ミル『功利主義論』を解読する

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『功利主義論』は、イギリスの功利主義者ジョン・スチュワート・ミル(1806年~1873年)による著作だ。1861年に雑誌に連載され、1863年に1巻本として出版された。

本書でミルは、先達のベンサムによって創始された功利主義について原理的な考察を行っている。

功利主義は自己中心主義ではない

おそらく功利主義の一般的なイメージは次のようなものだろう。「自分の幸せを得るためであれば、他者を犠牲にしてもよい。自分の利益を最大化することが一番である」とする態度だ、というものだろう。だがそれは通俗的な理解にすぎない。

意外に思えるかもしれないが、自己中心主義はむしろ功利主義の精神に反する。功利主義を「損得や利害でしか動かない態度である」とするのは、本質的な解釈とは言えない。というのもベンサムとミルでは、他者に対する好意や共感が、共生のための原理になると考えるからだ。

カントの道徳論に欠陥がある

まずミルは、行為はあくまでも目的との関係で考えられなければならない、と主張する。

行為はすべて、なんらかの目的を目ざしている。だから、こうした目的が、行為の規則に性格を与え、色づけをすると考えるのが当然であろう。

行為の目的が行為の規則を特徴づけている。つまり目的が行為の原理である。

このことは道徳的行為についても当てはまる。それゆえ道徳の本質を規定するためには、功利主義的なアプローチを取るほかない。

道徳についてはカントが大きな仕事を成しとげたが、しかしカントの議論には原理が欠けている。

そうミルは主張するが、具体的にはどういうことだろうか。

定言命法を「尊敬」するって本当?

カントは『実践理性批判』で、道徳の本質を、「自分の意志の格律が普遍的な道徳法則を与えるように行為せよ」という命令、すなわち定言命法に置いた。「~をしよう」という自分のルールが、普遍的なルールをたえず目がけるように吟味すること、これが定言命法の要点だ。

ただしここで次の点が問題となる。

主観的な意志が道徳的となるのは、普遍法則を目がけるときだ。そのとき意志は欲求や願望などに動かされてはならない。なぜなら快や欲望によって促される行為は、結局のところ自分の幸福を目的としているからだ(自愛の原理)。

とすると、意志が普遍法則を目がける理由は何か?カントはこの問題に対して、普遍法則に対する尊敬が動機となって、ひとは普遍法則を目がけるようになるのだ、と答えている。

しかし尊敬を動機とするのはかなり苦しい。普遍法則を尊敬しないひともいるし、あえて普遍法則を目指さないようなひともいるからだ。ミルもまたこの点を直観し、次のように批判する。

カントが、この格言から現実的な道徳的義務をひきだすにあたって、すべての理性的存在が不道徳きわまる行為準則を採用することは背理であり論理的〔物理的とはいわないまでも〕にありえないことが示せないのは奇怪というほかない。

カントの定言命法は行為の普遍的原理ではない。それはただ単に、普遍法則を尊敬するひとは普遍法則を目がけるといっているにすぎない。しかしそれでは普遍法則を尊敬しない人がみずからの格律に従って行為する理由を説明できない。

このことも含めて包括的に論じるためには、定言命法ではなく、功利性の原理にもとづいて道徳を考える必要がある。しかしその前に功利主義にまつわる誤解を解いておくのがいいだろう。そのポイントは、「目的」の内実だ。

行為の正しさ=「幸福」を生み出すか

ミルは、行為の正しさに関する基準を、その行為が幸福つまり快楽を生み出すかに置く。この点からすると、幸福を生み出すほどその行為は正しく、幸福の逆、つまり不幸を生み出すほど誤っている。

「功利」または「最大幸福の原理」を道徳的行為の基礎として受けいれる信条にしたがえば、行為は、幸福を増す程度に比例して正しく、幸福の逆を生む程度に比例して誤っている。幸福とは快楽を、そして苦痛の不在を意味し、不幸とは苦痛を、そして快楽の喪失を意味する。

ミルによると、功利の原理を第一原理として、その他の二次的な原理が導かれてくる。個々の行為の正しさについては二次的原理によって補って考えなければならない。それぞれの行為がなされる状況は様々に異なってくるからだ。ただ、そのとき、義務同士が相互に争うことがある。そのときには、第一原理である功利を判断基準とする必要がある。

