ライプニッツ『モナドロジー』を解読する

ライプニッツ
ライプニッツ

本書『モナドロジー』は、ドイツの哲学者ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716)の主著だ。1714年、ライプニッツ哲学の信奉者であるフランス人ニコラ・レモンの依頼を受けて書かれた。

本書には初め題名が無く、1720年、フランス語からドイツ語に訳された際、訳者によって付けられたた。

ライプニッツはスピノザと並び、合理論を代表する哲学者だ。哲学だけでなく、数学や自然科学でも大きな功績を残した。数学の微積分法をニュートンとほぼ同時期に生み出したことはよく知られている(積分記号の「∫」はライプニッツが発明したものだ)。また、学者としてだけでなく、政治家としても活躍した。

ライプニッツはスピノザと同様、ヨーロッパにおける宗教戦争後の世代を代表する哲学者だ。いかに「善」を立て直し、社会に「調和」を取り戻すことができるか。ライプニッツはこの問題に対し、思想と実践の両方から取り組んだ稀有な思想家のひとりだ。

究極単位としての「モナド」

本書のタイトルである「モナドロジー」は「単子論」とも訳される。

ライプニッツいわく、モナド(単子)とは、宇宙を形作っている究極単位のことだ。

これからお話するモナドとは、複合体をつくっている、単一な実体のことである。単一とは、部分がないという意味である。

複合体がある以上、それを複合している単位がなければならず、その単位を複合している単位がなければならず…というように進んでいき、最後に突き当たる究極単位、これがモナドだ。

モナドは何ら広がりをもっていないが、性質をもっている。というのも、もしそうした性質が無ければ、モナド同士を区別することができないからだ。そうライプニッツは言う。

おそらくここで、「広がりをもたない物質なんて果たしてあるだろうか?」と思うかもしれない。だが、ここで注意すべきは、ライプニッツはモナドを経験によらず、合理的な推論を通じて導き出しているということだ。

ある事物をとことんまで細分していけば、それ以上細分できない究極単位を見出すことができるはずである。この推論が微分法と本質を同じくしていることはきわめて明らかだ。

モナドは「表象」する

さて、ライプニッツによると、モナドは他の全てのモナドの状態を反映している。このことをライプニッツは「表象」という用語で呼ぶ。

表象は、一般的な意味では「イメージ」のことだ。何らかの像を思い描くことを、哲学では表象するという。だが、ライプニッツによる定義は、それとはかなり異なるものだ。少し見てみよう。

表象の作用には、モナド間で程度の差がある。物質のモナドは不明瞭にしか表象しないが、理性や魂のモナドは明瞭に表象する。特に人間の理性は、モナドとして、自己を知り、神を知ることができる。

モナドは究極単位であり、別のモナドからの影響は受けない。というのも、影響を受けるためには、それによって変動する部分をもたなければならないが、そうした部分はモナドには存在しないからだ。それゆえモナドは、別のモナドから影響を受けることなく、相互に独立しながら、表象を行っている。

モナドは相互に独立している。これはモナド同士が断絶しているということでもある。だがそのことは、モナドが孤独であることを意味しない。モナドには、それぞれに応じた「感受性」が備わっており、それによって世界を表象しているというのだ。

神がモナドの最高原因

ライプニッツによると、モナドは最高のモナドである「神」によって生み出される究極単位である。自然に生成したり消滅したりすることはない。

神だけが、原初的な「一」、つまり本源的な単一実体で、創造されたモナド、つまり派生的モナドはすべてその生産物にほかならない。

神はモナドの究極原因であり、完全であり限界をもたず、一切の変化の原因を含んでいる。これに対して、被造物は、神の「閃光」を受けて創造され、その点で限界をもつ、とライプニッツは考える。

スピノザと異なり、ライプニッツは明確に神を創造主として想定している。スピノザの汎神論では、神は無限な実体であり、その他は実体つまり神の「属性」とされていた。それは創造というよりも変状だ。これに対して、ライプニッツは、神はモナドを産出する究極のモナドだと考えている。これはかなりキリスト教の創造説と親しい考え方だ。

予定調和

モナドは相互に独立して存在している。だが、いくつかの種類のモナドは、対応関係のうちにある。代表的なのは、身体のモナドと魂のモナドだ。

では、それらはどのように関係しているというのだろうか。ライプニッツの主張を見てみよう。

魂のモナドは、近くにある物体のモナドを、他のモナドと比べてより判明に「表象」する。モナドは他の一切のモナドを表象しているが、近くにあるモナドのほうが、より強い影響をあたえるからだ。

