ホッブズ『リヴァイアサン』を解読する

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ホッブズ『リヴァイアサン』を超コンパクトに要約する

本書『リヴァイアサン』は、イギリス出身の哲学者トマス・ホッブズ(1588年~1679年)の代表作だ。1651年に発表された。

本書でホッブズは、それまでの政治思想を大きく推し進める概念を打ち出した。その概念とは、社会契約だ。

社会契約に対しては、「社会契約は不可能だ、なぜなら社会契約の実効性はすでに成立している社会にもとづくからだ」とか、「原始契約によって構成された社会の存在は実証できない」といった批判が向けられることがある。要するに非科学的だ、と。

こうした批判もあって、ホッブズだけでなく、ロックやルソーも含む社会契約説全体に対する評価は、一般的に見て高いとはいえない。

しかしハッキリ言って、それらは本質をついた批判とは言えない。なぜなら社会契約の趣旨は、現在の社会の状態や成立過程を説明するためではなく、その社会の正当性の根拠を置くために構想されたものだからだ。

これまで国家や政府が実際にどうであったかは、ここでの問題とは関係がない。過去の実証データは補助線にはなるかもしれないが、国家が一体どのような根拠に基づいていなければならないかという問いについては答えることはできないからだ。実証レベルで批判したところで「いやそういうことじゃないんですよ」とホッブズもルソーも返すに決まっている。そんな程度の批判は織り込み済みなのだ。

これらの点も含めて、以下で本書の議論を確認していくことにしよう。

新しい国家構想としての「リヴァイアサン」

ホッブズはリヴァイアサンを、人間がみずからを模して作り上げた人工国家と規定する。

リヴァイアサンの素材と製作者はともに人間であって、その「魂」は主権である。つまり主権がリヴァイアサンに生命と運動を与えるのだ。ホッブズはリヴァイアサンをそう定義する。

神ではなく人びとが国家を作る=「市民国家」

リヴァイアサン。よく見ると無数の人びとが集まってできている。
リヴァイアサン。よく見ると無数の人びとが集まってできている。

「万人の万人に対する闘争」があまりに有名なので影に隠れがちだが、国家に対するホッブズの直観には目を見張るものがある。

中世ヨーロッパでは、国家を含む万物は神の被造物と考えられていた。このキリスト教的見方に対して、ホッブズは、神ではなく人びとが国家を形成している(そうすることができる)と考えた。これは当時の常識からすれば、まったくもっておこがましい意見だったはず。その意味で、ホッブズの議論は画期的であったと同時に、きわめて非常識的なものだった。実際、本書は当時のイギリスであやうく発禁処分となりかけた(国王の介入によって回避されたが)。

以下でも確認するが、ホッブズはリヴァイアサンを等しい精神的・肉体的構造をもつ市民同士が作る国家として構想していた。こうした「市民国家」(市民社会)の概念を哲学的に打ち出したのは、まさにホッブズが初めてだった。後に現れたルソーヘーゲルは、ホッブズのこの直観を受け止め、それをより普遍的なものへと展開した。

国家が神によって造られたとする見方、神によって権力の正統性が担保されているという中世的な国家観は、ホッブズの時点をもって、決定的に時代遅れとされたのだ。

本書の目的

本書の冒頭でホッブズは本書で取り組むテーマをいくつか提示しているが、中心の問題は次のようなものだ。

「どのようにして」またどのような「契約」によって人工人間はつくられるか。「主権者」の「権利」およびその正当な「権力」あるいは「権限」は何か。

国家を人間相互のネットワークと見なしたとき、どのような契約を基礎として置くのが最も妥当だろうか。またその場合、主権者の権利と権力の正当性はどこに置かなければならないか。そうホッブズは問題を立てる。

ただここで注意しておきたいのは、ホッブズはただ単に「人間は国家を作らなければならない」と論じているわけではないということだ。ホッブズは次のように論じている。私たち人間の本質構造についてひとつの仮説を置き、それに従って考察を進めるかぎり、いくつかの条件が満たされると、同意にもとづいて国家を作る以外には手がない状態に陥ってしまう、と。この考え方の順序を見て取ることがとても重要だ。

人間は「自然」によって平等に作られたと仮定する

初めにホッブズは、「《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった」という仮説を置く。

ホッブズは、神が人間を造ったとは考えない。ましてや女性が男性をもとにして造られたとにも考えない。あくまで男女は平等なものとして生まれたと考えてみよう。そうすると、確かに身体的な面では多少異なるところがあるが、精神においては一層の平等が見られるはずだ。そうホッブズは直観した。

