ニーチェ『権力への意志』を解読する(2)

本書の前半はこちらで解説しました → ニーチェ『権力への意志』を解読する(1)

ニーチェは本書『権力への意志』の前半(第1書~第2書)で、キリスト教道徳に代表される既存の価値体系をコテンパンに批判した。その仕方はあまりに痛烈だったが、ニーチェにとって、そこでの批判はあくまで新たな価値体系を打ち立てるための準備作業でしかなかった。後半(第3書~第4書)に収められているのは、まさにこの新しい価値体系を打ち立てようとする試みだ。

以下ではニーチェの言い分がどの程度妥当なのかに注意しつつ、彼の議論を確認していくことにしよう。

認識=欲求に相関した価値解釈

まずはじめにニーチェは、「認識論的出発点」として、認識の原理的考察から取り組む。

「神は死んだ」とか「愛せなければ通りすぎよ」など文学的な表現を好んで使うニーチェが、認識の原理論から入るのは意外かもしれない。しかしニーチェの議論が私たちにとって価値をもつとすれば、その理由のひとつはここにあるといっていい。なぜならこの原理論が妥当かどうかによって、ニーチェの議論を「なるほど確かに」と受け入れてよいかどうかが決まってくるからだ。

ともあれ、ここでのニーチェの基本の構えは、認識とは欲求に相関した価値解釈だという点にある。

私たちが意識するものは、有用性の尺度にしたがってあらかじめ調整され、単純化されてしまっている。それは認識の結果であって、認識の原因ではありえない。

それゆえ、原理的に言って、主観がみずからの認識が絶対的に真であると証明することは不可能だ。

認識のあり方を内省して捉えるときも同様だ。つまりそれによって見出される認識構造はひとつの想像でしかない。私たちの認識もまた現象である。それゆえ主観が客観を正しく捉えられることを前提としている主客一致図式は、ひとつのねつ造だ。

主観と客観との間には一種の十全な関係が生ずるとか、客観とは内からみれば主観であるにちがいない何ものかであるとかということは、思うに、かつてはもてはやされた時代もあったが、一つのお人好しの捏造である。

私たちの内的世界もまた「現象」である!

実証主義は「あるのは事実だけだ」と言う。しかしそのようなことはない。事実ではなく、ただ解釈のみがあるだけだ。また、世界を解釈するのは私たちの欲求だ。私たちは自分の欲求にもとづく「遠近法」によって、世界を価値として解釈しているのだ。

現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。

総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。—「遠近法主義。」

世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。

遠近法主義は一見すると相対主義的な見方のように思えるかもしれない。しかしニーチェのここでの重点は、私たちの認識は写真のように“事実”を写し取るようなものではなく(写真でさえそのように言えないことがある。そうでなければ写真家という職業は成立しえないはずだ)、欲求に相関して浮かび上がってくるものだ、という点にある。

空腹時にはおいしそうに見える
空腹時にはおいしそうに見える

たとえば空腹のときに大盛りご飯はおいしそうに見えるが、満腹のときはむしろ嫌悪感を覚える。もし私たちの認識がカメラ的なものであれば、そうしたことは起こらななかったはずだ。おいしいご飯はいつでもおいしく見えるし、まずいご飯はいつでもまずく見える、というようになっていたはずだ。

実証主義的な視点からは、こうした価値的な認識、特に善と美の認識について何も言うことはできない。せいぜい対象の側に、私たちに善や美を認識させているような原因を探ることしかできない(「肉の赤色が神経細胞を刺激して…」など)。しかしニーチェの言うように、認識とはそれ自体が結果だから、原因を探ろうとする試みそれ自体がポイントを外しているのだ。

主観が客観を正しく認識できるという「主客一致」の図式は、それ自体が背理である。なぜなら私たちの認識とは、欲求に相関した、価値評価としての解釈であるからだ。これがニーチェの認識論のポイントだ。

真理もまた価値解釈による現象

真理も同様に、私たちの欲求に相関して与えられる現象である。つまりそれは私たちの能動的に規定する働きによって作り出されるのだ。

真理の本質とは、「私はこれをこのように信じる」という価値評価である。生にとってもつ価値(生を促進するための必要性)が真理を決定するのだ。したがって、真理が発見されるべきものとして潜んでいる、と考えるのは根本的に誤っているのだ。

形而上学の心理学

真理がそれ自体として存在していると考えるのは誤っている。一切の認識は価値解釈だからだ。では真理が価値をもつものとして立ち現れてくる条件は何だろうか?

