ヤスパース『哲学入門』を解読する

カール・ヤスパース
カール・ヤスパース

『哲学入門』は、20世紀ドイツの哲学者・精神病理学者のカール・ヤスパース(1883年~1969年)による著作だ。没後、1971年に発表された。

ヤスパースは多くの著作を残したが、なかでも本書はヤスパースの代表作のひとつとしてよく知られている(他の代表的な著作としては『精神病理学研究』『世界観の心理学』などがある)。

本書でヤスパースは、実存主義的観点から哲学について論じている。哲学とは何であるか、哲学は何を論じなければならないか、真の生き方は何であるか。これが本書の主なテーマだ。

世界史に「枢軸時代」という観点を導入したり、「限界状況」といった興味深い概念を示していたりするものの、原理的な観点からすると、本書に見るべきところはほとんどない。

ヤスパースの実存=本来の存在(つまり神)へと立ち返ること

ヤスパースは実存主義を代表する哲学者として知られている。

実存と聞いてもピンと来ないかもしれない。歴史上、この概念は、様々な哲学者が色々な意味で用いているので、辞書的な定義をしても分かったようで分からない。

おそらく一番有名なのはハイデガーの定義だろう。ハイデガーは『存在と時間』の冒頭で、実存を「私たち人間のあり方」という意味で規定している。私たちは事物とは異なる仕方で存在している。このことを実存という概念で呼ぼう。そうハイデガーは言っていた。

では、ヤスパースのいう実存はどのようなものだろうか?ひとことで言うと、神へと徹底的に立ち返ろうとする態度のことだ。

私たちがふつうに生きている状態は、自己忘却の状態だ。実存とは、そうした状態から脱出し、私たちが「包括者」(本来の存在、つまり神)によって生きているということを知るために、神へと徹底的に立ち返ることだ。

よく実存主義は構造主義に対置される。しかし私たちが外部から規定されていると見なしている点で、両者はむしろ共通している。

「哲学は役に立たない」

初めにヤスパースは、哲学とは何であるかについて論じている。

ヤスパースいわく、哲学の本質は、ただひたすらに真理を探求し続けることのうちにある。

これまで哲学は、科学至上主義者たちから、普遍的な成果を持たないと批判されてきた。

なるほど確かに、科学の領域では、人びとが一般に承認するような知が獲得されてきた。それに対して、哲学ではそうした普遍的な知が達成されたことはない。と言うよりも、そうしたものが得られると考えること自体が誤っているのである。

端的に言って、哲学の本質は、真理を探求することのうちにある。それは「途上にあること」、言い換えると、終わりのない努力なのであって、このことは真理を手にすることよりも価値あることなのだ。

科学と異なって、哲学の形態をとるかぎり、どんなものにも万人の一致した承認というものが欠けているという事実は、哲学という事柄の本性のうちに存しなければならないことであります。

哲学の本質は真理を所有することではなくて、真理を探究することなのであります。哲学とは途上にあることを意味します。哲学の問いはその答えよりもいっそう重要であり、またあらゆる答えは新しい問いとなるのであります。

科学は、哲学は役立たないと批判する。しかしその批判は的を外している。なぜなら哲学は困難に直面したときに役立つようなものではないし、他の何かに弁護されるほど、役に立つものではないからだ。哲学はそもそも役立たないものなのだ。

哲学は何のために存在するのか。哲学は困窮の場合には役に立たないものであります。

そこで哲学は弁護されねばならないわけでありますが、それは不可能なことであります。哲学はある他のものから弁護されるわけにいかない。と申しますのは、哲学はある他のものにこのような弁護をしてもらうほど、何の役にも立っていないからです。

自虐的に聞こえるかもしれないが、ヤスパースは本気でそう考えていたのだから恐ろしい。

哲学の意義は「交わり」にある

哲学は何の役にも立つことはできない。にもかかわらず哲学が存在する理由は何だというのだろうか?

