オウエン『社会に関する新見解』を解読する

オウエン
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本書『社会に関する新見解』(『新社会観』)はイギリス・ウェールズ出身の社会主義者ロバート・オウエン(1771年~1858年)による著作だ。1813年に出版された。

オウエンは、サン=シモン、フーリエと並ぶ社会主義の先駆者だ。社会主義といえばマルクスとエンゲルスのコンビが絶対的な権威という感があるが、エンゲルスが『空想より科学へ』などで言っているように、社会主義はフランス革命以降、すでにひとつの思想として成立していた。

エンゲルスは同書で、オウエンらの社会主義を「空想的」であり、非科学的であると批判した。確かにオウエンの場合は、原理なく熱意だけで突っ走っている感がある。だが、それでもなお、積極的に社会問題にコミットする身軽さは評価に値する。熱意は問題を解決しないが、学問的な分析だけが問題を解決するわけでもない。問題の解決には、それに応じた実践もまた必要だ。このことをオウエンの議論は教えてくれる。

資本主義=分業体制は矛盾を生み出す

オウエンが現れてきた時代背景には、資本主義社会の生み出した矛盾がある。

イギリスの経済学者スミスは『国富論』で、「分業」が人びとの富(普遍的な富裕)の源泉である、と論じていた。

しかしオウエンにとって分業は、人びとに平等の富を与えて自由な生を生きることを可能にするどころか、貧富の差を絶えず拡大させるものとして映っていた。

オウエンはそうした現実を何とかよい方向へと向かわせるために、自分の財産を投じてアメリカに共産主義共同体「ニュー・ハーモニー村」の実現を試みるなど、思想面だけでなく実践面でも努力を重ねた。社会変革に対するオウエンのハートの熱さが感じられる一例だ(結局それは失敗に終わったが)。

教育に着目

オウエンがとりわけ着目していたのは、教育だ。

イギリスにおいて、分業の爆発的な拡大は産業革命という形を取って展開した。この産業革命を下支えしたのは、織り機・紡績機の発明、改良による工場制機械工業の誕生だ。

工場制機械工業と工場制手工業の大きな違いは、工場制機械工業では労働者が特殊な技能を習得する必要が無くなった点にある。労働者たちは、ただ機械の操作ができればよしとされた。それ以上の技術は必要であるどころか、作業の邪魔ともなりかねない(なんでこんなことやってるんだろう…は要らない)。

オウエンいわく、工場制手工業から工場制機械工業へと分業の形態が変わっていくについれて、社会に悪徳と不道徳が広がった。この問題を解決することが「よい社会」を実現するためには必要であり、そのための方法が教育である、とオウエンは考えた。

ちなみに、スミスは市場経済を肯定的に捉えつつも、市場経済からオウエンが指摘するような矛盾が生じてくることも認識していた。スミスもまた公教育によってできるだけそうした矛盾を緩和する必要があると主張していたので、オウエンがスミスと比べて特別に先駆的だったわけではない。

オウエンの教育論の中心の考え方は、性格形成原理だ。

性格形成原理

性格形成原理のポイントは、性格は環境によって決定されるので、どのような一般的性格であっても適切な手段を用いれば与えることができる、しかもその手段は政治にたずさわる者の手中にある、というものだ。

この原理とは、次のことである。「どのような一般的性格でも—最善の性格から最悪の性格まで、最も無知な性格から最も啓蒙された性格まで—どんな社会にも、世界全体にさえも、適切な手段を用いることによって与えることができる。そしてこの手段は、そのほとんどが、世事に影響力をもっている人たちの支配、統制下にある。」

人びとの悪徳や不道徳はただ社会制度によって形成される。したがって課題は、人びとの性格を改善させられる制度を構築することにある。

政治にたずさわる人びとは、そうした制度にもとづいて人びとを合理的に教育し、彼らの労働が人びとの役に立つ品質となるよう導かなければならない。

教育は特に子供において強くはたらく。なぜなら子供は受動的で巧妙な複合体であって、多様性だけでなく“可塑性”ももつからだ。

子どもは、例外なしに、受動的で、また驚くべき巧妙な複合体である。子どもは、この主題についての正しい知識にもとづいた的確な配慮を一貫して払えば、どんな人間性でも身につけるように集団的に形成されえよう。そしてこの複合体は、他のあらゆる自然のなせるわざと同じように、無限の多様性をもってはいるが、しかも可塑性をも有し、賢明な管理のもとに忍耐強く試みれば、ついには、合理的に望み願った姿そのものに、形成されえよう。

性格形成制度によって合理的訓練を行い、政府の雇用創出によって、公共の利益を生み出すような有用な仕事を彼らに与えよ。それが実践可能で合理的な唯一の改革にほかならない。

どんな住民でも、合理的に訓練せよ。そうすれば、彼らは合理的になるだろう。このように訓練された人たちに、正しく有用な仕事を与えよ。そうすれば、彼らは、そのような仕事を、不正な職業や有害な職業よりもはるかに好むようになるだろう。

