マルクス『ユダヤ人問題によせて』を解読する

若かりしマルクス
若かりしマルクス

本書『ユダヤ人問題によせて』は、社会主義者カール・マルクス(1818年~1883年)の著作だ。1844年に発表された。

カール・マルクスは言わずと知れた社会主義の先駆者だ。僚友フリードリヒ・エンゲルスとの共著『資本論』は社会主義のバイブルというべきものだ。

マルクスはとにかくカリスマ性にあふれている。イギリスの初期社会主義者ロバート・オウエンやサン=シモンが形作った社会主義を大きく展開させ、理論面でも実践面でも大きく貢献した。

とはいえマルクスは、いきなり社会主義運動に飛び入り参加したわけではない。青年時代のマルクスは、ドイツ哲学の先輩ヘーゲルとの知的格闘を繰り広げ、いかにしてヘーゲル(とドイツ観念論)を乗り越えられるかという問題に取り組んでいた。本書はその頃に書かれた著作だ。

当時のドイツ哲学アカデミズムはヘーゲル一色。ドイツの哲学者の多くは、ヘーゲルの立てた体系の内側で議論をあれこれ行なっていた。『法の哲学』でヘーゲルは、世界史とは自由の展開過程であり、その最終項は国家であるとしていた。このヘーゲルの主張が「国家において矛盾は万事解決(=止揚)される」というようにドグマティックに解釈されていた。

マルクスは本書を20代の半ばに著した。当時マルクスはジャーナリストとしても活動しており、その際に出会ったフリードリヒ・エンゲルスから、当時の最先端国家イギリスの労働者階級がきわめて悲惨な生活環境にあることを知らされていた。エンゲルスの助けを得ることで、マルクスはアカデミズムの外側から社会を見て、考えることができたのだ。

2人の間には多少の思想的な違いはあるが、エンゲルスがいなければマルクスの思想があれほどまでに広がることはなかっただろうし、実際に社会に影響を与えるほどの力をもつことはなかったに違いない。

では早速、本文を見ていくことにしよう。

ユダヤ人を解放する

冒頭でマルクスは、青年ヘーゲル派に属していたブルーノ・バウアーの著作『ユダヤ人問題』を取り上げ、当時のドイツ社会におけるユダヤ人問題について論じる。

ドイツのユダヤ人は政治的な解放を求めている。

バウアーは次のように言っている。国家がキリスト教的であり、ユダヤ人がユダヤ教的である限り、解放は不可能だ。その問題を解決するためには、宗教を揚棄し解消しなければならない。そうすればユダヤ教とキリスト教の対立はなくなり、ユダヤ人とキリスト教徒は人間的な関係のうちに入るだろう、と。

バウアーは、ユダヤ人が宗教を捨てさえすれば、彼らの解放は実現されるとする。しかしそれは誤りだ。なぜならバウアーはキリスト教国家を批判しつつも、国家それ自体への批判を行なっておらず、結果として、政治的解放と人間的解放を混同しているからだ。

ユダヤ人を解放することを考えるのであれば、人間を解放することを第一に考えなければならない。

そもそも宗教が存在するということは、どこかに欠陥があるということだ。私は、その欠陥の原因は国家の本質にあると考える。そこで以下では、国家の構造を批判し、国家とその前提に矛盾があることを示そうと思う。

われわれは、国家と、たとえばユダヤ教といった特定の宗教との矛盾を人間化して、国家と特定の世俗的諸要素との矛盾に変え、国家と宗教一般との矛盾を人間化して、国家と国家の諸前提一般との矛盾に変えるのである。