これについてヤスパースは、哲学の意義は、真の意味で私たちの間に交わりKommunicationを可能にしてくれる点にある、という。

哲学において獲得される確実性は、科学的な性質のもの、換言しますと、どの悟性にとっても同様な性質の確実性ではなくて、それが成功した場合に人間の全本質が参加してともに語りあうことができるといったような確認(Vergewisserung)なのであります。

あらゆる哲学は伝達への衝動をもち、自己を語り、傾聴されることを欲するということ、すなわち哲学の本質は伝達可能性そのものであり、またこの伝達可能性は真理存在から離すことのできないものである

私は諸君に向って、哲学的な根本的態度の思想的な表現についてお話ししているのでありますが、この哲学的な根本的態度というものは、交わりが失われていることによる困惑のうちに、本当の交わりへの衝動のうちに、自己存在と自己存在とを根底において結合するところの愛の闘争の可能性のうちに、根ざしているのであります。

哲学の根源

次にヤスパースは、哲学の根源について論じる。ここでヤスパースのいう根源とは、歴史的な意味ではなく、私たちがひとりひとりが“哲学する”ようになる条件のことを指している。ヤスパースによれば、そうした条件としては、およそ3つの動機がある。

1.驚き

第一は「驚き」だ。私たちの認識は驚きにもとづいて始まる。しかもそれは「何らかの日常的な必要のため」ではなく、知そのものを求めた認識である。

哲学は「驚き」から始まるという言い方は、いまやありふれたものとなっている。子どものちょっとした表現(「なんでわたしはうまれてきたの?」的なもの)にこそ真の意味での哲学の始まりがある、とされることもよくある。

しかし、そもそも認識は驚きによって始まるのだろうか?それは結局のところ検証不可能だ。それはひとつの要因かもしれないが、決定的とは言いがたいし、仮にそうだとしても、そのことは仮説的にしか提示できない。

2.疑い

次は「疑い」だ。自分自身の認識を批判的に吟味するとき、確実なものは無くなってしまう。では、どのようにして確実性の地盤を得ることができるのだろうか?

3.衝撃的な動揺

方法的懐疑は外部の対象に向かうものだ。ただし、ここで私たちが自分自身を意識すると、事情は変わってくる。

私たちは外的な状況を変えることはできるが、自分が死ななければならないとか、偶然の手に委ねられていることを変えることはできない。これを私は限界状況Grenzsituationと呼びたいと思う。そうした限界状況もまた哲学の根源だ。

私は死なねばならないとか、私は悩まねばならないとか、私は戦わねばならないとか、私は偶然の手に委ねられているとか、私は不可避的に罪に巻きこまれているなどというように、たとえ状況の一時的な現象が変化したり、状況の圧力が表面に現われなかったりすることがあっても、その本質においては変化しないところの状況というものが存在します。私たちはこのような私たちの現存在の状況を限界状況(Grenzsituation)と呼んでいるのであります。

挫折の深さが“人となり”を決める

しかし私たちはそうした限界状況から目をそむけてしまい、ささいな日常生活へと落ち込んでしまっている。私たちは、そうした自己の意識を変革することによって、「自分自身になる」のだ。

そうして私たちが限界状況に直面すると、私たちはそれを乗り越えることができないということを理解し、絶対的な挫折を経験するのだ。

限界状況に直面したとき、私は挫折するほかない。しかし問題なのは、その挫折に対する態度にある。挫折を覆い隠し、「空想的な解放」を得るか、それとも限界状況の前で「沈黙して正直にそれを引き受けるか」、これが人としてのあり方を明らかにするのだ。そうヤスパースは言う。

人間が自己の挫折をどのように経験するかということが、その人間がいかなるものとなるかということを立証するのであります。

要はヤスパースは、家事や日常の仕事に忙殺されていることよりも、非日常的な限界状況に挫折し、その前で沈黙していることのほうが人間的に素晴らしい、と主張するわけだ。しかしこれはずいぶんと特権的で偉そうな言い方ではないだろうか。一般性を欠いた、あまりに特殊な価値判断のように私には見えるが、どうだろうか?

