プラトン『パイドン』を解読する

アリストテレス、トマス・アクィナス、プラトン
アリストテレス、トマス・アクィナス、プラトン

『パイドン』は、『メノン』や『国家』に並ぶ、プラトン中期の代表作だ。ソクラテス亡き後、ソクラテスの弟子のひとりだったパイドンが、哲学者エケクラテスにソクラテスの最期の様子を語るという形式で書かれている。

プラトニズム

この著作では、プラトンのいわゆる「プラトニズム」がハッキリと現れている。プラトニズムとは、肉体を否定し、魂(精神)を善いとみなす態度のことだ。プラトンは次のように言っている。

哲学者の本義は「イデア」を捉えることだ。イデアを捉えるためには、哲学者はみずからの肉体から離脱しなければならない。肉体は真理を認識することにとっては邪魔者でしかないからだ。

哲学者というのは、普通人とはちがって、魂を肉体との結びつきからできるだけ解放しようとする者だ

イデアは、あるものを「それ」たらしめている本質のことだ。真実在と訳されることもある。

たとえば、世界には無数の机がある。それらは形も大きさも様々だ。にもかかわらず、それが机だと認識できるのは、私が個々の机のうちに机そのものを見て取っているからだ。この「そのもの」こそ、プラトンがイデアと呼んでいるものだ。

では、どうすればイデアを認識できるのだろうか?

「それでは、真実がすこしでも魂に明らかになることがありうるとすれば、それは思惟することにおいてではないか」

「はい」

「ところが、思惟が最もみごとに働くのは、魂が、聴覚、視覚、苦痛、快楽といった肉体的なものにわずらわされることなく、肉体を離れて、できるだけ魂だけになって、肉体との協力も接触もできるだけこばみ、ものの真実を追究するときなのだ」

「そうです」

「だから、この点でもまた、哲学者の魂は、できるだけ肉体を蔑視し、それから逃れて、魂だけになろうとするのではないか」

「たしかに」

哲学者は、肉体からみずからを解放するように努力しなければならない。肉体にとらわれていては何が真のイデアであるかを理解することはできないからだ。

真のイデアは、肉体を離れて純粋な魂となったときに、すなわち死に至ったときに初めて見ることができるのだ。

何かを純粋に見ようとするなら、肉体から離れて、魂そのものによって、ものそのものを見なければならぬということは、われわれにはたしかに明白な事実なのだ。そして思うに、そのときにこそ、われわれが求めこがれている知恵が、われわれのものになりうるのだ。ぼくたちの議論の示すように、それは死んでからであって、生きているうちには不可能なのだ。

魂の不死

真のイデアを見ることができるのは、魂が肉体から解き放たれたときだ。では、なぜ私たちは肉体から魂を解き放つことができるのか。それは、私たちの魂は肉体から離れてもなお生き続けられるからだ。肉体と異なり、魂は不死だといわねばならない。

プラトンによれば、魂の不死は次のように証明できる。魂は肉体の死後、この世からあの世へ行くとされる。生まれ変わるとは、あの世にある魂が、死んだもののうちで生まれ変わることだ。それゆえ、魂の不死は必然的だ、と。

魂は不死であり、肉体が死んだあと初めて魂は純粋となる。肉体に縛られている間は何が真のイデアであるかを知ることができず、純粋な魂となったとき、はじめてそれを知ることができる…。

こうしたプラトンの議論は、いまやほとんど納得感をもたらさない。それは哲学というよりも宗教的な物語だ。事実、プラトンのイデア論は、のちにプロティノスによってキリスト教哲学に取り込まれることとなった。

何が「最善」かを探求すべし

ここまでからすると、プラトンが何かあやしい形而上学をこねくりまわしていると見ても決して間違っていない(もっとも、プラトン自身は物語を使っていることに自覚的ではあったが)。

しかし、以下のプラトンの議論は、以上と対照的に、かなり高く評価できる水準にある。プラトンはソクラテスの口を通じて、次のように言う。

かつて私は、アナクサゴラスが「万物を秩序づけている原因は知性(ヌース)である」と論じているのを読んだことがある。そのとき私はこの「原因」の考えに共鳴した。知性とは世界を善にしたがう秩序として統合しているものに違いなく、もしそうであれば、考えるべきは何が最高の善であるか、になるからだ。

この考えによると、人間自身についても、また、そのほかの何についても、何が最善であり何が最上であるかということ以外には、人間にとって探究するに値するものは何一つないことになる。

その答えをアナクサゴラスが書いてくれている。そう思って私は喜んだのだが、それは間違いだった。アナクサゴラスは知性を世界を秩序づける原因とみなすかわりに、水やエーテルなど訳の分からないものを原因とみなしていたのだ。

たとえば、いま私がこのように牢獄のうちにいることを、アナクサゴラスであれば次のように論じるだろう。私の身体は骨と筋肉からできている。腱と筋肉は骨同士を関節部で結合し、骨がばらばらにならないようにまとめている。腱を縮めたり伸ばしたりすることによって、私は足を曲げることができる。これらが原因となって私はここにいるのだ、と。

しかし、それは本当の原因ではなく、原因を原因たらしめる条件でしかない。私がここにいる本当の原因は、アテネ人が私に刑罰を与えるのを善いと思ったからであり、私が裁決を受け入れ、それにしたがって刑罰を受けることを善いと思ったからだ。善が本当の原因である。さもなければ、腱や骨が私の意志に関係なく、とっくに脱獄してこの土地を離れていたに違いない。それらは原因を原因たらしめている条件であり、それら自体を原因と見なすのはまったく馬鹿げたことだ。

魂の配慮=自己配慮が大事

次のプラトンのキーワードは、魂の配慮(世話)だ。

魂は不死である。したがって魂は、この人生が過ぎ去ったとしても、再び生まれ変わるだろう。もしそうであるならば、ひとは自分の魂をたえず配慮しなければならない。なぜなら、人間のすべてを支配するのは魂であり、魂をよりよいものへとみがきあげていくことが各人にとって大事だからだ。

しかし、君たち、もう一つ考えておくべきことがある。それは、もし魂が不死であるなら、われわれが人生と呼ぶこの期間だけでなく、全時間にわたっても、魂の世話をしなければならぬということだ。

ひとがなすべきは魂の配慮、現代風に言い換えると自己配慮である。ソクラテス・プラトン以前にこうした主張を行う哲学者はほとんどいなかったことは着目に値する。

意味と価値の世界像

パイドン(岩波文庫)

プラトンの表現を、あたかもどこかに究極の「善」が存在し、その働きが世界を結合していると言っているように受け取ると、プラトンは物語をこねくり回す形而上学者意外の何ものでもないことになる。

しかしプラトンの本意はおそらく次のところにある。つまり世界はたんなる事物の集合体ではなく、第一に意味と価値の秩序として存在するのであって、事物としての側面はその秩序に従う。それゆえ哲学が特に考えなくてはならないのは、意味と価値の秩序のもつ本質である、と。

こう見るとプラトンの直観は鋭く、なるほどと思わせられる。なぜならそれは、私たちが一方で自然科学の世界像をもつと同時に、善や美の諸価値から編まれた世界像ももつことを教えてくれるからだ。