ニーチェによれば、それは現世に対するルサンチマンだ。

「この世は仮象の世界である。したがって真の世界がある。この世は矛盾に満ちている。したがって矛盾のない世界が存在する。」こうした推論にまったく根拠はない。にもかかわらずそうした推論が行われるのはなぜか?苦悩がそう仕向けるからだ。

現実の世界で苦悩を受けた者はルサンチマンを抱き、苦悩を引き起こす現世を憎悪する。そしてその苦悩が一層価値ある世界を願望させる。真理はこのようにして仮構されるのだ。

形而上学の心理学によせて。—この世は仮象である、したがって或る真の世界がある、—この世は制約されている、したがって或る無制約的な世界がある、—この世は矛盾にみちている、したがって或る矛盾のない世界がある、—この世は生成しつつある、したがって或る存在する世界がある、—これらの推論はまったくの偽りである。

こうした推論をなすよう霊感をあたえるのは苦悩である。… 苦悩をひきおこす世界に対する憎悪は、別の、もっと価値のある世界が空想されるということのうちに表現されている。

真理への意志が「真の世界」を思い描く

ここで働いているのが真理への意志だ。「真の世界」や理想の世界、あるべき世界を求めるひとは、真理への意志の働きによってそれらを仮構するのだ。

彼はあるべき世界を求める。そして彼は、あるべき世界がすでにどこかに用意されていると考え、そこにたどり着くための方法を探そうとする。

「真の世界」があるに違いないとするのは、現世に対する軽蔑にもとづく信仰だ。それは、あるべき世界を作り上げようとする意欲をもたず、ただ願望するだけの者たちの信仰なのだ。

あるべき世界はあり、現実的に現存しているという信仰は、あるべき世界を創造しようとの意欲をもたない非生産的な者どもの信仰である。彼らは、あるべき世界を既存のものとして立て、それへと達するための手段と方途を探しもとめる。「真理への意志」—創造への意志の無力としての。

忘れてはならないのは、私たちがこの現実から逃れていけるような場所も、目的も、意味もまったくないということだ。真の世界や人生の真の意味は存在しない。私たちはただこの現実のうちでしか生きていくことはできないのだ。

私たちが、私たちの存在から、私たちの現状からのがれでてゆきうるような、いかなる場所も、いかなる目的も、いかなる意味も、まったくない。

自然科学の世界像は真理ではない

次にニーチェは物理学などの自然科学へと批判を向ける。

自然科学は法則によって世界を機械論的に規定しようとする。自然科学者たちは、私たちの生きる世界を主観的な虚構(フィクション)と見なし、自然科学こそが真に客観的に世界を説明することができると想定している。

しかしそれは正しくない。なぜなら自然科学の世界像もまた、私たちの日常の世界像と同じく主観的なものだからだ。ニーチェいわく、ただ欲求に相関した解釈があるだけであり、写し取ることのできるような客観があると考えるのは正しくない。

世界を捉えるためには、私たちは世界を算定しなければならない。世界を算定するためには世界の原因を捉えなければならない。しかし私たちにはそうした原因を見つけることは不可能なので、その代わりにアトム(原子)を仮構する。アトムはそのようなものであり、実在するものと見なしてはならない。

物理学はアトム間の相互作用を法則化することで世界を説明しようとする。しかし法則は現象の規則性を表現しているだけだ。なので法則に未知の力が対応していると考えるのは憶測だ。

力学はいわば人間の感覚言語への翻訳だ。力が法則に従っている「ので」私たちはつねに法則どおりの現象を受け取る、と考えるのは何の根拠もない。そこでは順序が逆転しているのだ。

物理学者たちは私たちの生きる世界を「仮象の世界」と見なし、アトムによって構成された世界を「真の世界」と信じている。しかし彼らが置き入れるアトムもまた遠近法によって推論されたものなので、彼らの「真の世界」もひとつの主観的虚構でしかない。彼らは世界像を打ち立てるための遠近法に必要な力、つまり主観の存在を排除してしまったために、そのことを見て取ることができないのだ。

