キルケゴール『死に至る病』を解読する

キルケゴール
キルケゴール

『死に至る病』は、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴール(1813~1855)の主著だ。1849年に出版された。

キルケゴールは実存哲学の創始者として知られている。実存と言われてもピンと来ないかもしれないが、その意味は要するに、他の誰とも取り替えがたい「私」のことだ。

キルケゴールの場合は、当時のヨーロッパ哲学を席巻していたヘーゲルと対比するとイメージしやすい。

キルケゴールには、ヘーゲルの議論は現実を論理的(=弁証法的)に説明するものだという直観があった。現実は論理に従って、つつがなく進んでいく。そのプロセスを記述するなかで、いまこの現実を生きている「私」は、体系のうちへと回収され、類型化されてしまう。キルケゴールからすれば、ヘーゲルからは、具体的な状況において決断を行ったり、そこから逃避したりする「私」のありようが抜け落ちてしまっているのだ。

もっとも、キルケゴール的なヘーゲル批判は、そう妥当であるとは言いがたい。ヘーゲルにも実存論的な構えはあるからだ。だが、理想と現実の狭間で揺れ動く自己に着目し、描き出したのは、キルケゴールの大きな功績だと言っていい。

人間は自分自身を問題とするような関係である

第一編の冒頭で、キルケゴールは次のように言う。

人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。

自己とは精神であり、関係であり、関係が関係に関係するということである。おそらくこう言われても、まるで訳が分からないのではないだろうか。だが、ここで言われていることは、見た目ほどには複雑ではない。

キルケゴールによれば、自己とは関係である。ただ、ここでいう関係は、自分自身に関係するということを指している。関係は、それゆえ自己は、物体のように、単にそこに存在しているのではなく、自己自身を問題とする作用として、つねに自分自身に関わりつつ「ある」。そうした絶えざる作用、動きとして、キルケゴールは自己、すなわち人間を規定するのだ。

ただし、キルケゴールの観点からすれば、人間はあくまで神の前の単独者にすぎない。

人間は第三者、すなわち神によって措定され、自己に関係することを通じて神に関係する。自己はみずからに関係すると同時に神に関係することによってのみ、均衡と平安に達することができる。そうキルケゴールは言う。

キルケゴールは、単に自己に関係しているとき、自己はみずからが神の前の単独者であることを見失っていると論じたうえで、そうした状態のうちに落ち込んでいることを、絶望と呼ぶ。要するに、キルケゴールにおける絶望は、自己の本当のあり方から離れてしまっていること、そこから抜け出てしまっている「私」の存在のことを意味している。

絶望そのものに着目する

さて、キルケゴールによると、絶望は、それが意識されているかどうかが決定的な意味をもつ。自己のあり方に関する態度決定が、自己の本質であるという立場からすれば、それは自然なことだ。

キルケゴールは初めに、絶望そのものに着目し、その後、意識との関係において絶望を規定する。そこで、まずは絶望そのものの規定について見ていこう。

キルケゴールは、絶望を無限性と有限性、可能性と必然性という二つの軸を置き、両方の観点から論じている。

無限性の絶望――「想像的なもの」

無限性の絶望は、「想像的なもの」と規定される。キルケゴールは次のように言う。

無限になったつもりでいる人間の生き方、あるいはただ無限でのみあろうと欲する人間の生き方はすべて、いや、人間の生き方が無限になったつもりでいるかあるいはただ無限でのみあろうと欲する瞬間瞬間が、絶望なのである。

キルケゴールのいう「想像的なもの」は、日常的な言葉では「空想」に当たる。私たちはしばしば、自分に与えられた状況から逃避するような仕方で別の自分を空想することがある。もし億万長者だったら、もし美人だったら…というように。

確かに想像は、私たちに生の可能性を示してくれる。もし私たちが何も想像することができなければ、いま、ここを単に生きることしかできない。それはきわめて貧弱な生だと言わねばならないだろう。だが、想像が現実から遊離して「空想化」すれば、それは、自分が本当になすべき事柄、直面すべき状況から、私たちを引きはがしてしまう。

もっとも、キルケゴールからすると、私たちが本当に直面すべき対象は、神にほかならない。この主張は確かに言い過ぎだが、空想についての描写については、私たちにも納得できるところがあるはずだ。

