プラトン『パイドロス』を解読する

ソクラテス

本書『パイドロス』は、古代ギリシアの哲学者プラトンによる対話篇だ。

本書のテーマは、『饗宴』と同じく恋愛だ。ただし、本書でプラトンは『饗宴』とは若干異なる側面を取り出している。その側面とは、エロティシズムとロマンティシズムの相克だ。

『饗宴』は、エロティシズムとロマンティシズムの両方を恋愛の本質として規定していたが、『パイドロス』はもう一歩踏み込んで、ひとたび恋愛におちいったひとが遭遇するエロティシズムとロマンティシズムの争いを描き出している。一度でも恋に落ちたことがあれば、プラトンの言っていることを理解するのは決して難しくないはずだ。

ところで、この作品で恋愛論が占めているのは全体の半分程度で、残りは弁論術に関する対話となっている。ここでは『メノン』で現れていた普遍性に対するプラトンの感度をはっきり見て取ることができる。その点もあわせて確認してみたい。

恋の「本質」を明らかにせよ

対話はパイドロスという若者が、恋愛に関するリュシアスの議論をソクラテスに伝えるところから始まる。パイドロスは次のように言う。

ソクラテス、普通ひとは自分を恋してくれている人に身を任せるのがよいと考えていますが、リュシアスはむしろ自分を恋していない人にこそ身を任せるべきだ、と主張しています。

その理由は色々あるようですが、結局は、恋する人は他の人たちから諌められるが、恋に陥っていないひとは諌められないということのようです。恋をしているひとは恋の力に流されてしまい、自己をしっかりと配慮することができない。だから恋していない人にこそ身を任せるべきだ。このリュシアスの見解は確かに納得できませんか?

そう尋ねるパイドロスに、ソクラテスは次のように返答する。

ひとがどんなことを論議するにしても、そこからよき成果をあげようとするなら、はじめにしておかなければならないことが一つある。それは、論議にとりあげている当の事柄の本質が何であるかを、知っておかなければいけないということだ。それをしないと、完全に失敗することになるのは必定である。… 彼らは、自分自身とも、またお互いに相手の者とも、言うことが一致しないのである。

まず初めに問われている事柄の本質を明らかにせよ。さもなければ、議論はただの言い争いに終わってしまい、共通了解を作り上げることはできないだろう。このようにソクラテスはパイドロスを諭す。

恋の本質=よき「狂気」

そこでソクラテスは、恋の概念の起源にさかのぼることで、恋のもつ本質を取り出そうとする。

恋とは、欲望、なかでも勢いさかんに(エローメノース)強められる(ローステイサ)盲目的な欲望のことを指す。この欲望が、力(ローメー)に由来して、恋(エロース)と呼ばれるようになったのだ。

しかし、そうした盲目的な欲望にかられる人は、相手が孤独になることを望む。そうなれば彼は相手から振り向いてもらえるチャンスを手にすることができるからだ。そうであれば、彼が恋愛と思っているものは、実は自分の欲望を満足させるためだけの欲望でしかないことになる。

しかし・・・この見方は本質的ではない。恋は確かによいものであり、悪いものではないからだ。

私はここまで間違った仕方で恋について考えてきた。そこでもう一度、恋の本質について考えてみよう。

そう言って、ソクラテスはもう一度最初から恋について論じ始める。

ここでのソクラテスの議論は、ともすれば私たちが陥ってしまいかねない誤りを指摘してくれている。私たちはしばしば、ある概念の本質を把握することは、その語の歴史的変遷をたどることによって可能となると思ってしまうことがある。

しかし起源と本質は等しくない。なぜなら本質とは歴史を通じてその概念のうちに見出される共通項のことを指すからだ。

本質を取り出すためには適切な方法がなければならない。そうプラトンは言う。プラトンはこのことを別の対話篇『クラテュロス』でも主張している。決して思いつきでこのことを主張したわけではない。

さて、私はステシコロスがこのように言うのを聞いた。恋とは狂気である、と。

狂気と聞くと何か怪しく思うかもしれない。しかしこれは決して悪いものや害を与えるものではない。なぜなら恋とは、恋する人と恋される人の両方に利益を与えるものとして、神々から与えられるものだからだ。

