ジェイムズ『プラグマティズム』を解読する

本書『プラグマティズム』は、アメリカ出身のプラグマティスト、ウィリアム・ジェイムズ(1842年~1910年)による著作だ。1907年に発表された。

プラグマティズムは、チャールズ・サンダース・パースによって19世紀に開発され、ジェイムズを経て、ジョン・デューイに引き継がれた比較的新しい思想だ。本書は、ジェイムズがプラグマティズムについて論じた講義をまとめた著作だ。

対立を調停しようとする哲学

プラグマティズムと聞くと「中身の薄いアメリカ的実用主義だ」と考えるひともいるかもしれない。

正直なところ、私も初めは(というか、読む前に)そう思っていた。しかし実際に読んでみるとそれがかなりの部分において偏見であることに気づかされた。

ジェイムズは本書の冒頭で以下のように言う。

私たちの社会には様々な対立がある。それは日常生活においても、また文学や美術においても見られる。哲学でも全く同様の対立がある。それは合理主義と経験主義の対立だ。

合理主義とは原理へと偏執することであり、経験主義とはありのままの事実を愛好することだ。それらふたつは完全に分離し、対立してしまっている。

プラグマティズムはこうした対立を調停することができる。つまりそれは、合理主義と経験主義の両方の要求を満足させることができる哲学なのだ。

哲学史的には、合理主義はデカルトとスピノザ、経験主義はロックとヒュームによって代表される。ただデカルトが原理に「偏執」したとするのは適切ではない。『方法序説』でデカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」に哲学は基づいていなければならないとしたのは、その地点であればを誰もが哲学のスタート地点として承認できるだろうと考えたからだ。ロックとヒュームも、知覚経験をスタート地点としたわけで、この点からすれば原理を否定したわけではない。ジェイムズはかなり言い過ぎだ。

真理の規準=「働く」かどうか(道具的真理観)

ジェイムズによれば、プラグマティズムの観点からすると、学説とは問題を解くための「道具」だ。道具の価値は、それがしっかりと働くかどうかにある。真理も同様だ。ある観念が真理であるためには、「働く」力をもっていなければならない。そうジェイムズは言う。

いわば、何かわれわれがそれに乗って歩くことのできるといったような観念、うまく物と物との間をつなぎ、なんの不安もなく動いて行き、ことがらを簡略にし労力を省きながら、われわれの経験の一つの部分から他の部分へと順調にわれわれを運んで行ってくれるような観念、これがまさしくこれだけの意味によって真であり、それだけの範囲において真であり、道具という意味で真なのである。以上のごときがシカゴにおいて講ぜられて大喝采を博した「道具的」真理観であり、オックスフォードで発表されてはなはだ異彩を放った真理観、すなわち、われわれの観念が真理であるというのは、その観念が「働く」力をもっているということであるとする見方なのである。

プラグマティズムにとって真理とは初めからあるのではなく、出来事によって真理に“なる”。真の観念は「われわれが同化し、効力あらしめ、確認しそして験証することのできる観念」である。これが真理の“意味”だ。

それゆえ、精神(主観)が実在(客観)を単純に写し取るという意味での真理は、プラグマティズムの観点からは理解しがたい。

真理は観念に起こってくるのである。それは真となるのである。出来事によって真となされるのである。真理の真理性は、事実において、一つの出来事、一つの過程たるにある、すなわち、真理が自己みずからを真理となして行く過程、真理の真理化の過程たるにある。真理の効力とは真理の効力化の過程なのである。

われわれが自然的に、無反省的に認めている真理の概念、すなわち精神が出来合いの与えられた実在をただ単純に複写するという意味の真理概念はすべて事実上明瞭に理解しがたいものである。

真理は間主観的なもの

とはいえ、私たち1人ひとりにとってみれば、何が真理であるかを確かめることのできる領域はとても限られていることも確かだ。「月が存在する」と言われても、本当に月に行ったことがある人はとても限られている。学校の先生や両親がそう言った(し、疑う理由もない)ので、そう信じているにすぎない。

何が一般に真理と見なされるかは、その観念が誰かによってすでに具体的に検証されていることに基づく。つまり真理は「信用組織によって生きている」のだ。

とはいえ、同時にそれは、伝聞だけではなく直接に検証することができる権利があるという暗黙の信頼の上にも基づいている。もしその可能性がなければ、私たちは何が正しいかについて何も言えなくなってしまうだろう。