そこで、魂のモナドが身体のモナドとの対応関係のうちに入ると、「動物」が成立する。

動物は、身体と魂の対応関係によって成立している。身体を離れたところに魂は存在しない。「厳密な意味での完全な死、つまり、魂が体から離れるところに成り立っている死もないのである」。

ライプニッツはここで、デカルトが『情念論』で提起した心身問題に対し、対応関係というキーワードで答えている。このライプニッツの考え方は、一般に対応説として知られている。

ライプニッツによると、身体のモナドと魂のモナドは単純に対応しているわけではない。というのも、その2つには原理的な違いがあるからだ。まとめるとこうだ。

  • 魂=目的因の法則に従う
    • 欲求、目的や手段により規定されている
  • 身体=動力因の法則に従う
    • 運動の法則(自然法則)により規定されている

たとえば、私たち人間は、空を飛びたいと思っても、飛ぶことはできない。人間の身体は空を飛ぶための構造になっていないからだ。また、徹夜したいと思っても、疲れていればどうしても寝てしまう。このように、魂と身体はそれぞれ異なる法則に従っているというのだ。

だが、魂と身体は現に対応関係のうちにある。それは一体どのようにしてだろうか。どのようにこのことを説明できるだろうか。

ライプニッツの解答は、神が魂と身体のモナドを創造したときに、あらかじめ調和的な対応関係に入るよう設定していたというものだ。このことをライプニッツは予定調和と呼ぶ。

「自然的世界」と「倫理的世界」の予定調和

ライプニッツによると、予定調和は、魂と身体の間だけではなく、あらゆるモナドについて設定されている。ライプニッツにとって、予定調和は世界それ自体の根本原理なのだ。

このことを踏まえて、ライプニッツは「自然的世界」と「倫理的世界」の間に予定調和が存在すると論じる。

人間の魂のモナドは精神である。精神は単に他のモナドを表象しているだけでなく、神の似姿でもある。その意味で、精神は神との共同関係にある。

精神と神からなる世界は、恩寵による倫理的世界であり、物理的世界との予定調和の関係にある。

倫理的世界は、先に挙げた目的因のもとにある。善い行為は必ず報われ、悪しき行為は必ず罰せられる。カントが『実践理性批判』で論じているところの「徳福一致」が保証されている世界だ。

これに対し、物理的世界は動力因により規定されている。それゆえ物理的世界においては、徳福一致は実現されていない。

しかし、ライプニッツによると、だからといって希望を捨てるのは間違いだ。なぜなら物理的世界は倫理的世界との予定調和のうちにあるからだ。

だから私たちにとっての問題は、ただ自分の義務を果たし、「神の摂理」を信じることだ。そうすれば、この宇宙の秩序が最善であることが分かるだろう。というのも、神がこの秩序を選んで創造したのは、それが最善であるからにほかならないからだ。

神はそれを知恵によって知り、善意によって選び、力によって生み出す。

モナドロジーの動機

スピノザの場合と同じく、本論を現代の自然科学の観点から批判するのは生産的とは言えない。また、それと反対に、モナド説を自然科学の知見に対抗させるのも強引だ。カントが『純粋理性批判』で論証したように(第2アンチノミー)、絶対的な最小単位が存在しているわけではないからだ。

単位は関心と目的に応じて規定される。経験に先立ってあらかじめ規定されているわけではない。ライプニッツの議論は、まさしく経験論にならって、独断的ということができるだろう。それは普遍的な確かめ直しの可能性をもたない独自の仮説にすぎない。合理的な推論から導かれた世界観ではあるが、その前提に必然性はない。

だが、ここで着目したいのは、ライプニッツがそうした主張を行った動機のほうだ。

三十年戦争によってドイツは荒廃をきわめた。人口は四分の三を失い、農業、商業は壊滅し、社会のモラルは失われた。だが、社会を立て直すために、もはや宗教的な物語を利用することはできない。なぜならそれこそが社会の荒廃を引き起こした本質的な理由だからだ。

そこでライプニッツは、キリスト教の宗派対立を調停するという道へと進んだ。一切の事物を分解していくと、究極単位であるモナドに至らざるをえない。このモナドの創造主を神と見なせば、世界は調和的な秩序であることが明らかになる…。この洞察は、それ自体としては妥当とは言いがたいが、そうした洞察の背景にある動機については、一定の了解をもつことができるはずだ。