レヴィナス『存在の彼方へ』を解読する

本書『存在の彼方へ』(原題は『存在するとは別の仕方であるいは存在することの彼方へ』)は、リトアニア出身のユダヤ人哲学者エマニュエル・レヴィナス(1906年~1995年)による著作だ。1974年に発表された。『全体性と無限』に次ぐ第2の主著とされている。

本書は難解な著作だ。文庫版の訳者あとがきによれば、「バロック的」とか「暴風雨のような本」と評価されているらしい(もっとも、この評価も一見それららしいが、意味不明だ)。ただし、難解といっても、決していい意味での難解さではない。それまでの自分の世界観を上書きしてくるような原理に追いつけない難しさではなく、「この表現はさっきと何が違うのか?」を調べる間違い探しの難しさに近い。

基本の構え

反ハイデガー、反存在、反意識、反国家。

  • すでに身代わりとして差し出されてしまっている
    • 身代わりに「なる」のではなく、「召喚」されている
  • 善と責任が存在に先立つ
  • 「存在=全体性=全体主義=戦争」に反対
  • 主体性=可傷性=責任=「私を痛めつけて!さあ早く!」
  • 正義は「国家」ではなく兄弟関係にある。兄弟関係から始まる社会性

存在への我執を克服したい

レヴィナスいわく、存在することは存在への我執である。これはエゴイズムであり、戦争を呼び寄せる。それまでの哲学は全体主義に荷担していた(ハイデガーがその象徴)。なので第一に、哲学における存在への執着を無くさなければならない。そうレヴィナスは言う。

戦争とは、存在することのかかる我執を描く武勲詩ないし劇なのだ。相争うがゆえに、戦争するエゴイズム同士は一つにまとまって存在する。

存在することは、平和によって、存在することとは他なるものに転じるのではなかろうか。

「存在の彼方へ」の意味は、他者の身代わりとなること

冒頭でレヴィナスは次のように言っている。

存在とは他なるものへと過ぎ越すこと―存在するとは別の仕方で(autrement qu'etre)。別の仕方で存在すること(etre autrement)ではなく、存在するとは別の仕方で。それは存在しないことでもない。

では一体何なのか。本書の最後でこう言っている。

自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは、自分自身を担いつつも、唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。

というわけで、「存在の彼方へ」の意味は、他者の身代わりになることだ。

身代わりになる責任へと「召喚」されている

レヴィナスいわく、他者の身代わりになる責任から逃れることはできない。なぜなら他者は「兄弟」であって、私は兄弟のために責任を負うものとして「召喚」されているからだ。

〈自我〉という概念からこの私への個体化の過程で高揚が生じ、この私は「隣人のために」〔隣人の代わりに〕と化し、隣人に対して責任を負うよう召喚されるのだ。

〈他者〉に対する責任は、一切の真理、一切の確実性に先だって私を拘束し、信頼や規範に関する問いを無益な問いたらしめる。なぜなら、廉直さとしての意識は無思慮、臆見であるだけではないからだ。

責任は私の自由や意識を超えたところから到来してくる。身代わりになることは自由に先立つ。というよりも、身代わりになることが自由を可能にする。

他者に対する責任が、自由な関与から、言い換えるなら現在から流れ出すことはありえない。

他者に対する責任が、私の約束のうちで、私の決意のうちで始まったということもありえない。そうではなく、私の自由の手前から、「一切の‐思い出‐以前」から、「一切の-完成‐のあと」から、非現在の最たるものから、起源ならざるものから、起源を欠いたものから、存在することの手前ないし彼方から、私に課せられる果てなき責任は到来するのだ。

このように自由に先だつ絶対的告発が自由を構成するのだ。ただし、絶対的告発によって構成された自由は、〈善〉と結びつきつつ、一切の存在することの彼方に、一切の存在することの外に位置づけられるのだが。

他者へと召喚されていることは意識に先立つ

「でも他者へと召喚されていることは意識化できないのか?」

普通はそう思うはずだ。こうした疑問に対して、レヴィナスは次のように答えている。

とはいえ、隣人による召喚を自覚し意識化する必要があるのではなかろうか

召喚という極度の火急事は、所与の受容ならびに多様な事象の同一化に必要な「精神の現前」を急き立て、「精神の現前」を混乱に陥れる。極度の切迫―それが強迫の様態である(この様態を知ることはできるが、それが知と化すことはない)。私には、強迫に相対する時間すらない。

ただ、これでは答えになっていない。と言うより、納得させる丁寧さの代わりに、イメージの強弁で押している。論理が無いから(あるいは、論理に頼ることを放棄しているから)、せき立てるとか、時間がない、といった言い方によるしかないのだ。

