ミル『女性の解放』を解読する

本書『女性の解放』は、イギリスの功利主義者ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873年)による著作だ。1869年に発表された。

訳題の問題

ミルと娘ヘレン
ミルと娘ヘレン

本書の原題はThe Subjection of Womenだ。なので本来は『女性の服従』とか『女性の隷従』とされるべきだが、岩波文庫版の訳題は『女性の解放』となっている。同じ訳者による初訳の邦題が『婦人解放論』であり、本書はこれを踏襲した形になる。

訳者は日本でも有数のマルクス経済学者の大内兵衛と、夫人の大内節子だ。本書が岩波文庫に収録されたのは1957年、まさにマルクス主義の全盛期だ。本書の訳題はそうした時代背景を反映している。

どういうことかというと、訳者は、婦人問題は資本主義の矛盾の現れであり、これを解決するためには社会主義への移行が必要であると考え、本書はそこに至るまでの「過渡的な」著作であると解釈していたのだ。

訳者解説には次のようにある。

事実、ミルの時代においては女性の地位はわるかった。そしてそれは資本主義的工場生産に女性が動員されることによってとくにひどくなったのであった。だから、根本的に考えれば、婦人問題は資本主義制度の問題の一つの現れであることは分かるはずであり、それがわかれば婦人問題の解決は社会主義でなくてはならぬという風に理解が進むべきであったのだが、ミルの教養と環境の関係ではそこまでは行かなかったのである。ひとりマルクスとエンゲルスとはすでにそういうことを考えていた。

社会主義という思想が労働階級の運動の精神として結晶し、それがほんとうの婦人問題の解決の道であることが社会全体の人によくわからなくては駄目である。

女性の解放こそ人間の解放である。女性に課せられている障害を取り除くことが、ついには人間の解放に行き着く。これが『女性の解放』という訳題に込められた意だ。

マルクス主義的な解釈から離れて

ただ、こうした解釈はあまりにミルをマルクス主義に引きつけすぎており、正当なものとは言いがたい。色々な解釈がありうるが、やはりミルは近代哲学の伝統を受け継いでいるのであって、マルクス主義の「解放」の概念を入れ込むのは強引だ。実際、ミルは次のように主張している。

近代社会は、生まれではなく功績によってその人の評価が決まるという原則に基づいている。この原則を実質化するためには、法律によって外的に規制するだけでなく、家庭で子供に男女の同権感覚を育ませる必要がある。これは彼が大人になったのち、他者を一個の人格として承認するために必要な素養だ。

だから、実際に男女で真の権利的平等が実現するには相当の時間がかかるが、そうしたプロセスによってこそ、近代社会の正当性である「自由」は空文化せず、実質的なものとなるのだ。

アメリカの政治哲学者アーレントは、自由は解放とイコールではない、自由は構成constitutionを必要とするのだと論じていた、ここでミルが述べているのも同様のことだ。解放という概念からは、そうしたニュアスがこぼれ落ちてしまう。だからミルはあえてemancipationとかliberationという語を使わなかったのではないだろうか?実際、本書に「解放」という語は数えるほどしか出てこない。

哲学的に見ても、社会主義が女性差別の問題を解決するための真の道であるという主張に説得力はほとんどない。資本主義が人間的欲望の根本条件である限り、必要なのは、不当なパワーゲームを正当なルールゲームへと再編するための原理を見いだすことであって、その点からすると、資本主義を否定するのは本末転倒だ。

ともあれ、以下、マルクス主義的な観点は脇に置き、本文に即して見ていくことにしよう。

男女同権の原理

まず初めにミルは、男女が同権でなければならない理由として、いかなる制限も、それが一般的功利に結びつかない限りは不当であるからだとする。

われわれの先験的な前提によれば、自由と公平とはあたえられたものとして尊重されなければならないからである。すなわち、それによれば、いかなる制限といえども、公益のため以外の理由では課してはならない、また法律はけっして特定の人々だけを利してはならない、すべての人を一様に取扱わなくてはいけない、その取扱いに区別をするのはただ正義または政策上のなんらか積極的な理由にもとづいてなす場合に限られるからである。