有限性の絶望――「騙り取り」

有限性の絶望は「騙り取り」と呼ばれる。無限性の絶望は現実から遊離した無限のうちへと落ち込むことだったが、有限性の絶望は逆に、現実のうちへと落ち込むことを意味している。

ただし、ここでいう現実は、神の前の単独者であるということではなく、いわゆる世間のことだ。キルケゴールは次のように言う。

有限のうちに落ち込む絶望は、自己を世間に「騙り取らせる」。その結果、ひとは自己自身であろうとするのではなく、他の人びと同じにしているほうが気楽で安全だと思い込んでしまう。

世間は知的、「美的」な偏狭さに無限の価値を与え、唯一の必要なもの、すなわち神への理解をもたず、自己自身を失っている。しかし、こうした絶望に対して世間は気づいていないし、それゆえにこそ世間の人びとは器用に立ち振る舞うことができるのだ。

可能性の絶望――「いまある自己」を欠く

可能性の絶望は必然性、すなわち「いまある自己」を欠くことだ。これはどういうことだろうか。

キルケゴールは言う。自己自身になることは、その場所での運動だ。いまある自己、つまり必然性のうちにおいてのみ、自己は自己自身になることができる。それは可能性と必然性の統一の実現にほかならない。自己の必然性を了解し、これを引き受けない限り、自己はいつまでも可能性のうちをさまよい続ける、と。

可能性の絶望は、初めに見た無限性の絶望と、基本的には同じ側に位置づけられる。現実からの遊離、自己の空想化がここでのポイントだ。

必然性の絶望――「あるべき自己」を見失っている

必然性の絶望は、可能性、つまり「あるべき自己」を見失っている状態のことだ。

キルケゴールによると、必然性の絶望は、決定論あるいは宿命論の形を取って現れる。決定論は、一切は必然的とする見方であり、宿命論は、一切が日常茶飯事であるとする見方のことだ。

自己は、いまある自己のうちに留まり、あるべき自己へ向かうことができない。それゆえ、神に直面している自己を見出すことができない。

だが、神にとっては一切が可能であるということ、そのことを信じるか、信じようと欲するかということ、これらのことが、いかなる可能性も存在しない、ぎりぎりのところで決定的な意味をもつ…。

人間的にいえば、救済は何よりも不可能なことである。しかし、神にとっては一切が可能なのである!これが信仰の戦いである、それは、いうならば、可能性をうるための狂気の戦いなのである。というのは、可能性のみが唯一の救いだからである。気絶した人があると、水だ、オードコロンだ、ホフマン滴剤だ、と叫ばれる。しかし、絶望しかけている人があったら、可能性をもってこい、可能性をもってこい、可能性のみが唯一の救いだ、と叫ぶことが必要なのだ。

信じることは理性を放棄することである。その意味でそれは自己の破滅である。そのことを知りながらなお可能性を信じること、これが信じるということだ。その意味で、可能性は絶望に対する「解毒剤」にほかならない。だが、俗物根性は精神を欠いているので、神に気づく可能性をもたない。俗物は自己自身と神を失っているのだ。そうキルケゴールは言う。

絶望を意識との関係で着目する

キルケゴールによると、絶望の程度は、絶望がどれほど意識されているかによって定まる。というのも、絶望の自覚に応じて、私たちが自己に対して取る態度、自己を選択する仕方が変化してくるからだ。

そこで、キルケゴールは次に、絶望を意識との関係において論じる。ここでのポイントは、弱さの絶望と「閉じこもり」だ。この2つは、絶望していることを自覚しているが、自己に直面せず、あるべき自己から逃避することによる絶望のあり方を指している。

弱さの絶望

キルケゴールは次のように言う。

全くの直接性においては、絶望は自己の外から到来してくるものと考えられていた。だが、弱さの絶望においては、絶望が自己自身から由来することを知っている点で、直接的な絶望とは異なる。

しかし、自己は、一切の直接性を捨てる段階にはまだ達していない。ここでは、直接的な自己と異なり、別の人間になりたいわけではない。居心地が悪くなると自己から避難し、ときどき自分自身に帰ってきて、困難が過ぎて変化が生じたかどうかを確認する。だが、変化が起こらないときは、内面へと向かうかわりに、現実の生活に戻り、内面の問題を無いものとしてしまう。