国家の本質

マルクスは、国家の本質は類的生活にあるという。

人びとが固有の社会関係のうちで生きつつ、権利主体としての「公民」(シトワイヤン)としても生きること、これが類的生活だ。

しかし現代の人びとは市民社会のうちで、独立した個人として、メンバーの一員としての類的生活と対立する利己的な「物質的生活」を送っている。

この類的生活を人びとのうちに取り戻させること、これこそが真の人間的解放だ。

大雑把だが、マルクスが本書で主張しているポイントはこれに尽きる。

マルクス主義といえば、国家の廃止と共産主義社会の実現がセットになっているが、ここでのマルクスからすると、国家は廃止されるべきものではない。国家は人間と自由の媒介項なので、たとえ批判されても、否定し廃止されるべきではない。そうマルクスはここで言っている。

現代の国家は不完全

マルクスによれば、当時の民主主義国家は本質的に不完全だ。

なぜか。それは国家が宗教(キリスト教)を必要としているからだ。

民主主義国家がキリスト教的なのは、それが利己的人間、現代の社会機構のせいで堕落している人間、非人間的な関係によって支配されている人間、ひとことでいうと類的存在として存在していない人間を至上の存在と見なしていることと密接に関わっている。

しかし真に民主的な国家は宗教を必要としない。そこでは人びとは宗教から解放されており、類的生活のうちにある。国家は人びとに類的生活をもたらさなければならない。

市民社会

マルクスいわく、現在の国家の基礎は、私的所有と個人的自由に置かれている。しかしそれらは市民社会の本質的な要素でもあるので、国家を批判するためには市民社会も同時に批判しなければならない。

マルクスの市民社会批判は、市民社会が利己的な生を原理としている、という点に向けられている。市民社会のうちで人びとは類的生活から疎外されている。これが批判のポイントだ。

市民社会の原理は個人的自由と私的所有だ。

個人的自由とは「他の誰にも害にならないことはすべて、行ったり行わせたりできる権利」のことだ。しかしこの自由は、共同体から切り離された個人、モナドとしての人間の自由でしかない。

また私的所有は、個人が社会と関係なく自分の財を享受したり処分したりすることの権利を指している。

しかし市民社会では各人の自由は衝突してしまい、それを十全に実現することができない。つまり個人の自由は他人の私的所有によって制限されてしまうのだ。

私的所有という人権は、任意に、他人と関わりなしに、社会から独立に、自分の資産を享受したり処分したりする権利、つまり利己の権利である。先に述べた個人的自由と、いま述べたそれの適用とが、市民社会の基礎となっている。

市民社会は、各人が他人のなかに自分の自由の実現ではなく、むしろその制限を見いだすようにさせているのである。

「安全」と「警察」(福祉行政)は利己主義を擁護

だがここで、ちょっと待て、と思うひともいるかもしれない。ヘーゲルは『法の哲学』で、市民社会では国家が福祉行政を通じて人びとの間の不平等に配慮し、彼らが自由を実質化できるよう援助すると言ってたじゃないか、と。

しかしマルクスにとってそれは、結局のところ、人びとのエゴイズムを擁護しているにすぎない。なぜなら福祉行政は私的所有を保障するものだからだ、と。

市民社会の重要な要素には、安全(セキュリティ)と、ヘーゲルのいう警察(福祉行政)がある。

しかし警察の存在は、社会全体がメンバーの私的所有を保証するためだけに存在することを象徴している。つまり安全と警察は人びとの利己主義を擁護するものでしかないのだ。

安全の概念によって、市民社会はその利己主義を越え出るわけではない。安全とは、むしろその利己主義の保障なのである。

市民社会において人びとはただ彼らの私利私欲によってのみ結合される。そして国家は、こうした利己的人間に「人権」を与えることで、彼らの存在を積極的に承認しているのだ。