責任は「善」である

いずれにせよ、レヴィナスにとって、こうした責任を担うことは何にも代えがたい「善」である。この「善」は絶対的なものであって、存在に先立っている。善は存在に先立つ責任である。これは、本書におけるレヴィナスの主張のポイントのひとつだ。

〈善〉は自由に委ねられるものではない。私が〈善〉を選び取るよりも先に、〈善〉のほうが私を選んだのである。みずからの意志にもとづいて善良である者は誰一人としていない。主体性には〈善〉を選ぶために必要な時間的猶予が与えられていない。

私が〈善〉を選択しうるよりも前に、言い換えるなら、〈善〉のこの選択を私が迎え入れるより前に、必ずや〈善〉のほうが最初に私を選ぶのだ。

再現可能な一切の先行性に先だつ先行性、記憶不能な先行性である。〈善〉は存在に先だつのだ。

主体性=可傷性=私を痛めつけて!さあ早く!

レヴィナスいわく、私たちの主体性は「可傷性」である。

可傷性と言われると難しく聞こえるかもしれないが、何のことはない。要するに身代わりになることだ。

主体性は、他人たちが為すことによって、他人たちが苦しんでいることによって告発されており、他人たちが為すこと、他人たちが苦しんでいることに対して責任を負うているのだ。自己の唯一性、それは他者の過ちを担うという事態そのものである。

主体の主体性、それは可傷性であり、触発にさらされることであり、感受性であり、いかなる受動性よりも受動的な受動性である。

苦痛の可能性とは感受性であり、感受性の本義は痛みを覚えうるという感応性である。覆いを剥がれて露出し、自己を供与し、みずからの皮膚のうちで苦しむ自己、みずからの皮膚さえ自己の所有物として有することなく、みずからの皮膚のうちに痛みを抱えること、―可傷性なのだ。

痛めつけられること=真摯さ

レヴィナスの頭のなかでは、存在することはゲームに興じることに等しい。これは楽しさを求め、自己満足に浸ることにすぎない。

その一方、存在の彼方で他者の身代わりとなって痛めつけられることは、真摯さそのものだという。享楽を絶って身代わりとなることは真摯なのだ、と。

この秩序に比すなら、存在はまさにゲームにすぎない。どんな責任をも免れた存在はゲームないし弛緩であり、そこにおいては、何の禁止も課せられることなくすべての可能事が容認される。

感受性における「他人のために」〔他人の代わりに〕は、こういう言い方が許されるなら、享受することならびに味わうことを起点として作動する。なぜなら感受性は、存在することのゲームをも含む一切のゲームに興じることなき真摯さそのものであり、この真摯さがゲームの愉楽ならびに自己満足を断つからだ。

真摯さのもとでコミュニケーションが行われる

レヴィナスにとって、コミュニケーションはこうした真摯さのもとで成り立っている。コミュニケーションは単なる情報のやりとりではない。それは、他者へと自己を「むき出し」にすることである。くどいようだが、これは要するに身代わりになることだ。

情報の流通はコミュニケーションの開口を前提としており、それゆえ、コミュニケーションの開口を情報の流通に還元することはできない。

自己を剝き出しにするというリスクのうちに、真摯さのうちに、内面性の決壊と一切の避難所の放棄のうちに、外傷への曝露のうちに、可傷性のうちに、コミュニケーションの開口は存しているのだ。

他人に対する責任と化すことによって、開口は全面的な開口となる。開口のこのような誇張、それは身代わりに行き着く、他人に対する責任であり、身代わりにおいては、他人への開示ないし顕出としての対他が、責任としての「他人のために」〔他人の代わりに〕に一変する。

「意味」は他者の身代わりになることにある

ハイデガーは主著の『存在と時間』で、私たちの「気遣い」に相関して意味が立ち現れるというような議論を行っていた。

たとえばハンマーは工作に役立つものとして意味をもつが、部屋に閉じ込められたときにはガラスを破って外に出るためのものとしての意味をもつ。ハンマーそれ自体に「物を叩くためのもの」という意味が備わっているのではなく、こちらの関心に応じてハンマーの性格が決まってくる。また、ハンマーはそれだけで意味をもつのではなく、叩くものや置き台、叩くものの目的や使い道といった連関性のうちで初めて意味をもつ、と。これは言われてみれば確かにその通りだ。

だが、レヴィナスは、意味をこのようなものとして考えることは問題だと考える。なぜならこうした意味は、結局のところ自己中心的なものだからだ、と。

なぜ〈他者〉は私と関わるのか。一体、私にとってヘキュバが何者であるというのか。私は弟の守護者なのか。これらの問いが意味をもつのは、〈自我〉は自己のことのみを気遣うということ、〈自我〉は自己に対する配慮でしかないということがすでに前提となっている場合だけである。