一切の義務の対立は、功利にさかのぼって調停しなければならない。功利と無関係に義務や正義を論じても、そこに内実はない。そうミルは論じるのだ。

人間的快楽(幸福)と動物的快楽は質的に異なる

ただここで「幸福は快楽にある」と言われると、違和感を覚える人もいるだろう。快楽を追い求めると言われると、なにか悪いことをしているように思えるかもしれない。だがミルからすると、そこで考えられている快楽は、私たち人間にとっての快楽の本質を捉えていない。

人間は、動物的欲情をこえる高い能力をもつ。そして、いちどその能力を自覚すれば、それらを満足させないようなものを幸福とは考えなくなる。

満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。そして、もしその馬鹿なり豚なりがこれとちがった意見をもっているとしても、それは彼らがこの間題について自分たちの側しか知らないからにすぎない。この比較の相手方は、両方の側を知っている。

「満足した豚であるより不満足なソクラテスであるほうがよい」。これはミルの思想を特徴づける表現としてよく知られている。

私たちにとって快楽は、身体的なものである以上に、楽しさや、嬉しさ、喜ばしさといった精神的なものだ。いったん精神的な快楽を追求できることを知ったとき、私たちは身体的快楽に飽きたらなくなり、より「人間的な」快楽を求めてしまうのだ、とミルは言う。これは確かになるほどと思わせるものだ。

行為の究極目的=豊かな生

以上の点を踏まえて、ミルは道徳の基準を次のように規定する。

「最大幸福の原理」によれば、まえに説明したように、究極目的は、量、質ともに、できるだけ苦痛を免れ、できるだけ享受が豊かな生存であり、ほかのあらゆるものが望ましい〔われわれ自身の善を考えるにせよ他人の善を考えるにせよ〕のは、この究極目的に関連するからであり、究極目的のためなのである。

これは、功利主義者の意見によると、人間活動の目的なのだから、必然的にまた道徳の基準でなければならぬ。

ここで道徳の基準を定義すれば、人間行為のための準則であり教訓であって、これにしたがえば、さきに述べたような生存が、最大可能の範囲で全人類に保障されるものであると言えよう。

人間の生の究極目的は、できる限り豊かな生を楽しむ(享受する)ことにある。この究極目的が道徳の基準となる。つまり道徳とは、カントのように純粋に形式的な普遍法則ではなく、できる限り豊かな生を万人が享受するための条件であり、その可能性を確保するために守られるべき行為のルールである。これがミルのポイントだ。

もっともここで、功利主義の基準はあまりに高すぎるという非難があるだろう。理想主義的で、分かりやすく言えば、きれいごとにすぎない、と。現実の世界では何が正しいかは力の原理、パワーバランスで定まっているのであって、みんなにとっての幸福などありはしない。そう突っ込みたくなるひとがいるかもしれない。だがそれは、哲学的に言えば、転倒した考え方だ。ミルは言う。

反対論者たちは、かならずしも功利主義についてけなすような言い方をする人たちばかりとはいえない。逆に、その不偏不党の性格をある程度正しく理解している人たちの中には、功利主義の基準が人間性からみて高すぎると非難する人さえある。

けれどもこの非難は、道徳の基準というものの真意を誤解し、行為の準則と動機をとりちがえている。

現実の正当性、不当性は原理に基づいて判断されなければならず、現実から原理を批判しようとするのは、ちょうど厳密な三角形が描けないからといって「三角形の内角の和が180度であるというのは誤っている」と難ずるのと同じことだ。

現実から原理を批判するのは簡単だ。しかしそうした批判は、その原理の妥当性を暗黙のうちに当てにしているという点で(ちょうど近代社会が不平等を生み出すシステムであるという批判が、不平等なき社会が正当であるという通念に頼っているように)、徹底していない。原理に対する批判は、その原理をより深めるような新たな原理を置くことでしか成立しないのだ。

功利性の原理の強制力

ともあれ、次にミルは、私たちが道徳の基準に従う動機は何であるかについて論じていく。

ミルによると、功利性の原理には道徳体系としての強制力がある。その強制力は、内的強制力と外的強制力の2つに区別される。

内的強制力は、義務にそむいたときにやってくる心の痛みのことを指す。それが利害を離れて義務の観念と結びつくと、良心が生まれるという(ここでいう良心は、いわば“さっぱり”とした良心であって、ニーチェ的な「やましい良心」は含んでいない)。また、外的強制力は仲間への共感のことを指す。共感と言っても、映画を見たときに感想がそっくりだったという意味のそれではなく、仲間によく思われたく、悪く思われたくないという気持ちのことであるという。

