シャンカラ『不二一元論』を解読する

『不二一元論』は、インド哲学の一派ヴェーダーンタ学派を代表するシャンカラ(700年頃~750年頃)によって著された著作だ。

ヴェーダーンタ学派が現れる以前、インド哲学には主な学派として、ヨーガ派とサーンキヤ学派が成立していた。サーンキヤ学派を代表するイーシュヴァラクリシュナは、4世紀から5世紀頃、『古典サーンキヤ体系概説』にて、原質・派生物と、原質の開展を観察する精神原理という二元論を打ち出した。

ヴェーダーンタ学派のポイントは、そうしたヨーガ・サーンキヤ的な二元論に対して、自我と外界の一元論を打ち出す点にある。

本書でシャンカラは次のように論じている。サーンキヤ派やヨーガ派は自我(アートマン)と外界を別々のものとして捉えているが、それは間違っている、なぜなら自我と外界はそもそも同一だからだ、と。

自我と現象界はそもそも同一

サーンキヤ学派とヨーガ学派では、私たちの自我と外界が別々に存在しているとされる。意識が外界のありようを完全に見て取ることが解脱のための条件である。それゆえ、解脱を志す者は、煩悩を取り去る訓練をしなければならない。これがそれらの教えだ。

これに対して、ヴェーダーンタ学派では、自我と外界はそもそも同一であり、梵我一如であるとされる。

必要なのは煩悩を無くす訓練ではなく、そもそも世界が梵我一如であることに気づくことである。これがシャンカラの教えのポイントだ。

経験的個我はブラフマンを本質とする。またブラフマンと現象界は本質的に同一だ。それゆえ個我と現象界は本来的に同一であり、経験主体と経験対象の間に区別は存在しない。

確かにひとはブラフマンと現象界を区別している。しかしそれは単に便宜的なものでしかない。私は『ブラフマ・スートラ』で、瞑想のときにはブラフマンに集中すべしと論じた。しかしこれは、そうした瞑想に通じない世俗のために、あえてブラフマンと現象界の区別を置いたに過ぎないのだ。

本当は梵我一如だけど、民衆は蒙昧なので、分かりやすく説明できるよう、あえて二元論的な見方を取ったのだ。こうした二枚舌は、仏教でいうところの方便と基本的には同じものだ。もっとも仏教では、方便があくまで悟りを目的として用いられるのに対し、シャンカラの二枚舌は、サーンキヤ学派・ヨーガ学派を相対化するために利用されているにすぎない。

自我=現象界=最高神アートマン

本来、経験的個我は最高神アートマンそれ自体だ。しかしそれは個体のうちに誤って限定されてしまっている。真実を知らない人たちが、名称や形態なるものを考え出して、経験的個我を個体のうちへと押し込んだからだ。

全知の最高神(自身)はそれら(名称・形態)とは異なるのである。

彼(最高神)は、日常経験の領域内では、多数の、生命と名づけられる経験的個我に対して主宰者となるのである。—それらの経験的個我は、(本来は最高神)自身と同体なのであるが、壷のなかの空間(が壷に限定されているの)と同じように、無知によって発生させられた名称・形態がつくり出した身体・器官の集合体(個体)に限定されているのである。

一元論と二元論

本書でシャンカラは、自分に都合のいい議論だけを論拠にしている感が強い。その点で思想としての条件を満たしていないように見える。

ただ面白いのは、サーンキヤとシャンカラの間に見られるような関係は、デカルト的な二元論とスピノザ的な一元論の関係として、近代哲学でも繰り返されていることだ。このことは人間の思考パターンには時代と場所を越えた共通構造をもっていることを示唆している。

シャンカラの示した世界像にまったくハマらないひとがいるのは当然だが、ヴェーダーンタ学派やサーンキヤ学派の世界観がカチーンとハマる人がいたとしても、それはそれで理由のあることではある。それゆえ、ここで考えるべき問題は(近代哲学によって考えられた問題は)、ヴェーダーンタとサーンキヤのどちらが正しいか、ではなく、なぜこの2つの世界像が現れてきてしまうのか、である。