私にとって正しいことが他人にとっても同じく正しい(つまり“間主観的”に正しい)ことを、私たちは「真」と呼んでいる。もし私にしか正しくなければ、それは虚偽だ。また他の人がどれだけ正しいと言っても、自分で確かめる可能性がなければ、それを「真」とすることはできない(たとえば「神が存在する」のような命題について)。

世界は「一」でも「多」でもある、が…

ジェイムズによれば、プラグマティズムの観点は一元論と多元論の対立も調停することができる。ジェイムズは次のように言う。

世界は「一」でもあるし、「多」でもある。一と多は絶対的に等位であり、どちらかが優れているわけではない。世界が一元的か多元的かは観点によるので、プラグマティズムからすれば、絶対的一元論も絶対的多元論も放棄されねばならない。

とはいえプラグマティズムは多元論の側につかざるをえない。なぜなら世界は初めは不完全にしか統一されていないからだ。しかし、いつの日か「唯一の認識者」、起源によって結ばれた宇宙による統一という考えが最も妥当な仮説となるかもしれないことをプラグマティズムは受け入れる。

なぜなら、結局のところ、人間の努力によって世界はだんだんと統一されていきつつあるからだ。

「神」の観念も、役立つならば、真

ジェイムズのいう「唯一の認識者」とは、神のことだ。

プラグマティズムの視点からは、神の存在もまた肯定される。ただし神の観念が役立つ限りにおいて、だ。

もし神の観念が私たちをよく導くのであれば、神の存在を否定することは意味をなさなくなる。それが私たちの生によって価値をもつならば、それは善であり、プラグマティズム的には、かつ真である。

世界は「救済」できる

また、ジェイムズによれば、この世界は未完成であって、私たち人間の働きによってそれを完成させる、つまり「救済」することができる。プラグマティズムは「改善論」の立場を取るのだ、とジェイムズは言う。

私たちは世界の救済についての関心を本来的にもっている(もっていない者は愚かだ)。

にもかかわらず、世界の救済が不可能だと考えるカワイそうなペシミストたちがいる。一方では、世界の救済は可能に決まっていると考えるオプティミストもいる。

プラグマティズムはニヒリズムもオプティミズムも選ばない。その代わりに、2つの中間にある「改善論」を選ぶ。改善論とは、救済の現実的な条件が増えるほどその可能性が高まるとする説だ。

世界救済の条件は現実に存在しており、プラグマティズムはその事実を受け入れなければならない。しかも私たちの行為はその条件を生み出すことができるわけだから、それが世界の救済を創造するとなぜ言えないのだろうか?

動機はよく分かるけど

ジェイムズ
ジェイムズ

学説対立、信念対立を調停しようとする目的意識を最前面に押し出して現れてきた哲学は、哲学史を見渡しても、プラグマティズム以外にはほとんど見当たらない。

ルイ・メナンドの『メタフィジカル・クラブ』によれば、プラグマティズムの背景に南北戦争がある。南北戦争は一般に奴隷制をめぐる南北の利害対立の衝突と見なされるが、それはむしろイデオロギー対立の帰結であり、ジェイムズはプラグマティズムによって、イデオロギー対立そのものを解決しようとしたのだ、と言っている。

メナンドの説に従えば、プラグマティズムの動機はとても切実なものであり、プラグマティズムが相対主義だとか、利益至上主義のアメリカ的価値観を生み出したという言い方はとても一面的であることが分かる。

認識論的な文脈に置き直すと、「真理」を私たちにとっての価値とするプラグマティズムの視点はとても先駆的だった。主観と客観の対応関係(主客一致)という認識論上のパラダイムは、ジェイムズを含む19世紀の哲学によって決定的に時代遅れとされたのだ。

ただし、社会生活における対立に関しては、ホッブズに始まり、ルソーヘーゲルミルに至る近代哲学者たちが、原理的にすでに解決していたことは見逃せない。

互いを自由な人格として承認し、互いの自由を侵犯しないことの同意に基づいてルールを設定し、これを適切に運用することのみが、自然状態の帰結である「エゴイズムの相克」をうまく解決することができる。この近代社会の規準に基づくかぎり、私たちの一般意志に基づくような政治を運営する政府を設置することは正当であり、かつ一般的な福祉にかなっている。これが近代哲学者の達した結論だった。

この点に関してプラグマティズムはその性格上、どうしても場当たり的な方針しか打ち出せない。具体的な政策については、ある程度事前に予測できるものの、実際にやってみなければどうなるか正確には分からないからだ。しかも「よく」働くことの規準を置けないため、結果のよしあしは、せいぜいこれまでの経験を頼りに判断することしかできない。もしそれが未曾有の危機であれば、何をなすべきかを選択することさえできない。これは致命的な欠点だ。