ハイデガー的気遣いを自己中心主義の現れとする視点は、レヴィナスの別の著作『実存から実存者へ』においても見出されます。詳しくはこちらで解説しました → レヴィナス『実存から実存者へ』を解読する

では、意味とは何なのか。それは他者の身代わりとなることのうちにある。意味は自分から発しない、他者から発するというのだ。自己中心性を否定する限り、これは当然の流れだ。

このように意味は、感受性における他人のために身代わりになる一者にもとづいて思考されるのであって、発語者にとっての言語のうちに同時的なものとして組み込まれた諸項の体系にもとづいて思考されるのではない。

〈語ること〉の意味は〈語られたこと〉の彼方に赴く。発語する主体を生ぜしめるのは存在論ではない。〈語ること〉の意味することは、〈語られたこと〉のうちで集約された存在することの彼方に赴く

責任が正義の根拠

レヴィナスは、他者の身代わりとなる責任を「社会性」と呼ぶ。存在や意識といったものは、すべてこの社会性の秩序のうちにある。

レヴィナスにとっては、社会性は「兄弟関係」である。兄弟関係は、存在の自己中心性を超え出ているものであり、全体性(=全体主義的国家)に代わる正義の根拠となる。そうレヴィナスは考えた。兄弟(=同胞)のためなら自分を進んで犠牲にすることができるはずである、という論理だ。

私たちは、「他人のためにある一者」の近さにもとづくものとして主体の有限性を捉え、この有限性それ自体のうちに、責任の卓越、責任の高さおよび意味をかいま見ている。責任とは言い換えるなら社会性であり、存在と意識という有限な真理も社会性という秩序に従属しているのだ。

正義は団塊としての人間を統御する適法性―敵対する諸力を調和させて「社会的均衡」を得るための技法がそこから引き出される―ではなく、―さもなければ、自分自身の要求のみを気遣う国家が正当化されることになろう。正義をもたらす者自身が近さに捲き込まれているのでない限り、正義は不可能である。正義の機能は、個々のケースを一般的規則に包摂する「裁きの機能」に尽きるものではない。裁き手は争いの外にいるのではない。そうではなく、法は近さの只中にあるのだ。

他者の身代わりとなりつつ、他者という隣人とともに、兄弟関係として存在すること。これが正義に適う社会性だ。

存在とは他なるものを起点として存在を了解しなけれぱならない。接近という意味にもとづいて存在すること、それは、第三者のために、あるいは逆に第三者に反対して他者と共に存在すること、自己に反対して他者ならびに第三者と共に存在することである。正義に即して存在するとは、このような仕方で存在することである。正義は、存在の彼方を見ることなき哲学と対立する。

正義が正義でありつづけるのは、近き者と遠き者との区別が存在しないような社会においてのみである。

自己中心性の発生論が必要だ

『全体性と無限』においては、レヴィナスは享受、〈女性〉と〈師〉、多産性というキーワードによって議論を行っており、自己中心性を否定する点では本書と同一だが、倫理の発生論を展開しているという点では確かに参考になる点もある(簡単に言うと、他者に対する責任が世代を通じた“バトンリレー”のうちで果たされるという希望が、いまここで他者を迎え入れる責任を果たすための条件として働く、というのがレヴィナスのポイントだ)。

だが、本書では、そうした発生論がほとんど見られず、他者の身代わりになることが必要であるという主張が手を変え品を変え繰り返されているにすぎない。それゆえ議論が深まっている印象を受けることがない。

確かに、「他者に対する責任が、自由な関与から、言い換えるなら現在から流れ出すことはありえない」という主張は、よく読めば、人間の自由は本質的にエゴイスティックなものなので、世代を通じた責任のバトンリレーの走者として「召喚」されているのでなければ他者への責任を果たすことはできない、召喚という事実が他者への責任の根本条件である、と論じているように受け取れなくもない。その感じは確かに分かるところがある。だがそのことは表象的にではなく、あくまで概念的に論じられなければならない。

原理的に言って、自己中心性と倫理の成立の条件を論じるには、発生論的な視点が必要だ。乳離れ、トイレコントロールはどう進むのか、自己愛はどう生まれるのか、反抗期はなぜ起きるのかといった、私たち一人ひとりの成長に関する実質的な考察が求められる。そのためには心理学の知見を借りつつ、自分自身の経験を辿りなおしてそのポイントを見て取らなければならない。本書におけるレヴィナスの主張に手詰まり感が否めないのは、そうした観点が無いためだ。