本当の動機は「交わり」への意志

ただし、ヤスパースによれば、それらの動機によっては不十分だ。もう一つ必要な条件がある。それが「交わり」だ。

ヤスパースにとって、「交わり」とはただのコミュニケーションのことではない。

交わりとは、「強情な私の自己主張を放棄」することで可能となる、他者との真なる相互理解のことだ。

私は「交わり」によって、他者と互いに接近して「本来の存在」を確認する。交わりを通じて一切の真理は実現される。ここにおいてのみ私は自分の生を充実させ、「本当の意味において自己自身となる」のだ。

存在とは「包括者」だ

次にヤスパースは、では「本来の存在」とは一体何か、という問題を立て、これに答えようとする。

一応言っておくと、「本来の存在」などというものはない。そんなことを言い出すと「これが本物だ」「いやこれこそが」という不毛な対立を生み出すだけだ。

包括者が「分裂」して主観と客観が現れてきた

ヤスパースによれば、唯物論と唯心論のように、今日に至るまでさまざまな世界観が対立してきたが、それらのいずれとして自分が真理であることを証明できたものはない。その理由は、それらの世界観が存在を「客観」として捉えている点にある。主観と客観の分裂ゆえに世界観の対立が生じるのだ。このようにヤスパースは言う。

これらの見地は存在を、対象として私に対立するあるものとして、すなわち私に対立する客観としてそれを思念することによって私がそれに心を向けているところのあるものとして、とらえる

私たちの思惟する現存在のこういう基礎的状態を私たちは主観=客観の分裂と呼びます。

ここでヤスパースは、存在は客観なのではなく、《包括者》であらねばならないという、かなり変わった説を打ち出す。

存在は全体として主観でも客観でもない。それはむしろ「包括者」であり、これが分裂して私たちに現象しているのだ。

存在は全体としては客観であることも、主観であることもできないで、むしろ《包括者》であらねばならないということ、そしてこの包括者が分裂して現象となって現われるということは明瞭であります。

まったくもって明瞭でないが…要するにこういうことだ。

私にとって客観となるものは、この包括者のうちから私のほうへと向かってくる。また、私は包括者のうちから出て自我となり、対象を客観としてとらえる。包括者それ自体は対象とならない。それは「自我と対象との分裂において現象となって現われる」のだ。

包括者はただ「名のり出る」だけだ。しかしそれは私たちに「本来的に存在するものを聴く能力」を目覚めさせる。

包括者とは、要は神のこと

ヤスパースのいう包括者は一見不可解だが、要は神のことだ。「神だ!」と言ってしまうと身もフタもないので、あえて分かりにくい言葉で表現しているにすぎない。

また、この包括者こそ、ヤスパースが「超越者」と呼んでいるものだ。

包括者は、存在それ自体として考えられたときは、超越者(神)および世界と呼ばれる。

私たちは実存として、神に関係している。この関係を明らかにしようとする試みが形而上学だ。形而上学では、現実を「暗号」として読み取ることで、包括者の声を聴こうとする。包括者を、思考で捉え、言葉で言い表せるようなものとしてではなく、覚知する(悟る)こと。実にこれこそが哲学の本来のあり方にほかならない。

神の「存在証明」ではなく「存在確認」

ここで当然「では、本当に神はいるのか?」という疑問が浮かんでくる。ヤスパースもデカルトと同様、神の存在証明をしようとするのだろうか、と思うかもしれないが、実はまったくそうではない。なぜならヤスパースいわく、そもそも神の存在は証明されるものではなく、ただ信仰によって確認できるにすぎないからだ。

