レヴィナス『実存から実存者へ』を解読する

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本書『実存から実存者へ』は、エマニュエル・レヴィナス(1906年~1995年)による著作だ。1947年に発表された。

反存在、反ハイデガー

本書の問題意識は、第2の主著『存在の彼方へ』と基本的に同じだ。ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの存在論に対抗しつつ、どこに「善」の根拠を置くことができるか。本書の議論はこの問題意識のもとで行われている。

本書におけるレヴィナスのハイデガー評価は、大体以下のようにまとめられる。

存在への「気遣い」はエゴイズムであり、存在中心主義は最終的に戦争に至る。それゆえハイデガーの存在論は戦争に荷担している。存在について論じている限りは、戦争のない世界を実現することはできない。

レヴィナスは本書の第2版への序文で、ハイデガーが『存在と時間』で示した「気遣い」という概念について、以下のように言っている。

世界の内では、生きる者たちの「自己への気遣い」の野蛮さは文明化されるが、しかしそれは無関心へと、諸力の匿名の均衡へと転化するのであり、そうして必要とあらば戦争へと転化しさえする。

存在してしまっているという事実

ただ、レヴィナスとしては、存在それ自体を否定すればすべて解決できると考えていたわけではない。いずれにせよ私たちは、否応なく存在してしまっているからだ。

そこでレヴィナスは、存在の「引き受け」という概念を提示する。気遣いの代わりに、存在の引き受けという概念で、存在と存在者の関係は適切に表現することができる。そうレヴィナスは言う。

存在するひと、あるいは存在するものは、幕が開く前に、ドラマに先立ってなされる決意によって、おのれの実存との交渉に入るわけではない。まさしく、すでに実存しているという事実によってこの実存を引き受けているのだ。

存在の「引き受け」の拒否としての怠惰

次にレヴィナスは、具体的に存在を引き受けるとはどういうことかについて論じるにあたって、疲労や怠惰という現象に着目する。

たとえば私たちは、「学校に行くのダルいな…」とか「仕事面倒くさいな…」と思うことがあるだろう。そういう意味での怠惰であれば、おそらく誰しも一度は経験したことがあるはずだ。

しかしここでレヴィナスが言う怠惰は、そうした日常的なタスクに関わるものではない。それは存在に関わるものであり、自分が存在することそのものから抜け出したい、という水準での怠惰だ。

怠惰のうちでは、あらゆることがどうでもよくなる。その際とりわけ自分自身がどうでもよくなる、というような倦怠感がある。この倦怠感は、何かがしたくないというのではなく、存在そのものから抜け出したいと思っているのだ。

怠惰とは、存在の引き受けに対する拒否だ。ひとは怠惰のうちで具体的な行動を目がけているが、実際に行動することができない。怠惰は「開始の不可能性」なのだ。

自我とその実存との関係が気懸りになり、実存が引き受けねばならぬ重荷のようにして現れるといった事態は、哲学的分析が通常は心理学に委ねてきたある種の状況のなかでことのほか切実なものとなる。私たちが取り組もうとしているのはそうした状況、つまり疲労や倦怠である。

怠惰が怠惰であるのは、この実存の引き受けに関してである。怠け者が行為の労苦を惜しむとしても、その労苦は何らかの苦痛という心理的内容ではなく、そこにあるのは引き受けること、所有すること、かかずらうことの拒否なのだ。怠惰が、何に対して無力な歓びのない嫌悪であるかといえば、それはこの重荷としての実存なのだ。

存在の引き受け方=「実詞化」

では一体、存在を引き受けるとは具体的にどういうことなのか。それをレヴィナスは「実詞化」(イポスターズ)という概念によって説明しようとする。

実詞化とは、レヴィナスの言葉を借りれば、「休息」のことであり、「ここ」を土台として、場所に定位することだ。

休息という基本的な活動、基礎、条件は、したがって存在との関係そのものとして、実存における実存者の出現として、〈イポスターズ=実詞化〉としてあらわれる。

横たわり、片隅に身を丸めて眠るとき、私たちはひとつの場所に身を委ねる—そしてこの場所が、土台として私たちの避難所となる。そのとき、存在するという私たちの営みはただ休むことだけになる。

