるように思われる。だがこれこそ、政府がそれを防止するためにいくらか骨を折らないかぎり、改良され文明化したすべての社会で、労働貧民すなわち国民の大部分が、必然的におちいるにちがいない状態なのである。

ここに公教育の意味がある。ある程度の財産や身分をもつひとは私教育を受けることができるが、一般の人びとはそうした余裕をもたない。

しかし一般民衆も彼らと同様に読み書きの基本的な能力を身につけることができる。政府が公教育を行うことによって、人びとは精神的にも豊かな生活を送るための能力を身につけることができるのだ。

公共はきわめてわずかな経費で、国民のほとんどすべてにたいして、教育のそれらもっとも基本的な部分を取得する必要を助長し、奨励し、さらには義務づけることさえ、できるのである。

ところで、それらのサービスを行うための資金は、税金によってまかわれなるほかない。なぜなら、公共の貯えや土地は、足しになる程度でしかなく、原資とするには不十分だからだ。

税には人頭税(=住民税)と消費税がある。住民税は収入の低い人でも支払えなければならないので、必然的に低い水準にならざるをえない。

消費税については、必需品とぜいたく品が課税の対象となる。必需品に対する税は、必需品の平均価格を押し上げる効果をもち、貧しい人びとの労働力としての能力を減少させてしまう。それに対して、ぜいたく品は買わなくてもいいものであり、むしろ貧しい人びとに節約させ、労働力としての能力を増大させる。その意味では、ぜいたく品に対する税のほうが、必需品に対する税よりも望ましいことになる。

経済学を人びとの生活のうちに位置づける

スミスのキーワードとしては、(神の)見えざる手が最もよく知られている。

しかしそれは、スミスの思想の半分しか言い表していない。

スミスは単に経済活動のメカニズムを提示できれば万事OKと考えていたわけではない。経済学の根本問題は、人びとが豊かな生活を送るための原理、可能性を示すことにある。冒頭でスミスはそう言っていた。

経済学は民衆と主権者との双方を富ますことをめざしている。

スミスは分業にもとづく経済活動が発展するにつれて、人びとの生活が経済活動によっておびやかされることを強く意識していた。経済学の本義は、人びとの生活を豊かにすることにある以上、人びとの生活をトータルに捉える必要がある。経済の動きを捉えることは、その一部分にすぎない。

今日の経済学でも、スミスのいう見えざる手のようなもの(市場の自律的な調整機能)が存在するかどうかをめぐって議論が交わされている。しかし、見えない手があろうとなかろうと、経済学が人びとの豊かな生活のためのひとつの手段であるというスミスの主張は、確かに納得できるはずだ。

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