その意味で、恋こそは、他のいかなる世俗のものにもまして、最も「よい」ものだと言わねばならない。

この狂気こそは、すべての神がかりの状態のなかで、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである

美のイデアの物語

恋の本質はよき狂気である。ソクラテスはこのことを、ひとつのたとえ話によって説明しようとする。

私たちの魂を、一組の馬と、その手綱を取る馭者からなっていると考えてみよう。彼らは翼をもち、それによって宇宙をかけめぐる。

そのとき魂は、神々の魂の行進に従ってゆく。神々の魂は、天を登りつめると、天球の外側に出て、天の外の世界に入る。魂も一緒にその世界へと入り、「正義そのもの」や「美そのもの」といった、さまざまな「そのもの」(イデア)を見てまわる。

しかし、魂がそれ以上神の魂の行進について行けなくなると、地上に落ちてきて、肉体のうちに植えつけられる。人間はこうして誕生する。

したがって私たちが何かを認識することは、かつて魂が見たイデアを思い出す(想起する)ことを指しているのだ。

しかしここにひとつの問題点がある。イデアを見たことのない魂はこの世に存在しないが、どの魂にとってもイデアを覚えておくことは簡単ではない。それは容易に忘れ去られてしまう。

ただし例外がひとつだけある。美のイデアがそれだ。美のイデアは他のイデアと異なり 、私たちの目に燦然と輝いていた。私たちはそれを最も輝いているままに捉えることができたのだ。

私たちは美のイデアを強く覚えているので、この世で美しい人を見ると、美のイデアを見たときのあの感情がよみがえり、意識の向こう側から私たちを襲ってくるのだ。

数多くの真実在をかつてじゅうぷんに観得した者が、美をさながらにうつした神々しいばかりの顔だちや、肉体の姿などを目にするときは、まず、おののきが彼を貫き、あのときの畏怖の情の幾分かがよみがえって彼を襲う。

もっとも私たちが見ているのは、その美しい人であって美そのものではない。このギャップゆえに恋する人はもだえ苦しむ。

にもかかわらず、美しい人の面影は確かに私たちの魂に喜びを与える。美しい人を目に捉えると、魂は確かに至上のよろこびを味わうことができる。その意味で、美しい人は最大の苦悶を癒してくれる「医者」なのだ。

ついにその姿を目にとらえ、愛の情念に身をうるおすや、魂は、それまですっかりふさがっていた部分を解きひらき、生気をとりもどして刺戟と苦悶から救われ、他方さらに、このくらべるものとてもない甘い快楽を、その瞬間に味わうのである。

その身に美をそなえた人こそは、この魂の畏敬のまとであるのみならず、最大の苦悶をいやしてくれる人としてこの世に見出すことのできた、たったひとりの医者なのである。

ここでプラトンの言っていることはとても興味深い。他のもろもろのイデアと異なり、美のイデアは彼岸から私たちへと「到来」してくる。美は“味わう”ものである。これはプラトンの恋愛論の核心にある重要な直観だ。

エロティシズム対ロマンティシズム

次にソクラテスは、魂の内面に着目する。魂を2頭の馬と、その馬を操る1人の馭者の関係になぞらえ、その関係性を魂の内面のドラマとして語ることで、恋へと向かう魂の性格を見てゆこうとする。

2頭の馬のうち、1頭は「節度と親しみ」をもち、言葉で命令すれば馭者に従う良馬だが、もう1頭のほうは「放縦と高慢の徒」であり、なかなか馭者に従わない悪馬だ。

この魂が美しい人を見たとき、思慮ある良馬のほうは、その人に飛びかかって行かないように自分を制御する。しかし放縦な悪馬は、「愛欲をともに味わおう」と美しい人に持ちかけるように良馬と馭者に強要する。

そこで魂は美しい人の方へと向かい、その姿を見る。馭者は立ちすくみ、その人の前から引き下がるが、悪馬は無理やりその人へと近づこうとする。しかし馭者は悪馬を力任せに制圧し、ついに悪馬は馭者の思慮深さに従うようになる。

こうして幾度となく同じ目にあったあげく、さしものたちの悪い馬も、わがままに暴れるのをやめたとき、ようやくにしてこの馬は、へりくだった心になって、馭者の思慮ぶかいはからいに従うようになり、美しい人を見ると、おそろしさのあまり、たえ入らんばかりになる。かくして、いまやついに、恋する者の魂は、愛人の後をしたうとき、慎しみと怖れにみたされるということになるのである。