本来性とは違う仕方で

ハイデガーは『存在と時間』で、私たち人間は本質的に死へと関わりつつ存在しているから、死を「誰にでもいつか起こることさ」とやりすごすのではなく、いつでも、今この瞬間でさえも起こりうる可能性として自覚することが、本来的な生き方の条件である、というように主張していた(第53節)。

本書でレヴィナスが実詞化という概念を用いたのは、まさしくこうしたハイデガー的な意味での存在の引き受けを相対化しなければならないと考えていたからだ。私たちが必然的に死に至ることを自覚すれば、存在に対する配慮が全面に出てきて、他者さえもその目的に相関して捉えてしまう。

存在のエゴイズムを克服すること、それが実詞化という概念の背後にある目的だ。

欲望相関

レヴィナスは次に、ハイデガーの気遣いに対して、志向性という概念を示す。これは現象学の創始者フッサールが、私たちの認識の本質的な構造を論じるにあたって用いた概念だ。

志向性の概念は、フッサールにおいては、意味が中性化され、非現実的なものとなっている。これはむしろ通常の意味において捉えられるべきであり、それはつまり欲望、ということだ。志向性は欲望であり、気遣いではない。

着目すべきは、欲望の目的はまさしくその欲望が向かうところの対象であり、存在配慮ではないということだ。

もちろん私たちは食べるために生きているわけではないが、生きるために食べると言うのも正確ではない。私たちは腹が空くから食べるのだ。欲望には思考にまがうような底意はない。欲望は含むところのない素直な意欲であり、その余はすべて生物学だ。欲望をそそるものが欲望の果てるところ、目的であり終点なのだ。

ハイデガーの試みは一見よかったが、気遣いの合目的性に対象を従属させた点で見誤った。そうレヴィナスは言う。

世界という概念を諸対象の総和の概念から分離する試みのうちに、私たちは躊躇なくハイデガー哲学のもっとも深遠な発見のひとつをみとめる。しかし「世界-内-存在」を記述するために、このドイツ人哲学者はほかでもない存在論的合目的性の助けを求め、その合目的性に世界内の諸対象を従属させるのだ。諸々の対象のうちに「資材」—「戦争資材」と言うときの意味で—を見てとり、彼は対象を実存することへの気遣いのうちに括り込んでしまった。

私たちが自分の存在を配慮して、世界を一切の「~のために」のネットワーク(道具連関)として捉える視点、これは合目的的なものだ。存在配慮につながるか否かで対象の意義を決めるのでは、気遣いが向かわないような他者を正当に位置づけることができない。レヴィナスにはそういう直観があった。

純粋な享受の対象としての「糧」

レヴィナスはここで、ハイデガーの気遣い相関的な「道具」(Zeug)に対して、欲望相関的な「糧」の概念を示す。

ハイデガーの「道具」は、私たちの関心に応じて事物が意味を現わしてくる、そうした対象の性格を指している。

たとえばコップについて考えてみると、私たちにとってコップの意味は「高さが15cm、幅10cmの陶器である」という点にあるわけではない。コップは、もし飲み物が飲みたければ、容器という意味をもつし、泥棒が家に入ってきたら、撃退する武器という意味をもつ。そうした関心・欲求相関性が「道具」の本質である。そうハイデガーは論じていた。

「糧」は合目的的なものではなく、それ自体において享受されるものだ。たとえば、家は住むための「道具」ではない。家は私たちの文明において特別の地位が与えられてきたのであって、コップのような道具と同じ水準に置くことはできない。

