プラトン『饗宴』を解読する

「行くぞアルキビアデス」
「行くぞアルキビアデス」

本書『饗宴』はプラトン(紀元前428頃~紀元前347頃)による対話篇だ。『メノン』『パイドロス』と同じく、ソクラテスを主役とする。テーマは恋(エロス)だ。

最初に言っておくと、プラトンが本書で論じている恋は、少年愛のことを指している。いまではかなりアブナイものに聞こえるが、当時のギリシャで少年愛は、ポリスの市民(参政権をもつ男性)に暗黙の義務として課せられているものだったようだ。古代ギリシアで少年愛は決して特殊なものではなかったようだ。

「少年愛と現代の恋愛のあり方は大きく異なる。プラトンの恋愛論は、古代ギリシャにしか当てはまらないのではないだろうか?」そう思うひともいるかもしれない。

しかし逆に、こうした違いがあるからこそ、私たちはプラトンの議論の普遍性をよりよく吟味し、確かめることができる。そうした形式上の違いがあっても納得できるなら、それはプラトンが恋愛の本質を上手く言い当てていることを示していることになるからだ。

「恋」(エロス)とは何か?

『饗宴』は、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス、アガトン、ソクラテスの6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形で進んでいく。

初めにパイドロスが次のように言う。エロス神は讃えられるべきだが、それは生まれの古さにある。古さゆえにエロス神は「善さ」の源泉であり、徳と幸福を得るために最も強い力になるのだ。

それに対してパウサニアスが反論する。パイドロス、君はエロス神を1種類しかいないと想定している。しかし実は、2種類のアプロディーテーに応じて2種類のエロスがいる。パンデモス・アプロディテに属するエロスは節操無く誰に対しても向かう恋である。他方ウラニア・アプロディテに属するエロスはただ理性的な男性のみに対して向かう。このエロスこそが賞賛に値するのだ。

このパウサニアスの主張を、エリュクシマコスが別の視点から批判する。パウサニアス、君がエロスを2種類に区別したのは見事だ。しかし、ただ少年の美を目指すだけでなく、徳も同時に目指すようなエロスこそが賞賛に値することを忘れてはいけない。徳を通じて善さの実現へと向かうエロスこそが讃えられるべきだ。

以上の3人に対して、アリストパネスは次のように述べる。ちょっと待ちたまえ、君たちはかつて人間に起こった出来事を学ばないといけない。人間は本来、男女に分かれてはいなかった。人間は神々に対して不遜な態度を取り続けていたゆえに、ゼウスによって男女へと分けられてしまったからだ。したがって人間が本来の姿を取り戻すために、みずからの片割れを探し求めるのは当然ではないか。「完全なものへのこの欲望と追求に対して、恋という名がつけられているのである。」

このアリストパネスの説を分かりやすく解説している画像がDeviantArtにアップロードされています(Plato's Symposium by ~Shira-chan on deviantART)。タイトルこそプラトンの『饗宴』となっていますが、プラトンのポイントはあくまで以下のソクラテス説にあるので、誤解なきよう。

次にアガトンはこう主張する。エロスは最も美しく高貴である。その意味で最も幸福な神である。さらにいえば、エロスは正義の徳、慎みの徳、勇気の徳、そして知恵の徳を備える。知恵の徳をもつゆえに、エロスにひとたび触れられると、誰もが詩人となってしまうのである、と。

恋とは、善きものと幸福への欲望である

以上のように5人が意見を述べた後で、ソクラテスが次のように主張する。

かつて私は、マンティネイアの婦人ディオティマに次のように尋ねたことがある。「エロスとは一体何なのでしょうか?」と。それに対してディオティマはこう答えた。

全体的に言って、恋とは、あの善きものと幸福への欲望なのです。

恋とは、善きものが永遠に自分のものであることを目ざすもの、というわけです。

恋とは善きものと幸福を手に入れようとめがける欲望である。これがソクラテスがディオティマから受け取ったポイントだ。

「善きもの」と聞くと、キリスト教的な道徳をイメージするかもしれないが、ここではそれは全般的な「よさ」のことだ。一日一善的、キリスト教的道徳は、そのうちのひとつにすぎない。

恋は相手のうちに何かしらのロマン的な「よさ」を見て、それをわがものにしようとする欲望だというのは、とても本質的な直観だ。そのことは私たち自身の恋愛経験を振り返ってみても、はっきりと見て取ることができるはずだ。

肉体の美を入口とする

ディオティマはソクラテスに対して、続けて次のように言う。

恋する者が最初に向かうべきは美しい肉体です。美しい肉体に向かったあとは、美しい魂に向かうこと。それによって肉体の美は魂の美よりも些細であることに気づくことができます。その後、美しい魂から「知識」へと向かっていかねばなりません。

これこそ正しき恋の道です。この道をたどることによって、美そのものに到達することができるのです。

したがって、正しき恋の道は、地上の美しいものを出発点として、この美そのものをめがけて上昇してゆくという過程なのです。

美しい肉体よりも美しい魂、知識を上位に置くことは、決して肉体の美を否定することを意味しない。

いわゆる「プラトニック・ラブ」は、恋愛の肉体的な側面を否定し、精神的側面に価値を置くものだが、実のところそれはソクラテス・プラトンのいう恋愛とは異なる。なぜならソクラテス・プラトンは、美しい肉体は恋愛の入口として必要であり、ごくわずかでも肉体の美が感じられなければ、恋愛は成立しないと主張しているからだ。「プラトニック・ラブ」のように肉体的側面を全否定するわけではなく、それを恋愛のひとつの「きっかけ」として捉えているのだ。

本篇の議論は以上だ。

恋愛の本質(現代版)は?

プラトンの議論が本当に普遍的(=私たちにとっても当てはまる)かどうかについては、あらためて検討する必要がある。特に女性の視点から吟味すると面白いだろう。というよりも、それなしではプラトンが恋愛の本質をうまく表現できているかを判断することは非常に難しい。男性にとってよく分かる言い方でも、女性にとってもそうとは必ずしも言えないからだ。

とはいえ、プラトンが恋愛のロマン性とエロス性を否定することなく、ともに恋愛の核心として取り出した点は、まったく妥当だ。その両者の関係については、プラトンの別の作品『パイドロス』でも論じられている。

もちろんプラトンが恋愛の全てを言い当てているわけではない。とくに失恋の本質をプラトンの議論のうちから読み取ることは難しい。なぜならそれは自由恋愛の制度が成立した近代以後に徐々に浮かび上がってきた問題だからだ。現代の恋愛の本質は、私たちの恋愛経験から見て取るしかない。プラトンに依存してもムダだ。

バタイユと比べてみると…

エロス性について論じた哲学者としては、ジョルジュ・バタイユを外すことはできない。バタイユは主著の『エロティシズム』で、エロティシズムの本質を「禁止の侵犯」と規定していた。美は侵犯によって汚(けが)すことができるからこそ、男性にとっての欲望の対象となる。そうバタイユは言っていた。

もちろんバタイユの言い方も分かる。特に男性にとっては納得できるところが多い。ただ、美は「よさ」と結びついてこそ至高のものになるというプラトンの直観も、なるほど確かにと思わせるものだ。バタイユは「連続性へのノスタルジー」というイメージを使っているが、プラトンの「善(よさ)を目がける欲望」という言い方のほうが、ポイントをスッキリと表現できているように思う。ぜひ読み比べて、どちらがうまく言えているか比較してみてほしい。

饗宴 (岩波文庫)