そして結局は彼らは彼らの構成した世界のうちで或るものを略してしまったが、そのことに彼らは気づいていない。すなわち、その或るものとは、まさにあの必然的な遠近法主義であり、このもののおかげであらゆる力の中心が—これは人間のみのことではない—おのれ自身から残余の全世界を構成する、言いかえれば、おのれの力で測定し、感触し、形態化するのである・・・彼らは、遠近法を定立するこの力を「真の存在」のうちへと加算することを忘れてきた、—専門用語で言うなら、この力が主観であることにほかならない。

ニーチェは「主体の形而上学」という概念の生みの親として知られている。主体が実在すると考えるな。なぜなら主体は私たちの価値解釈によって想定される現象だからだ。そうニーチェは言う。これをポストモダン思想は主観主義の解体やら主体の不可能性といった意味で受け取り、ルソーやヘーゲルなどの近代哲学を批判するための手頃な道具として流布させた。

気をつけておきたいが、あくまでニーチェは主体を「実体」として置くことを禁じたにすぎない。ニーチェは力(=欲求)を認識つまり価値解釈の根本条件とみなし、その力を主観と呼んでいる。「客観的な認識なんて存在しない、ひとそれぞれの見方があるだけだ」と相対主義的な見方を取ったとするよりも、「私たちひとりひとりの力が価値を現象として浮かび上がらせるのだ」と主張したと見る方が妥当だ。なぜならこの創造性がニーチェのアクセントの置きどころだからだ。

それに、ニーチェのいうように主体が現象だとしても、それは私たち責任を負う主体となりえないことを全く意味していない。約束を守ろうとする確信(良心)を持たず、責任逃れをしようとすることを、ニーチェは徹底的に批判しているからだ(『道徳の系譜』)。そうした責任を取ることのできる人間をニーチェは「主権者」とか「自由な人間」と呼んでいるが、その内実は私たちがふだん主体と呼んでいるところのものとほとんど変わらない。

生そのものが権力への意志

ニーチェによれば、 生の本質は「より力強く」を求める力である。

「より力強く」と言われると、筋力とか政治権力など、とにかく相手を打ち負かすだけの力を手に入れることのようなイメージが思い浮かぶかもしれない。

しかしニーチェのいう力とは、できる!を求めて成長しようとする力のことだ。この力こそ、ニーチェが「権力への意志」と呼んでいるものにほかならない。

生は、一つの特殊の場合(ここでみられることを生存の総体的性格へとおよぼしうる仮説)として、権力の極大感情をもとめて努力する。それは本質的には権力の増大をもとめる努力であり、努力とは権力をもとめる努力以外の何ものでもなく、最深最奥のものはあくまでこの意志である。

そうした「できる!」を目がける力として存在すること、権力への意志として存在すること、それが生の本質である。そうニーチェは主張する。

ただし、この力はいつでも常に発揮されるわけではなく、何らかの抵抗に直面したときにのみ発揮される。そしてこの抵抗を克服し、「できる!」の領域が広がったときに私たちは快感を得る。それゆえ権力への意志は、みずから抵抗を、そしてそれによってもたらされる不快を求めていく。

人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは権力の増大である。この増大をもとめる努力のうちで快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする

価値はこの文脈において規定されなければならない。つまり価値とは生の保存と上昇にとっての観点であり、「できる!」の領域が拡大もしくは縮小することにとっての観点なのだ。

「価値」という観点は、生成過程のうちであらわれる比較的に生命の持続している複雑な形成物に関する保存・上昇の条件についての観点である。

「価値」は、本質的に、この支配的諸中心の増大ないしは減少にとっての観点である

「できる!」の領域を広げてくれるものは、私にとって価値をもつ。そうでない場合は価値をもたない。これは確かに納得できる。例えば、お金が一般に価値をもつのは、それによって自分のできることを広げられるからだ。何もしたいことがなければ、お金は紙切れもしくは金属片としてしか解釈されない。ニーチェが言うのはそういうことだ。

芸術が生を肯定する

以上、ニーチェが議論を行ってきたのは、既存の価値体系に代わる新しい価値体系、しかも私たちが自分の生を肯定できるような価値体系を打ち立てるためだ。キリスト教批判や道徳批判は、すべてそのためのお膳立てにすぎない。

