マーダヴァ『ジャイナ教綱要』を解読する

ジャイナ教の旗
ジャイナ教の旗

『ジャイナ教綱要』(原題は「阿羅漢の教え」)は、原作者マーダヴァの創作に加えて、さまざまなジャイナ教の著作の主要部分の引用によって構成されている。

マーダヴァは14世紀の思想家で、インド哲学ではかなり後期に分類される。当時はすでに仏教の説も出揃っており、それらを材料としながら、マーダヴァは自分の説を練り上げている。

ジャイナ教は、虫をも殺さまいとする徹底的な不殺生の戒律でよく知られているが、同時に徹底的な相対主義に依拠してもいて、宗教的リゴリズムが相対主義と同居するという独特の性格をもっている。今日でもインドの一部の人々によって信仰されている。

三宝(正見・正知・正行)が解脱への道

ジャイナ教は、仏教と同じく、それまでの伝統的なバラモン教の教えを批判して現れてきた宗教である。

ジャイナ教にとっても、中心の問題は、現世からの解脱はどのようにして可能かということである。これについてジャイナ教では、正見・正知・正行という「三宝」を守ることが解脱に至るための唯一の方法であると説かれる。

この点に関して、マーダヴァは次のように論じている。

正見とは、正しき信仰、すなわち命我(アートマンのこと)などの根本原理に信を置き、その反対のものに執着しないことを指している。

正知は根本原理をあるがままに、正しく理解することだ。正知には感覚知、聖典知、直観知、他心知、独存知の5種類がある。感覚知は対象をありのままにとらえることで感覚器官から得られる知、聖典知は感覚値から得られる明瞭な知、直観知は正見から得られる知、他心知は嫉妬心が抑えられたときに相手の思っていることをはっきりと知る知、独存知は苦行によって得られる知のことだ。

また、正行とは、輪廻の業を断ち切ろうと努力し、業を引き起こす行為を止めることを指している。それには不殺生、不妄語(嘘を言わないこと)、不偸盗(盗みを働かないこと)、梵行(邪淫を慎しむこと)、不所持(所有欲をもたないこと)の5種類がある。

解脱に至るためには、きちんとした方法が存在する。生まれや人種などに関わらず、三宝をひたすら遵守することによって、解脱は可能となる。こうした観点は、原始仏典における釈迦牟尼の教えにも見られる。

私たちの生活はバラモン教の説くように固定的なものではない。自分の存在の運命に対しては、私たち自身の努力によって働きかけることが出来る。こうした可能性の意識は、仏教とバラモン教に共通するものだ。

さまざまな説がある

マーダヴァによれば、ジャイナ教の説には様々なものがある。命我(アートマン)と非命我を区分するものもあれば、根本原理には7種類あるとする説、命我と虚空と法(ダルマ)と非法と物質素材という5種類の有聚(存在の基本類型)という分類を置く説もあるという。

ある者は七種の根本原理を述べている。すなわち、「根本原理とは、命我、非命我、漏、縛、遮、滅、解脱である」

漏とは身体の動きによって生じる我の働き、すなわち作為のことだ。作為は業を引き寄せる。縛は業となるのに適した物質素材を引き寄せて結合する。

遮は「漏」を停止することであり、業を退ける規律と用心にもとづく。ここでいう規律とは作為を制御することであり、また用心とは生物への危害を避けようと慎重に行為することを指している。

太陽の光が接吻し、人が行きかう道路上を、生類をまもろうとして注意して歩行すること。これが歩行に関する用心であると賢者は考える(『ヨーガ・シャーストラ』一・三六)

すべての人に対する、咎のない、ほどよいことば、無言の戒をまもる苦行者に対する、やさしい態度。これが談話に関する用心とよばれる

乞食に関する四十二種の過失をつねに離れた食事を、苦行者がうけとること。これが食事に関する用心である

滅はすでに得た業を苦行などによって滅することを指す。たとえば毛髪を引きぬくことによって。ここで業からの完全な離脱、すなわち解脱が生じる。

普段の生活を通じて、私たちは知らず知らずに業を積み上げてしまっている。と言うより、人間として生きるということは、業を積むことを伴わずにはいられない。従って私たちは、業を意識的に、積極的に、自覚的に取り除く必要がある。それは私たち自身の存在の「頑固」な傾向に抗いつつ行われるものである。当然それは辛いものであり、努力を必要とする。だが、その果てには、解脱というゴールが待っている……。マーダヴァの文章を翻案して言うと、およそそうした感じになるだろう。