糧は、欲望とその充足が一致する点において、世界内的な生の典型だ。そうした生の本質はハイデガーの言うような頽落にはない。世界内的な生は、欲望とその充足という均衡と調和が見られるエピソードなのだ。こうした世俗性こそが世界のあり方であり、これを欺瞞や頽落と見なすのは間違っている。

世界内に与えられているものがすべて道具なのではない。「兵営」の宿舎や掩蔽壕は、軍隊の兵端部にとっては〈糧〉である。兵隊にとっては、パンや上着やベッドは資材ではない。それは「のための」ものではなく、それ自体が目的なのだ。

この食物という糧の例をさらに強調しておこう。この例は日常生活のなかで占める|位置のために特権的だが、またとりわけ、この例によって表現される欲望とその充足との関係が、世界内での生の典型をなしているという意味でも特権的である。

生きるために食べたり飲んだりするというような状態を想像してみて欲しい。果たしてそれは世界の混乱、終わりだと言えないだろうか?

欲望の対象の背後に、世界を曇らせる爾後の合目的性の影が輪郭をあらわすのは、悲惨と困窮の時代である。死なないために食べ、飲み、暖を取らなければならないとき、ある種の苦役の場合のように糧が燃料になるようなとき、世界もまた混乱し無意味になり、更新されるべきものとしてその終末に達したように思われる。

存在者が現れるまで

ここでレヴィナスは、実詞化に話を戻して、存在者が現れるプロセスについて論じる。

レヴィナスいわく、そのプロセスは「存在する」(イリヤ)から始まる。

イリヤ(il y a)

「il y a」はフランス語で「存在する」という意味だ。これは、文字通り訳せば、「それがそこで持つ」(there it has)となる。このことからレヴィナスは、存在するとは、何か得体の知れない非人称的なものに捉えられていることである、という主張を導く。

〈ある〉一般、何があるのかはどうでもよい。雨が降る(il pleut)とか暑い(il fait chaud)というのと同じように非人称の〈ある(il y a)〉というこの表現に、実詞を結びつけることはできない。〈ある〉は本質的な無名性だ。

〈ある〉の体験としての夜の恐怖は、それゆえ、死の危険や苦痛に出会う危険があることを私たちに啓示しているのではない。ここがこの分析全体の核心である。ハイデガーの不安が見出す純粋な無は、〈ある〉ではない。存在の恐怖は無の不安に対立する。存在するのが怖いのであって、存在にとって怖いのではない。任意の「何か」ではない何ものかに引き渡され、それに捕らえられていることの恐怖なのだ。

ハイデガーの「死の不安」は、それを自覚することで自分固有の可能性が開けてくる、というものだ(先駆的決意性)。死は一見ネガティブなものだが、生における目標をもたらしてくれるという点で実はポジティブな意味をもっている。ハイデガーはそう考える。

これに対して、レヴィナスの「イリヤの恐怖」は、自分の生の終点がどこにあるのかを理解できず、自分が一体どのような状況のもとで生を営んでいるのかを理解できないことから生じる、一種の重苦しさだ。

もっとも、レヴィナスはここでイメージ的にしか論じていないので、一体どこまでが普遍的と言えるかどうかは分からない。そもそもが、内省に先立つ存在のあり方について論じるという構えなので、議論に独断性が入り込んでしまわざるをえないのだ。

疲労も怠惰も、もちろん想念や感情や意欲と同様「意識内容」ではある。しかし、われわれの来歴上のあらゆる出来事にこの純粋形式の資格を与え、内容として並べ、出来事としての劇的な性格を隠蔽してしまうのは、ひとえに反省のなせるわざである。

イリヤから「自由」へ

レヴィナスは、イリヤから存在者が現れるには、意識が定位する必要があると言う。つまり実詞化が現在において、絶えざる「誕生」のプロセスとして生じることで、存在者が生じる。