《自然》は人間を身心の諸能力において平等につくった。

NATURE hath made men so equal in the faculties of body and mind

また精神的諸能力にかんしては、… 肉体的な強さのばあい以上の平等を見いだす。

この直観は、当時の水準ではきわめて斬新なものだった。自然科学が大きく発展した19世紀においてなお、「女性は男性に従属する性質をもっている」というような主張がなされていた(たとえばコント「社会静学と社会動学」)。『リヴァイアサン』は1651年、「社会静学と社会動学」は1893年に出版されたので、両者にはおよそ240年の開きがあるが、ホッブズの主張のほうに明らかに理があることは否定できない。

自然状態は「万人の万人に対する闘争」に行き着く

能力の平等は希望の平等を導き、希望の平等は、もし複数の人間が同一の対象を求めることがあれば、その対象をめぐる相互不信を導く。

相互不信のなかでは、自分が相手にやられてしまわないためには、何らかの力や策略によって、相手を制圧するほかない。

競争、不信、自負—この3つの条件が満たされるとき、人びとは侵略を行う十分な動機をもつ。

これを踏まえて、ホッブズは以下のように主張する。

以上によって明らかなことは、自分たちすべてを畏怖させるような共通の権力がないあいだは、人間は戦争と呼ばれる状態、各人の各人にたいする戦争状態にある。すなわち《戦争》とは、闘いつまり戦闘行為だけではない。闘いによって争おうとする意志が十分に示されていさえすれば、そのあいだは戦争である。

Hereby it is manifest that during the time men live without a common power to keep them all in awe, they are in that condition which is called war; and such a war as is of every man against every man. For war consisteth not in battle only, or the act of fighting, but in a tract of time, wherein the will to contend by battle is sufficiently known

これが有名な「万人の万人に対する闘争」だ。

人間の心身が平等だとすれば、人々のあいだに相互不信が生まれてしまい、それによって「万人の万人に対する闘争」が現れてこざるをえない。その仮説が正しいとするかぎり、それ以外の道筋は取りえない、というわけだ。

自然状態については、こちらでも解説しました → 「自然状態」って何ですか?

ただし「人間に闘争本能がある」というわけではない

ホッブズは、人間が自己保存本能や支配本能に動かされているゆえに「万人の万人に対する闘争」が起きる、と主張しているわけではない。相互不信を促す条件があればそうなるし、なければそうならない。つまりそれは条件次第なのだ。たとえ地球上で闘争が存在しなかった時代がないとしても、それは人間は本性上闘争を求める生き物だということではなく、相互不信の条件が歴史上広範に成立していたということなのだ。

万物に対する権利を譲渡せよ

さて、ホッブズは、人間は「万人の万人に対する闘争」を何らかの方法で解決しようと試みると言う。

人間は「万人の万人に対する闘争」を継続させておくことを望まない。そこで、理性の示唆にもとづいて、各人が互いに同意できるような平和条項を考え出す。この条項を私は「自然法」と名づける。

自然法は2つあるが、第1の自然法は次のように定義される。

各人は望みのあるかぎり、平和をかちとるように努力すべきである。それが不可能のばあいには、戦争によるあらゆる援助と利益を求め、かつこれを用いてもよい。

では、戦争を回避するような原理はあるのか。あるとすれば、それは何か。

ホッブズはその答えを、第2の自然法のうちで示している。

平和のために、また自己防衛のために必要であると考えられるかぎりにおいて、人は、他の人々も同意するならば、万物にたいするこの権利を喜んで放棄すべきである。そして自分が他の人々にたいして持つ自由は、他の人々が自分にたいして持つことを自分が進んで認めることのできる範囲で満足すべきである。

「万人の万人に対する闘争」から抜け出すためには、各人が相互の同意にもとづいて権利を放棄する必要がある。なぜなら、権利を有している限り、闘争の原因は無くならないからだ。そうホッブズはいう。

譲渡すべきなのは「万物」に対する権利

注意しておくべきだが、ホッブズは別にすべての権利を放棄しなければならないと言っているわけではない。放棄されるべきなのは「万物」に対する権利だ。

各人が「万物」に対する権利を主張するから、権利の相互侵害が生じてしまう。「万人の万人に対する闘争」を解決するためには、各人は自分が満足する範囲でのみ権利を主張するのでなければならない。以下でいう自己防衛の権利は、この前提に基づいて成立するものだ。

ホッブズの自然法の何がスゴいのか?