神の証明は、実際においては、科学的な証明とは異なった意味をもっているのです。それは人間から神への飛躍の経験による思惟の確認なのであります。

神はけっして知の対象ではない、神は強制的に推論せられない、ということがたえず明らかになるのであります。そればかりでなく、神は感覚的経験の対象ではありません。神は不可視的であります。それは目に見ることのできないものであって、ただ信仰せられるだけであります。

ヤスパースは次のようにさえ言っている。私たちは必然的に神を信仰せざるをえない、なぜなら私たちの認識作用に認識内容を与えてくれるのは結局のところ包括者、つまり神にほかならないからだ、と。

思惟が頼りとするところのこれらの前提はどこからくるかということは、結局認識不可能なのであります。これらの前提は包括者のうちにその根源をもっています。そして私たちはこの包括者によって生きているのです。

共有可能性がほとんどない

包括者、超越者、神。多少のニュアンスの違いはあれ、この3つはヤスパースにおいてほとんど同じ意味で使われている。いずれにしても、きわめて恣意的な定義しか与えられていないので、共有可能性はほとんど存在しない。これは概念の難解さというよりも、むしろ空疎さによるものだ。

包括者=超越者=神

「包括者つまり神を悟ることが哲学の本来の姿である」。言い換えると「俺の哲学こそ真の哲学なのだ」ということだが、これが正当でないことは歴史が証明しているとおりだ。哲学の歴史上、ヤスパース以外に包括者という概念を使ったひとはいない。これはつまり、包括者という概念に共有可能性がほとんどないことの裏返しでもある。

自由なのは神のおかげ

神は知の対象ではない。神は、私たちが自由を実感するときに、「ああ!私が自由なのは神のおかげだ」というように、信仰を通じて確認されるものだ。私たちは自分自身で独立しているのではない。独立と見えるのは神への依存があってこそだし、私が何かを自由に決断できるのは、神の導きがあってこそだ。そうヤスパースは言う。アホくさく聞こえるかもしれないが、ヤスパースは本気でそう考えている。

それではこの信仰はどこからくるのでしょうか。それは根源的には世界経験の限界から出てくるのではなくて、人間の自由から出てくるのであります。自己の自由を本当に悟る人間が、同時に神を確認するのです。自由と神は不可分のものであります。なぜでしょうか。私が自由である場合、私は私自身によって存在するのではなく、私は私に授けられているのであるということを、私は信じて疑わないのであります。

知の限界を知ることによって、それだけ明確に私たちは、自由が神に関係しているかぎり、私たちが私たちの自由のために、自由そのものによって見いだすところの導きを信頼するのであります。

自由であればあるほど神の存在は確実となる(神は悟性的に証明されるものではない)。この確実性は、神と根源的・直接的に関係することのうちで、すなわち実存的に生きることによってのみ得ることができる、とヤスパースは言う。

歴史とは

ヤスパースによると、私たちが自己確認を行うためには、歴史が最も重要な役割を果たす。その理由は、歴史は従うべき規準を示すことを通じて、時代に対する無意識的な拘束から解き放ってくれるからだ、という。

4つの段階

ヤスパースによれば、世界史には大きく分けて4つの段階がある。第1段階は、言語や道具を使用し始める段階、第2段階は、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河文明などの古代文明の時代、第3段階は紀元前500年頃(紀元前800年~紀元前200年の間)の、現代の精神的基礎を作り上げた時代、そして第4時代が18世紀以来の科学的・技術的時代だ。

なかでもヤスパースが着目するのは第3段階だ。ヤスパースはこの段階を枢軸時代Achsenzeitと呼び、次のように規定している。

枢軸時代においては、インド、ペルシア、パレスチナ、ギリシアにて、相互の連関なく、しかし同時多発的に、現代に生きる私たちの精神的・思想的な基礎が打ち立てられた。

この時代の特徴は、人間が自己、そして世界の全体について限界を意識するようになった点にある。それまで通用していた一切の慣習は疑問に付され、確かなものが何であるかについて疑いをめぐらすようになった。