相対主義のジャイナ教が最強

さて、マーダヴァによれば、ジャイナ教の論理は相対主義(サブタバンギー・ナヤ)であり、それゆえにジャイナ教が他の宗教に対して負けることはありえない。

ジャイナ教徒は、サブタバンギー・ナヤという論理をいたるところで使用する。すなわち、

(一)ある点では、ある。

(二)ある点では、ない。

(三)ある点では、あり、またない。

(四)ある点では、表現できない。

(五)ある点では、あり、また表現できない。

(六)ある点では、なく、また表現できない。

(七)ある点では、あり、またなく、表現できない。

もし、ある物が絶対的に存在するならば、それはつねにどこでも存在することになる。したがって、それを得ようとしたり避けようとしたりする試みはないはずだ。こうした試みを合理的に理解することができるのは、ただジャイナ教の相対主義によってのみである。

また、物の本質が存在であるということはできない。なぜならその場合、物=存在となり、「存在は存在する」というように同義反復となって不合理となるから。

かくして、「物は存在するか?」と質問されたとき、ジャイナ教徒は「ある点では存在する」と答えることができるので、反論者はみな黙り込んでしまう。こうしてジャイナ教徒はどこでも勝利をおさめることができるのだ。

でもアートマンは存在する

このようにしてマーダヴァは、相対主義に基づくジャイナ教が最強であると論じるが、当然、ここで「では、アートマンも解脱も無いのでは?」という反論が想定される。

アートマンは、あるといえばあるし、ないといえばない、というのがジャイナ教的な「正解」のはずなのだが、マーダヴァはここで「いや、それでもアートマンはあるのだ」と強弁する。

アートマンがなければ、現世と来世の果報のために準備することは無意味となってしまうだろう。したがって、来世まで持続する我(アートマン)は存在するのだ。

これは、宗教的にはそうせざるを得ない言い方ではあるが、論理的には成立していない。来世のためにどれだけ苦行しようが、そのことがアートマンの存在を証明するわけではないからだ。ドイツの哲学者イマヌエル・カントが『実践理性批判』で論じた「徳福一致のアポリア」、あるいは、ニーチェの論じた「形而上学の心理学」を考えるとよいだろう。

つまり問題は、なぜ論理的には成立していないはずの言い方に、私たちは信を置いてしまうのか、なぜアートマンは存在するのでなければならないと考えざるを得なかったのかというものである。この点については、しかし、ジャイナ教のテキストそれ自体から解答を導くことは出来ない。

宗教と、論理を超える力

マーダヴァは、サーンキヤ学派やヴェーダーンタ学派など他の学派を相対化することを通じて、ジャイナ教を正当化しようと試みている。しかし、まさにそうすることによってマーダヴァは、自分の拠って立つ基盤そのものを揺るがしてしまっている。ただし、このことはマーダヴァの場合に限った話ではない。それは相対主義を自らの方法として採用する思想に本質的な特徴である。相対主義はいずれも、自らに跳ね返ってくるのだ。

ジャイナ教は徹底的に苦行することで解脱が可能となると考えた。しかし、みずからの正しさを証明するために相対主義を採用したゆえに、内側に論理的な「もろさ」を抱えてしまうことになった。ここにジャイナ教が哲学ではなく宗教でしかありえない理由がある。

ただしこれは、逆に考えると、宗教が信じられるということは、それが論理的な「もろさ」を超えるような力を備えているのだということである。さもなければ、「これは論理的に成立しない」という批判によって、宗教は既に打ち崩されてしまっているはずである。そうした批判に対抗する力が存在すればこそ、宗教は確かに信じられるのだ。論理的に最強であるはずのジャイナ教が一部の人々にしか信仰されず、それに対して仏教が世界宗教へと展開したことの背景には、おそらくこのことも何らかの仕方で関わっているだろう。

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