ここでプラトンは思慮が愛欲に打ちかつストーリーを描いているが、それはプラトンの独断だ。とはいえ私たちは、恋をするときに自己の内面でこうした争いが生じることについては、確かな納得感をもつ。それぞれの馬はちょうどエロティシズムとロマンティシズムに対応している。プラトンの直観で大事なのは、どちらも恋愛にとっては本質的であり、どちらかを否定したり手放したりすることにはないということだ。エロティシズムなしにも、ロマンティシズムなしにも恋愛は成立しない。そのことをプラトンは教えてくれる。

ここまでが恋愛についての対話だ。

共通了解に到達できるか否かを吟味せよ

次にソクラテスとパイドロスは、初めに取り上げたリュシアスを振り返り、そもそも「弁論術」とは何か、ある事柄を書くとはどういうことかについて議論する。

初めにソクラテスは次のように言う。

議論を進めるためにはいくつかの技術があるが、それらを上手く使うためには、まずはじめに問われている事柄の本質について知っておかなければならない。そうしなければ議論は収束しないからだ。

ただし、「正しさ」や「善さ」のように、なかなか一定の見解が成り立たない事柄もある。

しかし、それが「正しい」とか「善い」とかいった語だとしたらどうだろう。めいめいが人によって考えを異にし、そしてぼくたちは、お互いにその意味を論議し合い、さらに自分自身でも、なかなか一定の見解をもつことができないのではなかろうか。

それゆえ、議論を上手に進めるための技術を身につけるためには、はじめに次の2つをなすべきである。どうしても複数の考えが成り立ってしまわざるをえない事柄と、簡単に共通了解を達成することができる事柄の特徴を捉えること。その上で、自分が話そうとする事柄がどちらに属するかを明確に見て取ること、この2つだ。

弁論の技術を追求しようとする者がまず第一にしなければならないことは、こういったいろいろの場合を一定の方法によって区別し、そして、多くの人々の考えが不定にならざるをえないような種類のものと、そうでない種類のものとの、それぞれの何らかの特徴をつかまえてしまうことである。

その次には、思うに、一つ一つの事物にぶつかったとき、自分が話そうとする事柄が、そもそもどちらの種類に属するかということに気かつかずにいるようなことなく、すみやかにこれを見てとらなければならない。

ディアレクティケー

この前提にもとづいて進められる正しい議論の方法を、ソクラテスは「ディアレクティケー」(弁論術)と呼ぶ。

かつて私は弁論術についての教科書を見たことがある。そこには序論、陳述、証拠、証明…といった手順は書かれていたが、私からすれば、それは弁論術のもつ側面にすぎない。弁論術の核心は、多様なものをひとつにまとめ上げること(総合)、そしてまとめあげたものを多様なものへと分割できること、この2つにある。

ディアレクティケーの本質は、総合と分割にある、とソクラテスは言う。

書かれた言葉は語られる言葉の「影」

最後にソクラテスは、書かれる言葉と話される言葉の違いに着目して、ものを立派に書くことの条件を取り出そうとする。

書かれた言葉は、イデアを学び知る魂のうちへと書き込まれる言葉の「影」にすぎない。

真実を知っており、みずからの語る言葉のほうが「影」よりも価値あることを証明できる力をもっている人、これが哲学者だ。詩人や作文家はそうした力をもっていない。彼らはあれこれ言葉をいじくりまわして作品を作り上げるが、心のうちには作品以上のものを何も持っていないのだ。

こうした結論に達したところで、ソクラテスとパイドロスの対話は終了する。

恋愛と弁論の本質論

プラトンが恋愛について下した結論が本当に妥当かどうかについては、疑問の残るところだろう。本当に魂の悪馬的部分が馭者の命令に従うようになるのか?悪馬の暴れ続ける魂もあるのではないか?そう問いたくなる。

しかしそれでもなお、恋に落ちたときに、相手の美しさをわがものにしようと欲望がわきあがる一方で、相手の内面に対する配慮が生じてくることがあると言われると、それはそれで確かに納得できる。エロティシズムとロマンティシズムの争いは恋愛の本質的な要素のひとつだと言えるだろう。

弁論術についての対話では、プラトンは「よい議論」の本質を取り出せている。問題点が共有され、共通の見解で合意し、新たな視野が開けてくる。よい議論がこうした共通項をもっていることをプラトンの議論は了解させてくれる。

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