私たちが自分の生をよく肯定できる価値は何だろうか?ここでニーチェはその問題に対して次のような解答を置く。芸術がその答えだ。芸術によってこそ私たちはニヒリズムやデカダンスを乗り越え、生を肯定することができるのだ、と。

芸術の本質はあくまで、それが生存を完成せしめ、それが完全性と充実を産みだすことにある。芸術は本質的に、生存の肯定、祝福、神化である・・・

芸術、しかも芸術以外の何ものでもない!芸術は、生を可能ならしめる偉大な形成者であり、生への偉大な誘惑者であり、生の偉大な刺戟剤である。

芸術は、生の否定へのすべての意志に対する無比に卓抜な対抗力にほかならない、すぐれて反キリスト教的な、反仏教的な、反ニヒリズム的なものにほかならない。

ニーチェいわく、芸術が生まれる条件は恋愛であり、恋愛の条件は美だ。

美とは性欲や陶酔の微妙なニュアンスが入り混じった状態のことを指している。他の対象と同じく、美も権力への意志によって価値を与えられ解釈される現象だ。

美は他の美と相互に刺激し合う。そして美的衝動が働くやいなや、美の周りに完全性が結晶する。そのことは特に「美しい女性」を見るときに明らかになる。そのときまさに彼は愛のとりことなるのだ。

愛にとらわれたひとは、いっそう完全で価値ある者となる。そのとき、彼に芸術の扉が開かれる。芸術からそうした陶酔を取り除いてしまうといったい何が残るだろう?陶酔のない芸術は、芸術のための芸術でしかない・・・。

愛のとりことなる者は、事実上、いっそう価値ある者、いっそう強い者となる。

しかも他方この幸福の痴者には飛翼がはえて新しい性能を加え、芸術の扉すら彼には開かれる。抒情詩の歌詞と歌曲からあの腸疾患的熱病の暗示を除きさったら、いったい何が抒情詩や音楽に残るのであろうか?・・・残るのは、おそらくは芸術のための芸術、すなわち、その沼沢のなかで捨鉢にガアガアと寒さにふるえながら美事な咽をきかせる蛙の鳴き声であろう・・・

永遠回帰する力としての世界

最後にニーチェの永遠回帰(永劫回帰)についても触れておこう。

永遠回帰とだけ聞くと何だかアヤシイ。しかしポイントはシンプルだ。そしてこれを押さえておくことは、ニーチェの思想を受け取るにあたってとても重要だ。なぜならこの直観こそ、それまでの価値体系を支配していたキリスト教的世界観に変わる新たな世界観として考え出されたものだからだ。

ニーチェはこれをイメージや物語としてではなく、エネルギー保存の法則(熱力学第一法則)を手がかりとすることで、誰もが納得せざるをえないものとして示そうとした。その意味で永遠回帰は、仏教の輪廻転生とは本質的に異なるものだ。

ニーチェは次のように言う。

世界を次のようなものとして捉えてみよう。それは無限に反復されてきた力であり、これからも無限に繰り返し続ける円環運動だ。それは創造されたこともなければ、終末を迎えることもない、と。

そのように考えるのが許されるなら(しかもそれはエネルギー保存の法則によって“要請”されている)、私たちはすでにどのような瞬間も何度も経験してきたのだと考えることもことが出来るはずだ。

無限の時間のうちではあらゆる可能な結合関係がいつかはいちど達成されていたはずである。それのみではない、それらは無限回達成されていたはずである。

永遠回帰する世界には「救い」がない。苦悩は一度経験されるだけでなく、無限に経験されるからだ。しかし苦悩だけではない。もし一生のうち一度でも快や美や幸福を感じたことがあれば(そうでない人が果たしているだろうか?)、それもまた無限に反復される。

つまり無限性の観点から見れば、苦悩も快楽も、ともに等しく経験されることになる。苦悩が99.9999…%あっても、幸福が0.000…1%あれば、無限性の観点からすればどちらも∞であるからだ。

そうした世界こそ、私の哲学が肯定するものだ。私の哲学はニヒリズムを前提する。しかしだからといって私は生を否定することを目的とするわけではない。あるがままの生を「然り」と肯定すること、たとえ生が欺瞞にあふれているとしても、その生を是認すること。このディオニュソス的肯定こそ、私の哲学の目がけるところに他ならない。

私の生きぬくがごときそうした実験哲学は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する—あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで—、それは永遠の円環運動を欲する、—すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ—、このことにあたえた私の定式が運命愛である。

