セネカ『幸福な人生について』を解読する

『幸福な人生について』De Vita Beataは、ストア派哲学者のセネカによる作品だ。『人生の短さについて』や『心の平静について』と同じく、いわゆる「道徳論集」のうちの一篇だ。セネカの兄アンナエウス・ノヴァトゥスに宛てて書かれたとされている。

何が最善かを知る

初めにセネカは、本書の目的を次のように表現している。

われわれが知ろうとするのは、一体何を行なうのが最善であるか、ということであって、何が最も多く世の中に行なわれているか、ということではない。また、何がわれわれを永遠の幸福の所有者にするか、ということであって、何が俗衆に、つまり真理の最悪の解釈者である彼らに推賞されているか、ということではない。

外見だけの善にダマされるのは一般人。私たちは外見にダマされず、確固とした善、隠されているゆえに美しい善を探し求めようではないか。そうセネカは言う。

一般的な善はニセものであり、哲学者(すなわち私セネカ)が本当の善を知っている。こういう構えは反動形成としては典型的だ。

幸福な人生=人生の「自然」にかなった生活

ここでセネカは、タイトルにもある「幸福な人生」とは、人生の「自然」にかなった生活であると言う。何にも驚いたり揺れ動いたりすることなく、自然の定めに従うこと。それが幸福な人生である、とセネカは主張する。

ストア派のすべての人々の間で意見の一致をみているように、私は自然の定めに従う。自然から迷い出ることなく、自然の法則と理想に順応して自己を形成すること、これが英知なのである。

われわれは自然を指導者として用いねばならないのである。理性は自然を尊重し、自然から助言を求める。それゆえ、幸福に生きるということは、とりもなおさず自然に従って生きることである。

そのための条件は、ひとつが心の健全さ、もうひとつが心の強さ、最後が冷静沈着であることだ。

そうした心は、徳を行うことを唯一の善とし、背徳は唯一の悪、その他は下らないクズと見なす。クズが増えようが減ろうが最高の善には何ら影響を及ぼさない。

心がそうした境地に達すると、心の底から深い喜びが感じられる。彼は自分自身の内側に喜びを感じ、本来与えられた以上のものを望まない。こうした喜びが、肉体的で瞬間的な快感と釣り合うわけがない。

徳と快楽は相反する

セネカいわく、徳と快楽は相反する。徳は高貴で不滅だが、快楽は低俗で壊れやすいのだ、と。

徳は或る高貴なものであり、他に秀でて王者のごとく、敗れることはなく、疲れることもない。しかし快楽は低俗で卑しく、弱くて壊れやすい。

最高の善は不死であって、滅びることを知らないし、満足することも後悔することもない。正しい心は決して向きを変えることはなく、自己を嫌悪することもなく、また何ものをも最善の生活から変えたことはないからである。しかし、快楽は最高の喜びに達すると消えてしまう。

だが徳によって快楽「もまた」得られる

ここでセネカは次のような疑問を想定する。

「しかし君にしても、徳を尊ぶのは他でもない、或る種の快楽を徳から期待するからだ」

徳を大事にするのは、何らかの快楽をそこから期待するからではないのか?徳と快楽は両立するのではないのか?—これはドイツの哲学者イマヌエル・カントが定式化した徳福一致と同じ類型の問題だ。

カントの解法については、こちらで解説しました → カント『実践理性批判』を解読する

この問題に対して、セネカは次のように答える。

徳は快楽を与えるのではない。それは快楽「をも」与えてくれるのだ。徳は快楽それ自体を求めるのではなく、他のものを求める結果として快楽を得るのだ。

そのような快楽は賢者の快楽である。それは控えめでつつましく、ほとんど目立たない。賢者はみずから求めるのではなく、向こうからやって来る快楽をそのものとして受け入れる。冗談を真面目なことに混ぜ入れる程度に、快楽を生活に混ぜ入れるのだ。

率直に言うと、これでは反論になっていない。快楽と両立する徳があると言ったところで、その区別に根拠があるわけではない。とても恣意的な区別だ。

エピクロスに同意

セネカはここで、ヘレニズム哲学の一派であるエピクロス派についてコメントする。

一般的にエピクロス派とストア派は対立的なものと見なされるが、セネカによれば、快楽を自然に従わせるという点でエピクロス派の主張は正当である。ストア派が徳に対して適用している法則を、エピクロス派は快楽に対して適用しているのだ、と。

エピクロスの説くところは崇高であり、また道徳的にも正しく、間近に寄ってよく見れば、厳格でさえもある。つまり、彼の説く快楽なるものは、結局は小さな狭い範囲に帰着するのであって、われわれストア派の者が徳のために主張する法則と同じ法則を、快楽のために主張している。彼が守るのも、快楽を自然に従わしめよ、というのである。ところで、自然の欲求だけを満足させるものは、贅沢とはほとんど言えないものである。