実際、自然法それ自体の概念は、キケロやトマス・アクィナスなど、ホッブズ以前から存在していた。しかしホッブズの自然法の概念は、彼らとはかなり異なっている。対立しているとさえ言っていい。具体的にはこんな感じだ。

アクィナスは『神学大全』の第2部で、次のように言っている。

自然法は神の意志から発する。したがって人間の意志に基づく慣習が、それを上回る法的な力をもつことはできない。

自然法の根拠は神にある。被造物である人間が神の自然法を変えたり、それを上回るような法を作ったりすることがあってはならない。こうしたアクィナス的見方は、キリスト教会と結びついた当時の政治体制にとっては、支配の正統性の根拠として働いた。

映画『アイアンクラッド』に、マグナ・カルタに署名させられた悪名高いイングランド・ジョン王(1166年~1216年)が、ロチェスター城で反乱軍のオルバニー卿に対して自らの王権の正統性を説くシーンがある。

最後のほうでジョン王が叫ぶ"I am God's right hand!!"は、きわめて象徴的な表現だ。正しいのは神であり、神の第一の僕であるローマ教皇から王権を任ぜられた王家に生まれた自分が権力を握ることは、まさしく自然である。ジョン王が言うように、それは生得権Birthrightなのだ。

貴族と平民は本質的に違う存在である。平民も含めた人間の理性が神の意志よりも優先されるべきであるという考えは、不自然であり、非常識きわまりない。いまから見れば信じられないほどに古い世界観だが、それが「古い」と感じられるようになった原点は、まさしくホッブズのような近代哲学にあるのだ。

ホッブズの自然法は、神の権威ではなく人間の理性を根拠とした点で画期的、かつ革命的だった

権利の譲渡 → コモンウェルスの設立

ともあれ、本文に戻ろう。

先にホッブズは「万人の万人に対する闘争」から抜け出すためには、各人が相互の同意にもとづいて権利を放棄する必要がある、と言っていた。それを踏まえてホッブズは次のように続ける。

とはいえ、このプロセスが個々人の善意によってスムーズに進むとは考えられない。自然法は人びとの良心に働きかけはするが、現実の行為にはいろいろな事情が絡んでいるので、絶対的な拘束力をもつとは限らないからだ。

それゆえ、安全保障を行い、個々人の快適な生を確保するためには、何らかの制度、つまり契約に強制力と実効性を与える公共的な権力(コモン・パワー)がなくてはならない。さもなければ契約は容易に破られてしまい、永続性をもつことはできない。

ではこの権力はどのようにすれば確立できるか。

その唯一の方法は、人びとが多数決によって自分たちの意志を1つの意志(総意)に結集できるよう、一切の権力を一個人、もしくは議会に譲渡することだ。

この権力を確立する唯一の道は、すべての人の意志を多数決によって一つの意志に結集できるよう、一個人あるいは合議体に、かれらの持つあらゆる力と強さとを譲り渡してしまうことである。

これは同意もしくは和合以上のものであり、それぞれの人間がたがいに契約を結ぶことによって、すべての人間が一個の同じ人格に真に結合されることである。

これが達成され、多数の人々が一個の人格に結合統一されたとき、それは《コモンウェルス》—ラテン語では《キウィタス》と呼ばれる。

「人格」は身体をもった個人とイコールではない

同じ人格に結合される、と言われてもよく分からないかもしれない。注意しておくべきは、ホッブズのいう「人格」は必ずしも個人とは等しくないということだ。ホッブズは次のように言っている。

群衆がひとりの人間または人格によって代表されるとき、もしそれが、その群衆の各人すべての同意によってそうなるのであれば、その群衆は「一つの」人格となる。

その行為が本人あるいは本人を代表しているような主体のこと、これをホッブズは人格と定義づけている。コモンウェルス(つまりリヴァイアサン)もまた、相互契約と同意に基づいて成立する人格だとされる。なのでリヴァイアサンを何か実体的なものと考えると誤りだ。

相互契約と同意に基づいて

こうして成立した人格は国王や議会などによって担われる。国民はそれらに権利を委譲し、それらに従属することになる。ただし、誰に権力を譲渡するかは相互契約と合意にもとづき、多数決(選挙)によって決められる。国王や議会は初めから国民を代表しているわけではない。そうホッブズは考える。

国王と議会のどちらが選出されたとしても、人びとの総意を代表し、彼らの代理人として行為しなくてはならない。また、国王もしくは議会に賛成した人も反対した人も、彼らの行為を自分の行為として承認しなくてはならない。国王または議会は人びとの総意を代表しているからだ。

このように、権利を国王または議会に譲渡することによって、コモンウェルスは成立する。言い換えると、コモンウェルスが成立するときにはじめて、国王や議会に権利と権能が与えられる。国王は権力をあらかじめ備えているのではない、人びとの相互契約によって初めてそれを手に入れることができる。彼らの権力は人びとの相互契約と同意に基づくほかなく、さもなければそれは不当な権力である。