以上が本書の議論だ。

生をよく肯定するために

ニーチェを読んでいると、権力への意志とか反キリスト教とか超人とかいう概念がとても強く響いてくる。しかしそれに気を取られてポイントを見逃すのは本末転倒だ。

なので、あらためて『権力への意志』の全体像を確認してみよう。ニーチェは本書を通じて以下のように言っていた。

ヨーロッパではそれまでのキリスト教の権威が次第に弱まり、ニヒリズムが広がりつつある。このニヒリズムは新しい価値体系を生み出そうとする兆候であって、その点に限って私はニヒリズムを受け入れる。これまでの価値体系は私たちの生を否定することのうえに成り立っていた。しかし私は、どうすれば自分の生をよく了解し、納得して受け入れて肯定することができるかについての可能性の原理を先駆的に、プランとして示してみたい。

私たちはおのおのが権力への意志をもっている。そして、それに従って世界を価値として解釈している。権力への意志は、「できる!」の領域を広げるものを価値があると見なし、そうでないものを価値がないと見なす。困難や問題にぶつかりながらも、それを乗り越えて「できた!」に達するとき、私たちは快を感じる。

ルサンチマンは権力への意志のひとつのあり方だ。ルサンチマンをもっているひとは、現世に対する「ちぇっ!」の感情にしたがって、現世を否定し、本当の世界、真の世界(ここではないどこか)を考えあげる。しかしそれは結局のところ価値の基準を自分の外側に求めることであり、拘束感と不自由さをもたらすだけだ。

私たちが本当に「よさ」を感じるのは、芸術においてだ。芸術の世界は、ニヒリズムを吹き飛ばし、私たちに陶酔をもたらして生を完全化する。そのことは恋愛にとらわれたひとであればよく分かるだろう。恋したときに世界は色づき、その姿を変貌する。彼は芸術を生み出すほどの力を手に入れるのだ。

私は、この世界が無限の過程が絶えずグルグルと回り続けている、と想定する。世界には終わりもなければ始まりもない。終わることのない苦悩。しかし同時に、たとえ一瞬であったとしても、幸福もまた終わることがない。どんなに苦悩に満ちていても、一瞬の幸福をもとに、生を「然り!」と肯定すること、それが私の哲学が導く、新たな生の可能性の原理だ。

優れた価値論

私たちはもちろんニーチェの議論をそのまま受け入れる必要はないし、むしろそうするべきではない。ニーチェの社会論とプラトン批判はかなり疑問の残るものだし、自然科学批判も半分しか当たっていない。物理学の世界認識が「真理」ではないことはニーチェの言うとおりだが、それが主観的でしかないというのは言いすぎだからだ。

とはいえ、私たちがニーチェの思想(とくに認識と倫理について)に、強力な原理を見て取ることができるのは確かだ。力による価値解釈が認識の本質だとするニーチェの言い方は、価値、とくに美において納得感を与えてくれる。私たちは美しいものを科学者が観察するようには見ていない。美は鑑賞され、味わわれるものだからだ。どこかに“正しい味わい”があるわけではなく、ただ“私にとってよい味わい”があるだけだ。

また、倫理に関しては、ニーチェ以後、素朴に正義を唱えることはとても難しくなった。それは私たちが、正義がルサンチマンによって支えられることの危険性に正面から向き合わなければならなくなったからであり、同時に、その正義が“疚しい良心”(ぼんやりとした罪障感に発する良心)から発していないかどうかを厳しく吟味しなければならなくなったからだ。

自分にとってほんとうに「よい」生をめざすかどうか

私たちはともすれば容易に「この世界は矛盾に満ちている!」とか「こんな人生望んでいなかった!」と言ってしまいがちだ。しかしそこで“真の世界”を想定しても、私たちの生の可能性が広がることはない。結局のところ、私たちは自分の生きている生以外の生へと出て行くことはできないからだ。

問題は、そのことをどう受け入れるか、にある。「本当はこんなもんじゃねえ」と自分の人生に唾を吐いて過ごすか、それとも、それと折り合いをつけつつ(青年期的ロマンを殺しつつ)、自分にとっての“よい生”を意識しながら生きるか、そこに大きな違いがある。そのことをニーチェは私たちに気づかせてくれるのだ。

ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫)
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