人間的解放こそが真の解放

宗教を揚棄したところでユダヤ人が解放されることはない。それは政治的解放にすぎず、人間的解放ではないからだ。そうマルクスは主張する。

マルクスによれば、政治的解放は、人間を利己的な人間と「抽象的な公民」の2つへと引き裂くことで、市民社会を政治から解放し、その2つを別々の領域へと分け隔てた。

つまり政治的解放は、具体的に生きている公民としての人間を排除することで、人間から政治性を“脱色”してしまったのだ。そうマルクスは言う。

市民社会における生活のさまざまな機能や条件ゆえに、個人は国家から排除され、彼の特定の活動(とくに労働)が、彼にとって唯一の普遍的な活動となってしまった。

それでもなお市民社会は政治的だった。というのも個人は、国家に対して関係をもつ職業団体に属していたからだ。

しかし政治的革命は、政治の精神を、市民社会から独立した「普遍的な人民的業務の領域」に追いやってしまった。これによって国家権力が政治活動を掌握し、政治活動は支配者と家臣の仕事となってしまった。

と同時に、政治的革命は身分や職業団体や同業組合などを一挙に打ち崩し、人びとがそれまで生きていた社会的生活つまり類的生活を叩き潰すことで、彼らをバラバラな利己的人間の集合体に変えてしまったのだ。

政治的解放は真の解放ではない。人びとが個人として生きると同時に、公民という社会のメンバーの一員としても生きること、これを可能にするのが真の解放であり、人間的解放なのだ。そうマルクスは主張する。

完成された政治的国家は、その本質からいって、人間の類的生活であり、人間の物質的生活に対立している。この〔物質的生活という〕利己的な生活のあらゆる前提は、国家の領域の外部に、市民社会のなかに、しかも市民社会の特性として存続している。

現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、つまり人間が彼の「固有の力」〔forces propres)を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放は完遂されたことになるのである。

ユダヤ教の基礎=利己主義

最後にマルクスは、ユダヤ教それ自体を廃棄する必要があると主張する。なぜならユダヤ教の基礎には貨幣崇拝の利己主義が潜んでいるからだ、と。

ユダヤ教のなかには反社会的要素が含まれている。ユダヤ人は「あくどい商売」を行い、貨幣を神としてあがめている。その根本は、ユダヤ教が貨幣を崇拝する利己主義を基礎としているという事実だ。

市民社会がユダヤ教によってむしばまれたゆえに、人びとのつながりは引き裂かれ、世界は私利私欲のうずまく利己的人間の世界へと変貌してしまった。

ユダヤ教は市民社会の完成とともにその頂点に達するが、しかし市民社会はキリスト教世界のなかではじめて完成する。あらゆる民族的、自然的、人倫的、理論的関係を人間にとって外的なものとするキリスト教の支配のもとでのみ、市民社会は国家生活から自分を完全に切り離し、人間のすべての類的紐帯を引き裂き、利己主義と利己的欲求をこの類的紐帯の代わりにおき、人間世界を相互に敵対しあうアトム的な個人たちの世界に解消することができたのである。

そこで市民社会が「あくどい商売」とその前提を否定し廃棄すれば、ユダヤ人は存在しなくなる。これこそユダヤ人の社会的解放がもつ意味なのだ。

本書の議論は以上だ。

社会の矛盾を鋭く見抜くマルクス

ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説 (岩波文庫)マルクス・コレクションI

マルクスはユダヤ人問題を手がかりに、人間と、市民社会・国家の関係について論じてきた。市民社会には利己主義がはびこり、真の生活が見失われてしまっている。確かに政治的解放が行われたが、むしろそれは人びとを真の生活から遠ざけてしまった。真の解放は、人びとを具体的な公民として、社会のメンバーとして生かすのでなければならない。そうマルクスはいうわけだ。

マルクスのユダヤ教批判がどの程度妥当かについては分からない。現代の時点からすればほとんど納得できないが、当時としては適切だったのかもしれないし、その時点ですでに単なる偏見にすぎなかったのかもしれない。

市民社会の評価についても、半分しか妥当性をもたない。マルクスにとっては、ヘーゲルのいう欲求の体系と、それを下支えする市場経済システム(普遍資産)が社会の矛盾を生み出す根源だが、それを否定することは、私たちの自由それ自体を不可能にしてしまうからだ。