主体は「ここ」を土台として、そこに根づく。「眠り」によって場所、避難所を得るのだ。

定位は現在という瞬間の出来事だ。現在において、出来事から実詞への転換が行われる。現在という瞬間のうちで存在が創造されるのだ。

土台の上に身を置くことで、存在を抱え込んだ主体は凝集し、立ち上り、自分に詰め込まれたいっさいのものの主人となる。そしてそのときの〈ここ〉が、主体の出発点となるのだ。主体はその上に根づく。

つまりこういうことだ。

主体が「ここ」を土台として成立すると同時に、「ここ」から逃れることはできない。私はたえず自分自身につながれている。存在の引き受けは「自由」のきっかけであると同時に、存在を放棄できないという二重性をもっている。

自分自身との沈黙の結びつきであり、そこには二重性が見てとれる。自我であるということは、たんに自己に対して〔対自的に〕存在するということではなく、また自己と共に存在するということでもある。

主体は自由であり始まりでありながら、この自由そのものを支配する運命を背負っている。

社会は他者との非対称性を本質とする

レヴィナスは本書の後半で、時間や社会のあり方について論じている。時間については比喩が多く、イメージ先行型なので、最後に社会に関する議論について見ていくことにしたい。

ハイデガーの社会性は、孤独な主体が真理の周りに形作る集団だ。そこには他者の他性が欠けている。

これに対して私は、非対称的な「私-君」の関係性を置きたい。それは孤独な同志からなる集団ではなく、他者との対面だ。

注意しておきたいのは、この非対称性は、他者それ自体の本質によるものだ。他者は単に私にとっての現れだけで把握し尽くせるものではない。他者の価値を中性化することはできないのだ。

人間どうしの関係は、相互に置き換え可能な二つの項の、それ自体としてはその二項に左右されない中立的で相互的な関係ではなくなる。他人としての他人は、ただたんに他我なのではない。

他人とは私がそれではないもの、私が強者なら、それは弱者であり、貧しき者であり、「寡婦にして孤児」である。

本質的なことは、他人がその他性それ自体によってこうした質をもつということだ。間主観的な空間は、もともとは非対称的である。

反ハイデガー色が強すぎる

レヴィナスに対する基本的な評価は、『存在の彼方へ』の解説で書いたとおりだ。意識経験を考察している限りは他者の本質を考えることができないという前提で、他者について論じるのは独断的であり、普遍的とは言えない。このことは本書についても当てはまる。

ただ、本書は『存在の彼方へ』のように同じ内容を何度も繰り返しているわけではなく、独断的でありながら興味深いポイントもある。

それは、世界内の対象認識に欲望相関性を導入した点だ。

確かに私たちは普段、生きるために食べているわけではない。もちろん食べなければ死ぬことは暗々裏に了解しているが、飢饉のような非常時を除いて、そのことが前面に現れてくることはない。食べたり飲んだりすることは、それ自体が欲望対象の享受であり、ハイデガーのように、そうした世界を頽落と呼ぶことに根拠はない。これは確かにレヴィナスの言う通りだ。

ただ、レヴィナスのハイデガー評価が辛すぎることも否めない。

レヴィナスはハイデガーの「気遣い」を存在中心主義、エゴイズムと捉え、それが導く合目的性が戦争を準備したと言う。だが、事物は気遣いに相関した「道具」として現れるという直観は、そのものとして見れば、確かに優れたものだ。

コップは飲むための容器になるだけでなく、泥棒を撃退する武器にもなる。世界をそうした「~のために」の連関であるとする見方が、それまでの哲学の認識論を大きく推し進めた一歩であることは間違いない。レヴィナスは、アンチ・ハイデガーの構えが強すぎるために、ハイデガーの優れた直観を見逃してしまっていると言わざるをえない。

本書でレヴィナスは取り組むべきだったのは、ハイデガーの形而上学に別の形而上学(イリヤ、イポスターズ)をぶつけることではなく、「糧」に関する議論を展開することだったと言える。糧の意義や価値、糧と家庭の関係、糧と他者の関係、糧の社会性などのテーマは、レヴィナスの議論を引き継いで展開するだけの意義があるはずだ。