では、良心と共感というこれら2つの強制力は、功利性の原理とどのように関係してくるのだろうか。

ここでミルは、社会状態は私たちにとっての慣習として、きわめて自然なものになっているという。

社会は次第に、成員の利益を相互に配慮するようになる。人びとは次第に、他人の利益を頭から無視することはできなくなる。社会的な連帯が進んでいくと、誰もが他者にとって何がよいことかを考え始めるようになる。政治が改革されると、そうした状況はさらに推進される。

その結果、仲間との一体感が自然なものと感じられ、自分の感情と目的が他者のそれと調和すると確信するようになる。この確信こそ道徳のもつ強制力である。

この一体感は、たいていの人の場合、利己的感情よりはるかに弱く、まったく欠けている人さえ珍しくない。けれどももっている人にとって、一体感は自然の感情がもつ性格を全部そなえている。彼らはそれを、教育が植えつけた迷信とも、社会の権力が強圧的に課した法律とも受けとらず、なくてはならない属性と考えるのである。この確信が、最大幸福道徳の究極的な強制力なのである。

功利性の原理は良心と共感によって支えられており、文明が進展すれば、社会の成員は次第に最大幸福状態を実現すべく相互に配慮する、とミルは言う。その2つの動機によって功利性の原理は実質をもつようになると考えるのだ。

ただ、ここで見落とせないのは、そうした良心や共感が発揮されるためには、あらかじめ市民感覚が一定の水準まで成熟していなければならないということだ。そうした市民感覚が成立する条件と構造についての議論がないと、社会原理論としては、どうしても物足りなく思えてしまう。ホッブズやルソーの議論と比べていまひとつの感が否めないのはそのためだ。

とはいえ、道徳の強制力を内発的な動機に求めたことは、哲学的な考え方として評価することができる。確かに私たちはしばしば、ちょうど重力のように、道徳が外側から強制してくると感じることがあるだろう。フロイトの超自我の概念は、道徳のそうした側面をうまく言い表している。だが、そうした無意識の道徳感覚を意識にもたらし、問い直さなければ、道徳を根本から立て直すことはできない。そうした直観がミルのうちにあったはずだと考えても、あながち間違っていないはずだ。

正義は一般的功利

さて、ミルによれば、これまで正義は便宜(=実用性)と対置されてきた。

「正義」は絶対的なものとしてどんな種類の「便宜」とも根本的に区別され、また、結局のところは〔ひろく認められているように〕事実上、切りはなせないものの、観念上「便宜」と対立するものとして、「自然」の中に実在しているにちがいないことを示すものだと考えてきた。

実用性から離れたところに正義がある、というイメージは現在に至るまで生き続けている。実利や快楽を気にかけることなく、社会の悪を裁いてくれる真理の法廷。正義という概念にはそうしたイメージがつきまとっている。

だがミルはこうした規定に同意しない。正義は一般的功利のひとつのあり方である。正義は実利を離れたところにある何かではない。それは万人にとっての功利であるというのだ。

正義の感情は便宜の感情よりはるかに強く命令するから、「正義」が一般的功利の一種または一部門にすぎないことに人々はいっこうに気づかず、したがって正義の感情のもつ強い拘束力はまったく別の起原からでてきているものと思い込んでいるのである。

道徳と正義の根拠を人間関係のうちに置く

さて、以上のミルの議論のポイントを、簡単にまとめてみよう。

ミルはそれまでのオーソドックスだったカントの義務論を前提とせず、道徳について根本的に考え直した。私たちが本質的に幸福を追求する存在だという洞察に基づき、道徳を、人間関係のうちに位置づけることによって、より普遍的な道徳論を展開することに成功したといえる。

道徳の原理を、習俗のローカル・ルールではなく、人間としての共通性である功利という一般ルールに基づけること。宗教的な道徳も功利性の原理を第一原理として位置づけなおすこと。そうした観点なく素朴に正義なるものをもちだしてくると、正義をめぐる対立が生まれてこざるをえない。ミルは言う。

功利を基礎としないような、空想的な正義の基準をたてようとする説の主張に私は疑問をもつ。功利を基礎とする正義がいっさいの道徳の主要部分であり、比較を絶したもっとも神聖で拘束力の強い部分だと私は考えている。

こうしたミルの言い方は、私たちを強く納得させる。自然や神といった人間社会の外部に正義の根拠を置こうとする試みが反動的であることが、私たちのうちに確かな実感としてあるからだ。市民社会の関係性のうちに道徳と正義の根拠を置き直したミルの議論を、単に「満足した豚より…」のくだりで済ませてしまうことはできない。功利主義的な考え方は、近代の進展のうちで必然的なものであるからだ。

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