この主張は、基本的には『自由論』で展開された原理論を下敷きにしていると見ていい。そこでミルは以下のように論じていた。

功用とは無関係なものとしての抽象的な正義の観念から、私の議論にとっていかなる利益が引き出されようとも、私はその利益を抛棄するつもりであることをのペておくのが適当であろう。私は、功用を、すべての倫理的問題に関する究極的な人心に対する訴えであると考える。しかし、その功用とは、進歩する存在としての人間の恒久的利益を基礎とする、最も広い意味における功用でなくてはならない。このような恒久的利益に照らして見るときに、 … もしも何びとかが他人に有害な行為を行なうならば、それこそ、あるいは法律により、あるいはまた法律上の刑罰の適用が安全でないときには公衆の非難によって、彼を処罰する、一応の証明ある事件である。

結局のところ、男女の権利不平等を不当とする主張の根拠はここにある。

行為を制限することは、それが功利(=幸福)を損なう限りにおいて正当であり、正義にかなっている。なぜなら正義とは一般的功利だからだ。これがミルの基本的な構えであり、本書にも受け継がれている態度だ。

『自由論』はこちらで解説しました → ミル『自由論』を解読する

近代社会の原理=自由

ミルいわく、近代社会では、男女の従属関係を正当化することはできない。なぜなら近代社会の原理は、生き方を選ぶ自由、特に職業選択の自由にあるからだ。ミルが言うには、ここにこそ近代社会とそれ以前の社会の分岐点がある。

古代では自由に生き方を選ぶことはできなかった。各人は生まれによって社会的地位が決められており、そこから外れることは禁止されていた。あるひとは生まれながらに貴族であり、またあるひとは生まれながらに奴隷だった。奴隷は自分で自由になることはできず、主人の意志によるしかなかった。

それでは、近代社会の特色はなんであるか—近代の制度、近代の社会思想、および近代の生活それ自体は、過去のものといかなる点でことなっているであろうか。それは次の諸点である。すなわち、人はもはや生れながらにして一定の身分をもつということがないこと、その身分に、容赦なくしばりつけられて動けないということはないこと、自由にその能力を用いて、目の前の好機をとらえ、もっとものぞましく思う運命をためしてよいこと。

古い理論は、個人の代わりに目上の賢いひとが選択するのがいいとしてきた。個人に任せれば間違うからだ、と。

これに反して、近代社会がたどり着いた直観は、個人に利害のあることは個人の選択にまかせるのが最善であり、権利の侵害から保護する以外の目的で政府がとやかく干渉するのは結局有害である、というものだ。

誰かが何らかの職業に適さないという一般的な推定は誤りだ。女性には女性の仕事があると定めたり、高い地位の職業に就くことを制止したりするのは不当である。なぜなら、彼女に何ができるかは、彼女に任せることによってしか分からないからだ。

女性の社会的従属は、現代社会の諸制度中における孤立した現象であり、その根本原理にたいする唯一の違反である。他のあらゆる事柄においでははやくも打破された古い思想と慣習の世界のただ一つの残骸であって、それが、もっともひろい利害関係を有するこの一事に残っているのである。

男女差別が残り続けてきたことには理由がある

ここでミルは、制限を無くさなければならないと単に言っているわけではない。また、そう言い続ければ事態が変わると考えているわけでもない。

なぜなら、ミルいわく、これまでの社会は「強者の法則」のもとにあり、平等の観念が現れてきたのはごく最近のことにすぎないからだ。とりわけ男女の不当な関係については、それがあまりに固定化されて自然に見えるので気づかない。しかもここで利益を得るのは個々の男性なので、きわめて強固な持続性をもたざるをえない。そうミルは言う。

実をいえば、これはうわべだけのことだが、人々は暴力そのものの支配はもう存在しないと自賛し、昔から現在まで立派に存続している事柄の存在理由を説明するものとしては、強者の法則は役にたたないという。