生活の贅沢さが問題なのではない

セネカは次に、彼自身への批判に対して自己弁護を試みる。

批判の中身は以下のようなものだ。

セネカよ、あんたは「贅沢は敵!」な調子でベラベラ抜かしているが、あんたも同じじゃないのか。あんたは広い土地をもっているし、家具も整っている。酒もやっているし、鳥かごもしつらえてある。おまけに女房はイヤリングまでしていやがる。結局、あんたは口先だけなんじゃないのか。

帝政ローマの政治家・歴史家のタキトゥスによれば、同時期の政治家プブリウス・スイッリウス・ルフスなどから実際にそうした批判を受けていたようだ。

セネカがここでルフスを意識していたかは分からないが、ともあれ次のように答えている。

私は賢者ではないし、また—と言うと君の悪意をいよいよ募らすことになろうが—私は賢者にはなれないであろう。だから私に要求してもらいたいのは、私が最善の人間と同等になることではなく、悪い人間よりも善くなる、ということである。毎日毎日自分の欠点を幾らかでも取り除き、また自分の過失を責めること、これができれば私には十分である。

私が語るのも徳についてであって、私についてではない。しかし悪徳を非難するときには、まず第一に私自身の悪徳を非難する。やがてできるようになれば、私も正しい生き方をしたい。

セネカはここで、彼に対する批判が何に向かっているかを受け止めているようには見えない。

確かにルフスらは政治的な観点から、セネカ個人や彼の生活ぶりを攻撃しようとしていたかもしれない。しかし思想としての観点からすれば、そういうことが問題なのではない。よい快楽と悪しき快楽を区別すること、賢者という超越項によって一般性を否定することの根拠、言いかえると、思想としての普遍性が問題なのだ。そのことをセネカは全く理解していない。

俺の金は汚くない

続けてセネカは、同様の調子で以下のように言う。

哲学者は十分な資産を持つこともあろうが、しかしそれは誰から奪ったものでもなく、他人の血に染ったものでもない。誰かを傷つけて手に入れたものでもなく、汚い遣り口で得たものでもない。それが入って来るのも出て行くのも、同じく正当であり、悪意を抱く者以外は、これを恨む者はないであろう。こういう財産なら、好きなだけ積み上げるがよい。

他にもセネカは色々自己弁護しているが、要するに「俺の金は汚くない。批判されるいわれはない」ということだ。

俺の振り見て我が振り直せ

最後にセネカは、こんな捨て台詞を残している。

かりそめにも君たちが、私の「悪徳」を真似るようにでもなれば、そのときこそ君たちは最大の仕合わせ者になれるだろう。それよりもむしろ、なぜ君たちは自分たちの悪を顧みないのか。その悪の或るものは外側から攻め込み、或るものは内臓のなかでさえ燃えている、というように、あらゆる方面から君たちを侵しているのだ。人生の現実は、たとえ君たちが自分の情況をあまり承知していないにしても、自分よりも立派な人々の悪口を言うため舌を勝手に動かす余裕のあるほど、それほど暇があり余っている状態にはない。

立派な人間(俺のような)を批判する暇があるなら、自分たちの悪徳を治すことに力を注いだらどうだ、と。きわめてイヤミな言い方だ。

仮にもストア派を称する人間が、なぜここまでひねくれた言い方をするのだろう。それほどまで自分の生活に後ろめたさがあったのだろうか。それとも、政治的に高い地位にある俺が間違っているはずがない、社会が間違っているんだと思っていたんだろうか。

ともかく、本編の議論は以上だ。

思想が他者攻撃に使われるとき

同じストア派でも、マルクス・アウレリウスの『自省録』を読むと、受ける印象は非常に異なる。その理由はおそらく、『自省録』が自戒を目的として著されたところにある。

『自省録』は、マルクス・アウレリウスが公務の合間を縫って自分用に書き留めていたものであり、誰か別の読者を想定していたわけではない。彼は、あくまで自分の生活を改善するための手段として、ストア派の哲学を使っていた。それは彼にとって「自己配慮」の方法だったのだ。

一方、本篇におけるセネカの言い方はどうだろうか?賢者の快楽(真の快楽)と、そうでない快楽(ニセの快楽)を恣意的に区別し、「自分は賢者の快楽が何であるか知っている。たとえ実践できていなくても、知っているだけお前たちよりエライのだ」と自分を弁護する。これは自己配慮ではなく、単なる他者攻撃だ。

ストア派の哲学は自己配慮の手段としては強力な方法となりうる。しかしそれが他者攻撃に使われると「何様のつもりだよ」感が全面に出てくる。もっともこれはストア派に限ったことではなく、思想一般について言えることだ。