人間は限界を知り、自分自身の無力さを知ることで、超越者(神)を信じるようになった。かくして人間は、神を根拠とした無制約性のうちで、神へと本来的に立ち返る(実存する)ことに差し向けられていることを悟るのだ。

それまで無意識的に通用していたいろいろな思想や風習や状態は、この過程を通じて疑問とせられるようになりました。いっさいのものが渦の中に巻きこまれてしまったのであります。

人間は自己存在の根底と超越者をはっきりと見ることにおいて、無制約的なものを経験するようになりました。

無制約的な要求は、私の単なる現存在に対する私の本来的な自己の要求として、私に迫ってくるものであります。私は、私自身であるべきであるという理由によって、私自身であるところのものとして、自分を悟ります。

それと比較して、現代は科学的・技術的時代である。これは恐るべき破局の時代だ。枢軸時代から受け継がれてきた一切が失われようとしているのに、それに代わる基礎はいまだ明確になっていないからだ。

しかし現在は私たちは非常に恐るべき破局の時代に生存しているのであります。受継がれたいっさいのものが、あたかも崩壊してしまうかのようであるのに、しかも新しい構築の基礎はまだはっきりと見られないのであります。

歴史において神があらわになる

とはいえ、ヤスパースいわく、私たちがみずからすすんでそうした基礎を打ち立てようとすると、それは失敗に終わらざるをえない。私たちが歴史の全体について知っていると思い込むのは“井の中の蛙”もいいところで、もし権力者が何かそうした計画を立てて遂行しようとすれば、想定とは全然異なった帰結とならざるをえない。

ヤスパースによると、このことは歴史における神性の存在を示している。

全体的に計画を立てていこうとすると、私たちは自分の無力を知るのであります。権力者が倣慢にも、歴史の全体について知っていると思いこんで計画を立てるならば、このような計画は挫折して破局に遭遇します。狭い環境内における個人の計画は失敗に帰するか、あるいは全然別の、予測されなかった意味連関の契機となるかのいずれかであります。

そこで歴史はいっそう重大な意義を有するのであります。すなわち歴史は神性の存在が顕になる場所であります。

カントは『永遠平和のために』において次のように論じていた。永遠平和状態が現実的に達成されることはないものの、実践理性の観点からすれば(=道徳的には)その実現を目指して努力しなければならない、自然の「摂理」は永遠平和状態の達成を保証してくれているからだ、と。ここでのヤスパースの言い方もそれと似たようなものだ。

『永遠平和のために』はこちらで解説しました → カント『永遠平和のために』を解読する

哲学的な生き方とは

ヤスパースは次に、哲学的な生き方(生活態度)とは何かについて論じている。ヤスパースはこれを実生活における生き方の対極に置いている。そして実生活はニセの生き方であり、真の生き方は実存的な生き方にあるとする、まったくの独断論を行っている。

伝統的な生活においては生活に秩序と意味が認められていた。

一方、今日の人びとは包括者(神)の存在を忘れて散漫に生きており、魂は空虚で、自分が独力で自由であると思い込んでいる。これは自己忘却にほかならない。これは現代の技術的な世界によって促されていることは疑えない。搾取的な労働へと置かれることで、人間はますます人間性を失ってしまうのだ。

しかし自己忘却への傾向は、人間そのもののうちにすでに潜んでいる。だから世間や無反省性のうちから「自己脱出」することによって、自己忘却を防がなければならない。

日々の課題に従うことは確かに大事なことだ。しかしそれに没頭することは罪であり、怠慢である。このことを知ることが哲学的に生きるための第一歩だ。

日々の課題や要求に従うということは、もとより現存在においては、明らかにもっとも大切なことであります。しかしそれで満足しないで、単なる仕事や、目的物に没頭することがすでに自己忘却への道であり、同時に怠慢と罪であることを知ることが、哲学的な生活態度への意志なのであります。