われわれ人類の歴史の大部分を通じて、力の法則は、一般的行為の原則として是認せられ、それ以外の法則はただ特殊関係から生じた特別な例外的なものであったこと、また社会一般の事柄が外観だけでもなんらかの道徳的法則によって規制されるようになったのはきわめて最近であるということは、人々はあまり知らない。

以上の例のような支配権が今日まで存続してきたとしたならば、男女両性の関係もまた、たといそれが正当ではないにしても、はるかに大きな永続性をもたざるをえないものであることをあきらかにしておきたい。なぜならば、権力の所有にともなう自尊心の満足や、その権力を行使することによってえられる個人的利益がいかに大きいかということが、この場合においては、たんに限定された一階級の問題ではなくして、全男性に共通のものだからである。

「男女は平等である」と言うだけでは足りない、もしそれで事態が変わるようであれば、他の差別と同様に無くなっていたはずだからだ。男女の平等を支える「徳」が無ければ、因習・慣習は残り続ける。これは単に制度を取り替えるだけでは解決できない問題だ。そうミルは考えていた。

否定論を立証すべき動かすべからざる積極的論点をあきらかにしなくてはならない。いな、たといこれだけのことをみななしとげて、なお反対論者にたいしては彼等が答ええないようないろいろの論点を残しても、また反対論者の主張は全部これを反駁しても、それだけではまだ十分ではない。というのは、一方においては一般の因習によって支持され、他方では人々の非常に有力を感情によって支持されている論拠というものは、とくに高い知性を有する人はともかくとして、普通の知性の人の理性に訴えてつくりだされるぐらいの信念ではどうにもならないほど、強い根拠を有すると考えられるからである。

法律と男女差別

次にミルは、当時のイギリスや諸外国の法律と結婚の関係に着目し、男女差別が法律のうちにどのように現れているかについて論じる。

ここでミルが挙げているのは以下の2点だ。

  • 妻の所有は夫の所有とされている(しかし逆はない)
  • 子供は妻の子供ではなく、夫の子供とされている(逆はない)

さすがにここまで明らかな差別は現代の法律制度には見られないが、かつてはこれが公然と支持されていたのだ。

事実でもって現行の法律制度を正当化することはできない

確かにミル自身も、一切の夫が妻に暴虐をふるう卑劣漢でないことは理解していた。

たいていの男性には女性に対して愛情をもつし、この愛情は子供に対する愛情と同じくらい強い。このため現行の法律制度を擁護するひともいるが、そうした事実でもって現行の法律制度を正当化することはできない、と言う。

なるほど確かにそういう夫婦関係があるのは事実だ。しかし法律や制度は、あくまで、悪人をこそ考慮しなければならない。結婚は決して善良な市民だけにとっての制度ではないのだ。

愛情の絆を大事にするような人もいれば、そうでない人間もいる。そういう人間には法律上の刑罰を適用するほかない。

何が罰せられるべきであり罰せられるべきでないかを判断するためにこそ法律が必要となる。平穏な側面だけを見て法律を必要なしとするのは過度な一般化である。そうミルは言うわけだ。

家庭を自由の徳の学校にすることが必要

ミルはここで、家庭における夫婦の権利的平等がもつ教育的な意義に着目する。

夫婦の権利的平等は正当であるだけでなく、同権感覚を養うものでもある。男女差別のない家庭は、子供にとって、自由の徳を育む唯一の学校なのだ。

自由国家における市民権は、ある程度までは、平等な社会を育んでくれる。しかし市民権は近代社会においてごくわずかな意義をもつだけで、習慣となった感情を変えることはできない。一方、家庭は、これを正しくつくれば、各人が相互に対等な社会の学校となりうるのだ。

家庭は専制主義の学校であり、そこでは専制主義の美徳が、むろん悪徳とともに、大いに培われている。自由国家における市民資格はあるていどまでは平等社会の養成所であるが、しかし市民資格も、近代生活においてはほんのわずかな部分を占めるのみで、日々の習慣や心の奥底の感情には匹敵できない。しかし家庭は、これを正しくつくれば、自由の徳の真の学校となるであろう。それはまた、あらゆる徳の学校とも十分なりうるのである。それは、子供に対してはつねに服従の学校となり、両親にたいしては命令のそれとなりうる。しかし、必要なことは、家庭を一方における権力と他方における服従という関係のない学校とすること、対等者相互の共感の学校、愛をもって共に住む学校たらしめることである。

