イェーリング『権利のための闘争』を解読する

「闘争のうちでこそ権利を見出すべし」
「闘争のうちでこそ権利を見出すべし」

本書『権利のための闘争』は、ドイツの法哲学者ルドルフ・フォン・イェーリング(1818年~1892年)による著作だ。ウィーンでの講演録をまとめたもので、1872年に発表された。

本書のポイントをひとことで言うと、大体次のような感じだ。

正当防衛権を除く私たちの一切の権利は、敵対勢力との闘争を通じて勝ち取られたものだ。このようにして勝ち取られた権利の核心には権利感覚がある。もし私たちが権利感覚を失ってしまえば、権利は形骸化してしまい、効力を失ってしまう。したがって権利感覚の涵養が国民の政治教育にとって重要だ。

世界中のすべての権利=法は闘い取られたものである。重要な法命題はすべて、まずこれに逆らう者から闘い取られねばならなかった。また、あらゆる権利=法は、一国民のそれも個人のそれも、いつでもそれを貫く用意があるということを前提としている。権利=法は、単なる思想ではなく、生き生きした力なのである。

サヴィニーの法学に反対

フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー
フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー

イェーリングによれば、『権利のための闘争』を著した当時の近代法学では、サヴィニーの法学が優勢だった。サヴィニーは現代の民法の基礎を築いたドイツの法学者だ。

そのサヴィニーに対してイェーリングは次のように反論する。

サヴィニーは、一切の法権利は言語法則のようにみずからの論理にもとづいて展開し、それにともなって何が正しいかについての確信が自然と人びとの間で共有され、行為に移されるようになる、と主張する。

しかしそれは部分的にしか正しくない。なぜなら本質的に法権利は、それに内在するような法則ではなく、勢力間の利益闘争によって定まる方向へと進んでいくようなものだからだ。

したがって法権利を単純な論理的・抽象的法命題の集まりとする見方は、法権利の現実を適切に捉えていない。

長い年月の間には、無数の個人やあらゆる身分の利益が既存の法と固く結びつくものであって、これらの利益を著しく侵すことなしに既存の法を廃止することは不可能である。

そのような試みはすべて、脅威に曝された諸利益の自然な自己保存本能によるはげしい抵抗を誘発し、闘争を不可避ならしめる。他のすべての闘争におけると同様にこの闘争においても、物を言うのは理窟ではなく対立する両勢力の力関係であり、あたかも力の合成の場合のように、最初の方向ではなく平行四辺形の対角線の方向にカが走ることも稀ではない。

法権利の主張は1人ひとりの「義務」

続けてイェーリングは、法権利の侵害に対する抵抗は個人の趣味ではなく、私たち1人ひとりに課せられた義務であると主張する。たちあがれ国民たち、というわけだ。

私たちは自分の権利を明らかに侵害されたとき、それに対して抵抗しなければならない。これは個人的な趣味の問題などではない。そうした見方は権利の本質を見誤っている。

個人または国家全体に対してであれ、人格を侮辱するような仕方で行われる権利侵害に対する抵抗は、私たち1人ひとりの義務なのだ。

それはまず自分自身に対する義務である。私たち人間にとっては倫理的に生きることも重要であり、そのための条件は権利を主張することだ。

確かに一般の人は所有権などについての法律的な知識はもっていない。しかしそういった権利が自分の倫理的な生にとって重要であることを、人びとは倫理的苦痛によって感覚的に了解している。この倫理的苦痛が人びとをして倫理的自己保存へと立ち上がらせるのだ。

肉体的苦痛が肉体的自己保存の義務を果たせと警告するように、倫理的苦痛は倫理的自己保存の義務を果たせと警告する。

また、私たちの人格は労働を介して権利と結びついている。私は労働をつうじてモノを所有するようになり、そのモノに私の人格を刻みつけるからだ。それゆえ私の所有を侵害することは、私の人格を否定するに等しい。この人格の否定こそ、私たちが権利の侵害に対して抵抗しなければならない根本の理由だ。

たしかに利益が法権利の本質であることは否定できない。だが権利の問題を物質主義とする見方は妥当ではない。なぜなら労働と所有権の関係を打ち立てるための闘争は、決して物質主義的なものではないからだ。

人びとは、そこで生じる苦痛感覚ゆえに、自分が物質主義のうちへと落ち込んで不健全であったことに気づき、この苦痛をもとにして権利感覚の存在を自覚するようになる。この権利感覚が人びとに一切の打算を忘れさせ、「理念の高み」へと向かわせるのだ。