哲学的な生き方には、主に2つの要素がある。ひとつは「孤独な思弁」であり、もうひとつは相互理解による「交わり」だ。

人間は内省によって、日々の自分のあり方を絶えず反省しなければならない。また、思想を通じて「本来の存在あるいは神性」を確認しなければならない。こうすることで彼は神を悟り、神が彼を支えてくれていることを確認できるのだ。

また、孤独な内省によっては真理を得ることはできない。なぜなら真理は相手との交わりのうちから生まれてくるからだ。私たちはたえず自分自身を疑わなければならない。自分が正しいとする態度は傲慢である。

自分のうちにあるこれらの錯倒を見抜き、それを克服しようとする哲学的な生活は、自分が不確定な状態にあることを知っています。と申しますのは、それは常に批判を待ち設けており、敵を求め、問われることを欲しており、服従するためにではなくて、自分自身の徹底的な自己開明によって前進への刺激を受けるために、聴くことを欲しているからであります。もし交わりによる開放性と率直さが存在していたならば、哲学的な生活は、他者と一致することによって、真理を見いだし、求められずして確証を見いだすのであります。

本書は哲学入門ではない

真理を探求し続けることにこそ哲学の価値がある。哲学はそもそも役に立たないものであって、それを何かに役立てようとすること自体が誤っている。そうヤスパースは言っていた。

しかしこれは、ヤスパースのひねくれとしか言いようがない。ここでヤスパースが論じているような哲学は、端的に言うと、生活に困らない知的階級向けの暇つぶし以外の何ものでもない。その意味でヤスパース的哲学はなるほど確かに役に立ちようがない。

ヤスパースが言わんとしているのは、要は「私たちはエゴを抑え、他者を尊重し、共に深く話しあわなければならない」ということでしかない。これは哲学ではなく、率直に言って、ヤスパースのロマンだ。もし「みんな心で交わろうぜ!」で万事うまく行くのであれば、そもそも思想が要請されることはなかったはずだ。

一方、本流の哲学者たちは…

それに対して、プラトン、デカルト、ルソー、カント、ヘーゲル、ニーチェといった“本流”の哲学者たちは、哲学の意味を深く了解し、現代に生きる私たちにも参考となる原理を鮮やかに示してくれている。

彼らの議論には、ヤスパースのように、哲学は自然科学と違って役立つものではないとする見方はほとんどない。彼らのうちには、「役立たない哲学こそエライのだ」とするような反動形成はほとんど存在しない。というのも彼らにとっては、何が「よい」関係性であり、「よい」社会であるかについての原理的な解を与えることが最も切実な問題だったからであり、哲学が役立つかどうかは、わざわざ問うまでもないことだったからだ。

リアリティに欠ける理由

なぜヤスパースの言い方にリアリティがないのか。それはヤスパースが、本質を洞察しようとするかわりに、自分の恣意的な理想から出発して、私たちの自己中心性そのものを打ち消そうとしているからだ。

ホッブズからミルに至る近代哲学者たちが共通して設定した問題は、どのような社会制度であれば、「エゴイズムの相克」を調停しつつ、万人が普遍的に、自由にエロスを享受することができるだろうか、というものだった。ホッブズがコモン・パワーの概念、ルソーが一般意志の概念を提示したのはまさにこの問題を解決するためだったし、ヘーゲルが「人格の相互承認」、ベンサムとミルが「功利性の原理」を置いた目的も同じ点にあった。

あえて言うまでもないことかもしれないが、近代社会とは、他者の権利を侵害しない限りにおいて自分の欲求を自由に満たすことができる社会であり、そこに本来性とか非本来性の尺度を持ち込む余地はない。ホッブズからミルに至るまで、近代社会の原理論を展開した哲学者たちは、深くそのことを理解していた。ヤスパースの議論は、そうした先人たちの業績を無神経に踏みにじるものだ。

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