人格として相互に対等な人間同士からなる社会を実現するためには、子供の頃から正義の徳を教育する必要がある。これは複数の世代にまたがって実現されうる歴史的なプロセスだ。一世代が「解放!」と叫べば事態が変わるわけではない。そうミルは考えていたのだ。

女性の才能

次にミルは、一般的に女性は柔軟かつ迅速に考えることができ、その意味で男性よりも実務の分野に向いていると主張する。

経験に照らしてみると、女性の才能は、一般的には、実際的方面にむいているといえよう、そしてそのことは、この問題にかんする他の一般的断定よりも確実であろう。これは、現在および過去における女性の公生活にかんする歴史にも一致している。そしてまた、日常の経験によっても同様に証拠つけられている。いま才能ある女性につねにみられる精神的能力の特質を考えてみよう。それらはみな同じように実際に向いており、実際的な傾向を有している。いわゆる女性の直観的な知覚能力といわれるものがこれであって、当面の事実を敏速正確に洞察することをいうのである。

もっともここは、具体的な根拠があるわけではなく、ミルの直観に拠るところが大きい。

男性でも実務の向き不向きがあるので、必ずしも女性が男性に対して実務能力で優れていると言えるわけではない。男性のミルが女性の内面をどれほど適切に見て取れるのかという問題もある。この点については、やはり女性自身の意見を聞いてみるしかない。

なぜ女性に独創的な作品が少なかったのか

ミルいわく、近世に関しては、女性の作品には独創力が欠けており、どれも結局は既存の作品の模倣にすぎなかった。実務処理能力によっては、より精密に模倣できても何か全く新しいことを創造することはできないのだ、と。

では、なぜ女性の作品に独創力が欠けていたのか。ミルは2つの理由を挙げている。

  • 男性と同じ教育を与えられなかったため
  • 名を上げようとする野心をもっていなかったため

何か全く新しい業績を成し遂げるためには、長い間の修練が必要だ。一般に、そのためのモチベーションとしては、功名心にまさるものはない。

しかし、現状として、女性はそうした野心をもっていない。女性は身近な人びとから好かれ、賛美されることに価値を置いている。もちろん私は、これが女性の自然な特質であるとは考えておらず、環境による結果だと考えている。実際、男性の場合は、社会で名を上げるように教育や世論によって方向づけられているが、反対に女性は、功名心をもつことは女らしくないとされている。

しかし、男性と同じ教育が女性に行われるようになれば事態は変わり、女性の独創性が発揮されるようになるだろう。

確かに、男女で同じ教育を受けている現代では、男性と女性は同じ独創力をもっていると言える。もし今日においてなお「女性には男性のような独創性が欠けている」とすれば、まず間違いなく失笑を買うだろう。

男女同権のメリット

続けてミルは、具体的なメリットを示さなければ納得できないひとに向けて、男女の権利的平等がどういうメリットをもたらすのかについて論じる。

ミルによれば、以下の2点においてメリットがある。

  1. 男女関係が正義によって規制されるようになること
  2. 人間全体の精神能力が倍増すること

1つ目の利点については、各人が自由に幸福を追求できる状態が正義にかなっているとする『自由論』の議論を受け継いでいる。

自由とは他者とともに幸福追求ゲームを営むための条件であり、これを制限することは、幸福追求ゲームを妨害するひとを罰する限りでなければ、正当とは言えない。そうミルは論じていた。