訴訟を例に取ろう。権利が侵害されたとき、たとえ訴訟によって生じる犠牲がそれによって得られる利益よりも大きいことを分かっていながら訴訟を行うような人びとがいる。もし権利が純粋に利益の問題であればそうしたことは起きないはずだ。にもかかわらずそうした人びとが数多くいるという事実は、みずからの人格と権利感覚を示すために行われるような訴訟が行われていることを裏付けている。

このように、法権利は利益を度外視した「品格」にかかわる問題である。その意味で、法権利とは「品格の理想主義」なのだ。

きわめて逆説的に聞こえるかもしれないが、権利=法とは理想主義である。それは空想の理想主義ではなく、品格の理想主義である。つまり、自分を自己目的と考え、自分の核心が侵されるときは他の一切を度外視する者の、理想主義である。

次に権利の主張が国家共同体に対する義務である理由について見ていこう。

その理由は、個々の人格における具体的な権利が、抽象的な法から生命と力を受け取るだけでなく、抽象的な法にお返しをするのだという点にある。

国民は個人の総和だ。個人が行為するように国民も行為する。それゆえ各個人のための闘争が積み重なっていくことで、国民および国家の権利は実現へと向かっていく。

したがって、私法においても他の法においても全国民が団結して闘争しなければならない。そこでは誰もが法権利を防衛する任務を負っている。私たちは誰もが権利を主張すべき生まれながらの「戦士」なのだ。

恣意・無法という九首の蛇が頭をもたげたときは、誰もがそれを踏み砕く使命と義務を有する。権利という恵みを受けている者は誰でも、法律の力と威信を維持するためにそれぞれに貢献せねばならぬ。要するに、誰もが社会の利益のために権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。

健全な権利感覚を養成しなければならない

以上の議論を踏まえて、イェーリングは、国民の権利感覚を育てることが政治教育の重要なポイントだと論じる。

国家が内外において安定性を得るためには、国民の権利感覚を保護し育成することが最も重要な課題だ。そのためには、私法だけでなく法の全分野において法律を確実・明確化し、健全な権利感覚に反するような法律をできるだけ取り除き、権利の侵害にそなえて裁判所および訴訟制度を万全に整備しておかなければならない。

国家が国民の権利感覚を十分に発達させ、それによって国家自身の力をも完全に発展させるためには、次の道をとるしかない。すなわち、私法ばかりでなく警察・行政・租税立法を含めた法の全分野で実体法を確実・明確・確定的なものとし、健全な権利感覚に反するすべての法規を除去するとともに、裁判所の独立を保障し、訴訟制度をできるかぎり完全に整えることである。

闘争は「美しい」

最後にイェーリングは、いまでは哲学者よりは教育学者として知られるヘルバルトの法理論を批判する。イェーリングは次のようにいう。

ヘルバルトは法の究極原因を利害に関わる紛争に対する不快感にあると考えていた。しかし事態はむしろ真逆だ。法の場合は、権利が闘争を通じて成立することに美しさがあるからだ。

闘争それ自体が美的なのだ。闘争が美しくないと感じるような者はいったいどこにいるのだろうか?

強烈な要請論

ウジェーヌ・ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』
権利のために立ち上がるのよ(?)

イェーリングのポイントは、権利の本質は権利感覚にあること、権利感覚は権利侵害に対する抵抗のうちで育まれること、そして権利侵害は人格に関わる問題なので、抵抗は私たち1人ひとりの義務であること、この3点にある。

イェーリングの議論は、そこに彼個人の趣味が入り込んでしまっているため、原理の強度という点ではかなり弱い。単純に考えても闘争を美しいと感じるかどうかは個々人による。闘争はエゴイズムの衝突であり醜いと思う人がいても、まったく不思議ではない。

同様に、労働から得られる所有が健全であり、投機によって得られる所有が不健全だとする見方も、同感する人もいればそうでない人もいるような性質のものだ。法権利の侵害に対する抵抗は純粋な義務であるというのも根拠がない。つまるところイェーリングは本書で「権利を侵害されている国民よ、いまこそ権利の蹂躙に抗して立ち上がれ」と命じているにすぎないのだ。

イェーリングの議論は、彼自身が言っているように、一種の理想主義だ。しかし理想状態から議論を行うことは方法論的に転倒している。なぜなら、仮にその理想に普遍性があるとしても、そのことは徹底的な吟味を通じて初めて了解することができ、これを共有することができるからだ。