弱さの絶望のうちにあるとき、自己は、自己自身を引き受けようとすると現れてくる様々な困難の前でおじけづく。可能性が何であるかに関する了解はもちつつも、自己をそれに対して賭けるのが恐いので、世間的な基準に合わせて「ぐずぐず」と生きてしまう。そのようにキルケゴールは考えるのだ。

閉じこもり

一方、「閉じこもり」は、神に対する自己の弱さを積極的に意識することで現れてくる絶望のあり方だ。キルケゴールによると、ここでは、絶望が自己自身に由来することは意識されるが、自己を自己と認めることができず、信仰によって自己を再び手に入れようとはしない。

弱さの絶望では、自己は自己自身を世間の側に合わせる。閉じこもりでは、それは世間に身を任せて内面性を失うことにほかならない。したがって、信仰によって神に直面する代わりに、直接性を軽蔑し、世間に対して距離を置くのだ、と論じる。

罪としての絶望

以上のように、神についての意識をもちつつも、なお神に向き直ろうとせず、あるべき自己から逃避していることを、キルケゴールは「罪」と呼ぶ。

キルケゴールは、罪は、それが神の前にあるからこそ罪であると論じる。キルケゴールによれば、神の前にあるかどうかに関係なく罪は罪であるという主張は誤りである。罪、そして自己が神の前にあるからこそ、罪は罪である。そして、この罪から抜け出るには、神への絶対的な信仰が必要であるとキルケゴールは考える。

この意味で、キルケゴールは罪を積極的なものとして評価する。つまり、罪は弱さや無知といったもの、あるいは、概念的に解消される対象ではなく、思弁を越えて、ただ信じられるべきものである。しかし、キリスト教世界は、そのことを見落として、ヘーゲル的な議論に毒されて、罪を概念的に把握しようとする試みがまかり通っている。キリスト教的なものが乱用されているのだ。そうキルケゴールは言う。

ちょうどそれと同じようなことが、キリスト教について―信仰厚い牧師たちによって、口にされているのである。つまり、彼らはキリスト教を「弁護する」か、それとも、キリスト教を「理由」に翻訳するかしているのである。そればかりか、同時におこがましくも、彼らはキリスト教を思弁によって「概念的に把握し」ようとしているのである。

キリスト教界は、人間は罪人であるという規定を概念的に論じることによって、そこから不安の要素を抜き取り、私たち人間が理解できる範囲へとキリスト教を落とし込んでいる。しかし、神と人間の間には、本質的な差異がある。そして、その差異ゆえにこそ、罪を概念的、一般的に論じることはできない。だが、このことを多数の信者は信用しようとせず、牧師の言うことに従うことで無難に過ごそうとしている。こうした結託が行われているキリスト教界は、むしろ異教的なものだと言わなければならない。そのようにキルケゴールは論じる。

人々は、異教徒でも知っていたような種類の罪しか知らず、そして異教的な安心のうちに幸福にここちよく生きているのである。

理想と現実をめぐる自己の物語

自己は神に直面する単独者であり、そうした自己からの「墜落」が絶望である。こうしたキルケゴールの主張は、それ自体として見れば、普遍性をもたない一個の物語であると言わざるをえない。

しかしここには、とりわけ私たちが青年期において、自己なるものに対して取りうる態度の範型が、切実さをもって描写されている。

私たちは、何らかの絶対的な理想に直面して立ちすくみ、おじけづくことがある。または、これをやりすごして世渡り上手になったり、世間を無化してただ自己の意識のうちで理想に到達しようと試みたりとすることもある。

中世であれば、こうしたことは問題とはならなかった。なぜなら、そこでは、素直に信仰することが求められていたし、それ以外の道はなかったからだ。しかし、自由の自覚が進んだ近代においては、もはや素朴に信仰することはできない。絶対的な価値の根拠としての神を、何の迷いもなく信仰できる時代ではないのだ。

確かに私たちは、いまある自己とあるべき自己、理想と現実の選択をめぐる「危機」を普段から生きているわけではない。だが、そうした「危機」は、絶対的な価値の根拠を喪失した近代にとって特有の問題だ。だからこそ、本書におけるキルケゴールの議論が神を中心に進んでいるとしても、私たちはそこに深い洞察を見いだすことができるのだ。

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