自由な社会でこそ人間性は向上する

衣食住に関する最低限の欲求が満たされれば、自由こそ人間的欲望の第一の目的となる。

法律がない間は、自由とはまさしく「何でもあり」という形を取る。しかし、義務や理性がもつ意義を理解すれば、私たちはみずからを良心によって律するようになる。

社会的な義務の観念は、他人の意志を指導原理とするような社会ではなく、良心や義務感によって制限された自由を強く主張してきた社会において最も有効に働いてきた。

他人に指図されず、自由に自分の運命を開拓する自覚があればこそ、知性と義務感は向上する。このことは男性だけでなく女性にとっても当てはまるはずだ。

自己の運命を自己の道徳的責任において開拓するという自覚は、政治の末節における多少の粗雑さや不完全さを償ってあまりあるものではなかろうか。彼がこの点について感じていることは、すべて女性もまたそのとおりに感じているということを、彼に銘記させておく必要がある。ヘロドトス(紀元前五世紀のギリシャの歴史家)の昔より現代にいたるまで、自由政治が人心を高尚ならしめる影響力をもつことについては、多くのことがいわれたり書かれたりしてきた。すなわちそれは、人間のあらゆる能力に勇気と活気とをあたえ、知性や感情により広く高い目的を供し、没我的な公共心と広大な義務観とを生ぜしめ、さらには各人を道徳的、精神的、社会的存在として一般により高い見地に立たしめるのであるが、そのようなことは、そのいずれをとってみても、男性にとって真実であると同様、女性にとっても真実なことである。これらのことは、個人の幸福にとってもその重要な要素でないといえるだろうか。

男女の権利の不平等を、不当な「ねたみ」や偏見によって促進させるようなことがあってはならない。女性の権利、自由を制限することは、人間性そのものを貧しくすることに行き着かざるをえない。そのようにミルは言う。

本書の議論は以上だ。

感情のレベルでの対策が必要

ミルが本書で論じているのは、男女の差別は不当であるということだけではない。これに加えて、男女差別を解消するためには、感情(心ばえ)のレベルでの対策を行わなければならないとも論じていることは見逃してはならない。

ミルの言うように、男女の権利的平等という観念を実質化させることは決して一筋縄で行くようなものではない。世界的に見ると、国連で「女子差別撤廃条約」が採択されたのは1979年であり、わずか数十年前のことだ。各国で見ると状況はまちまちで、先進国と発展途上国の間に大きな隔たりがあることは否めない。経済規模が大きいからと言って、それに応じて男女の権利的平等が実現されているかというと、必ずしもそうとは限らない。

確かに、女性参政権の拡充などは実際に条文として現れ、容易に確認することができるので、男女差別が解消していく過程のバロメーターとして使われやすい。しかし個々人の内面がそうした過程にともなって変化しているかというと、それは疑わしい。

「正義の徳」が内面化されることなしには、法律制度を変えても内実が伴わず、男女差別は確固として残り続ける。こうしたミルの危惧は今いちど思い起こされていいはずだ。

最初に書いたように、本書は当初、女性を解放することが人間の解放につながるのだとする社会主義的な文脈で受容された。しかしそうした解釈は、ミルの言わんとすることを適切に受け取っているとは言いがたい。教育によって男女の同権感覚を内面化する必要があるという直観は、本書を解放論として捉えている限りは、決して見て取ることのできない直観だ。

ミルはフェミニストではない

注意しておくべきは、本書でミルは、性差別は不当であり、近代社会においては何ら正当な根拠をもたないと主張したのであって、決して「女性の」権利を主張したわけではないということだ。

ミルの目的は、女性の権利を擁護することにあったわけではない。ミルにとって、それはひとつの方法にすぎなかった。

各人が性別に関わらず一個の人格として相互に承認することが近代社会の原理であり、近代社会における自由の条件である。この条件を実質化するために、男女同権という制度と、それを支える「徳」を育てる必要がある。考え方としてはそういう順序だ。

女性差別を批判したのはミルの生きていた社会の現状がそうだったからで、もし仮に、女性が男性の上に立って性差別をしていたならば、ミルは本書と同様の仕方で批判していたはずだ。

「男女同権を唱える=フェミニスト」な図式であれば、近代哲学者は基本的にみなフェミニストということになる。ホッブズ、ルソー、ヘーゲルはとりわけそうだ。もし近代哲学は男性中心主義だと考えているようなひとがいれば、ぜひ自分で読んで確かめてみてほしい。彼らが性差別とは正反対の立ち位置にあったことはすぐに分かるはずだ。