正義=相互契約を守ること

コモンウェルスの成立によって、はじめて社会契約は有効となり、人びとはそれを履行するように義務づけられる。そして、この段階で初めて正義、不正を正しく位置づけることができる。

なぜなら正義とは相互契約を守ることにあるからだ。

それゆえ、相互契約を結ぶ以前の段階、つまり「万人の万人に対する闘争」においては、何事も不正ではない。相互契約なしには、正義や不正の概念が意味をもたないからだ。

各人の各人にたいする戦争からは、何事も不正ではないということが当然帰結される。正邪とか正義不正義の観念はそこには存在しない。共通の権力が存在しないところに法はなく、法が存在しないところには不正はない。

相互契約があるからこそ、何が正義であり何が不正であるかを規定することができる。相互契約が正義の根拠であり、それ以外の場所(たとえば神)に正義の根拠を求めることはできない。そうホッブズは言うわけだ。

主権者から承認される自由と、そうでない自由

以上を踏まえて、ホッブズは「自由」を次のように規定する。

国民の自由は、国王または議会によって規制されない事柄に関してのみ存在する。たとえば売買の自由、居住地選択の自由、職業選択の自由、子どもに対する教育の自由などだ。とはいえ、国王・議会の権力は国民の自由によって制限されることはなく、国民に対して行われることは何であれ、不正ではありえない。

ただし国王・議会は、人びとの相互契約にもとづいて譲渡される権力のみを、国民に対して用いることができる。つまり相互契約によって譲渡されない事柄については、国民が全面的に自由をもつ。

自分の身を守り生命を維持する自由は相互契約によっては譲渡できない。それは人間に生まれつき備わっている権利であるからだ。

現代社会におけるホッブズ

ホッブズの議論は、当時の水準においては非常に革新的だったが、現在ではこれをそっくりそのまま受け入れることはできない。

一切の権力を譲渡することによって公共的な権力を設立すべしとする議論は、独裁政治を擁護しているのではないか?といった疑問を呼び起こす。かりに権力のチェック機構を置いたとしても、国民が権力を譲渡してしまった以上、国民は権力の代表者の行為を追認することしかできない。それゆえ権力の濫用を防ぐことは、制度上不可能だ。ホッブズ自身に独裁擁護の意図があったわけでないとしても、帰結としてそうなってしまうことは確かだ。

こうした問題点はあるが、全体的に見て、ホッブズの議論はまさしく革新的だった。国家を市民国家(リヴァイアサン)として示したことは、現代から見ても素晴らしい功績だったと言える。この直観が、国家は神の創造物などではなく、人間同士の相互関係が織りなすものだという、近代社会の基礎理念の出発点にあるからだ。

「万人の万人に対する闘争」もまた、いまなお参考になる概念だ。グローバル化した現代社会は資源の稀少性によって特徴づけられており、各国家は不信と競争動機のもとで、他国との生存競争の脅威にさらされている。「万人の万人に対する闘争」を解決する原理を提示しない限り、国家間の生存競争は無くなることはありえない。このことをホッブズの議論は教えてくれる。

「ホッブズ問題」との違い

アメリカの社会学者タルコット・パーソンズは著書の『社会的行為の構造』でホッブズの議論を取り上げ、これを秩序問題(ホッブズ問題)と呼んだ。パーソンズいわく、ホッブズが相互契約の概念を打ち出したのは、それによって「万人の万人に対する闘争」を解決し、社会に秩序をもたらすことが目的だった、と。

しかしホッブズは何も秩序のために相互契約の必要性を主張したわけではない。なぜならホッブズにとって秩序はひとつの手段だったかもしれないが、少なくとも最終目的ではなかったからだ。

詳しくはこちらで解説しました → 「ホッブズ問題」の考え方

「エゴイズムにすぎない」という批判は何も分かっていない

ホッブズには、最終的には人間はエゴイスティックな存在であるという直観がある。これはホッブズに限らず、ルソー、ヘーゲルにも共通する構えだ。

「結局近代哲学はエゴイズムの体系にすぎない」という近代哲学批判はごくありふれたものだ。しかし、これは基本的に人間は他者を大事にする存在である(でなければならない)という甘いロマンから発するものだ。

私たちは自己を配慮する存在だ。ではどうすれば、コンフリクトを起こすことなく各人が自己をよく配慮することができるだろうか。近代哲学が問題としたのはまさにその条件を見て取ることだ。近代哲学はエゴイズムにすぎないという批判は、この問題意識をまったく見落としているのだ。