この見方は、歴史の文脈に照らし合わせると非常に興味深い。近代以前、世界は運命として人びとの前に現れていた。それは変革不可能な必然性であり、その過程に逆らうことはほとんど不可能だった。しかしオウエンは、社会の矛盾は適切な原理と方法さえあれば解決できるにちがいないと強く確信していた。私たちはオウエンが直観した問題をむげに否定する代わりに、それを解決するための原理を提示することが求められているのだ。

新学院で教育する(子供から大人まで)

ニュー・ハーモニー村(理想図)
ニュー・ハーモニー村(理想図)

オウエンは教育の具体的なプランとして、新学院(ニュー・インスティテューション)を工場施設の中心に建築し、そこで子供から大人まで教育することを考えていた。ただし子供は新学院で教育を受ける前に、新学院の前に設置した広場で幼児教育を受ける必要がある、という。

幼児は遊び場に入るときに、他の子どもたちに幸せを与えるように指導されるべきである。幼児は驚くほど早くそのことを受け入れるだろう。

人間の幸福は、周囲の人たちの感情や習慣と並んで、全部ではないにせよ、主に自身の感情や習慣に依存する。そして、どのような感情や習慣でもすべての幼児に与えることができるのだから、彼らの幸福に役だちうるものだけを彼らに与えるということが、第一に重要となる。そこで、一人一人の子どもは、この遊び場に入る時に、わかりやすい言葉で「遊び友だちをいじめてはなりませんよ。いじめたりしないで、できるだけ遊び友だちを幸せにしなさい」と教えられるべきである。

その後、初等教育は2つの課題に取り組むべきである。1つは、子供がすべての人びとに思いやりをもつことができるようにすること、もう1つは、感情や習慣の多様性をすすんで許容できるような感情をもたせることだ。これが初等教育の狙いとなる。

では具体的にどのような教育法が適切なのか?

子供たちは、彼らが日頃親しんでいることに関する知識から教えられるべきである。なぜなら合理的な判断は、すべての事実を集めたあとに可能となるからだ。いきなり抽象的な知識を教えても効果的ではない。

子どもたちは、先ず幼い心にとって、最も親しみやすい事実についての知識から教えられるべきである。それから次第に、それぞれの個人が進むであろうと思われる生活の等級に応じて、それを知ることが最も役にたちまた必要な事実について、教えられるべきである。

「初等教育に関しては、日常の経験のうちに教材を求めるべき」という観点は、教育思想家のジョン・デューイもまた提示していた(『経験と教育』)。「子供たちが未来に遭遇する経験にうまく対処できるように教育は行われるべき」という視点も共通している。オウエンの教育論はかなり先駆的だったと言える。

また、教育はできるだけ楽しくなるように工夫されなければならない。そのほうが結果としてスパルタ教育よりもよく子供たちを導くことになる。

教育は子供だけではなく、大人に対しても行われる必要がある。ただし大人の場合は性格がすでに形成されてしまっているので、子供とは違ったアプローチを取る必要がある。それが夜間講話だ。夜間講話によって、村の大人たちは有用な知識、とくに子供たちを合理的な人間になるようにしつける方法を身につけることができるはずだ。

よい国家の条件=よい公教育制度

オウエンからすると、イギリス帝国の政治は労働者階級を貧困につなぎとめておくものであり、批判に値する。そうした状況は教育制度によってすぐに改善されなければならない。そうオウエンは主張する。

政府の第一の義務は、人びとや社会にとって利益となる感情もしくは習慣を人びとのうちに形成することにある。国民が受け取る幸福の程度は、そうした性格が国民のうちにしっかりと形成されるかどうかにかかっているからだ。

その意味で、最もよく統治される国家とは、最もよい国民教育制度を有する国家である。

あらゆる国家は、良く統治されるためには、その主要な注意を性格形成に向けねばならぬ。かくして、最も良く統治される国家は、最良の国民教育制度を有する国家であろう。

イギリス政府は、労働階級の国民教育制度をただちに整備しなければならない。文部大臣を任命し、教員養成学校を設立して、労働階級の教育に着手するべきだ。

本書の議論は以上だ。

社会主義の出発点

世界の名著〈42〉オウエン,サン・シモン,フーリエ (1980年) (中公バックス)

オウエンは、普遍的な幸福を約束していたはずの資本主義経済が、じつは社会的な矛盾をもたらすシステムであることを強く意識していた。そのことを問題としてつかみ出し、それに対して果敢に取り組み続けたことの価値を否定することはできない。

しかしオウエンの議論は熱意先行型と呼ぶべきもので、それに見合う原理が付いてきていない。これは理想理念によって導かれている思想が必然的に辿らざるをえない道だ。教育によって社会は変革できる!という思いが強すぎて、それに周りの人はついていけなくなってしまうのだ。