ハイデガー『技術への問い』を解読する

「技術への問い」Die Frage nach der Technikは、ドイツの哲学者ハイデガー(1889年~1976年)による著作だ。1954年に発表された『論文・講演集』Vorträge und Aufsätzeに収録されている。

後期ハイデガー

本論は「転回」後に書かれた後期ハイデガーの著作だ。一般に『存在と時間』以前が前期とされ、以後が後期とされる。『存在と時間』では存在を問題とする現存在(=人間)について探求し、後期では存在の真理へと探求を進めていった、というのが基本的な解釈だ。

本書の結論を先取りすると

これを踏まえて本論の結論を先取りすると、およそ以下のような感じだ。見やすいように箇条書きでまとめると、

  • 現代技術は真理を明るみに出すアレーテイアではなく、むしろ存在の真理を隠蔽している
  • 現代技術は自然を有用性という観点からのみ露わにしている
    • 自然に対して、エネルギーを引き渡せと要求する
    • =自然を「用立て」する
  • 「用立て」は、私たち人間が意識的にそうするのではなく、現代技術がそう挑発する
  • こうした技術のあり方を「集-立」(ゲ・シュテル)と呼ぶ
    • 集-立のせいで人間は真理だけでなく、自分自身も見失ってしまう
  • その意味で、技術は危険それ自体
  • しかし同時に、人間を救うものでもある(ヘルダーリン召喚)
    • 技術は初め、芸術でもあった
    • 芸術、とくに詩作(ポエジー)が救う
      • ポエジー ≒ ポイエーシス

こう見ると、内容としてはそこまで難しいわけではない。後期ハイデガーの図式を押さえておけば、大体の中身は受け取ることができる。ハイデガーを専門的に研究するのでない限り、深く突っ込まなくてもOKだ。

それでは以下、本文に沿って見ていくことにしよう。

目的:技術について問うことで、技術との自由な関係を作る

ハイデガーいわく、技術について問うことは思索することだ。思索により、技術の本質へと開かれることを通じて、現代技術との「自由な関係」を作ること。これについて論じるのが本論の(一応の)目的だ。

われわれは技術について問い、そのことによって技術との自由な関係を準備したいと思う。関係が自由になるのは、それがわれわれの現存在を技術の本質Wesenへと開くときである。技術の本質に応答するなら、われわれは技術的なものをその限界まで経験できるようになる。

技術の本質は「道具性」にはない

一般に、技術の本質は以下のようなものとされている。

  1. 目的を達成するための手段
  2. 人間の行為

それゆえ、技術とは、「しかるべく整えること」、すなわち道具Instrumentである。

なるほど確かにこの規定は正しい。しかし、正しいものが本質を明らかにするわけではない。本質を明らかにする(出来させる)のは、ただ「真なるもの」だけだ。真なるものが私たちを技術の本質への自由な関係へと導いていく。技術を正しく規定することによっては、技術の本質を明らかにしたことにはならない。

道具は原因をともなう

ここでハイデガーは、道具は何かを実現する方法として、原因性・因果性をともなうとする。そのうえで、原因とは、古代ギリシア人においては、他のものに「責めを負う」ことであったという。アリストテレスの四原因は、「責めを負う」4つの仕方だったのだ、と。

銀細工師は、捧げ物のための用具を作り出すことvorbringenとその用具がそれ自体にもとづくこととがそこからはじめて出発し、たえず出発しつづけるところとして、ともに責めを負っている。

アリストテレスの四原因説については、こちらで解説しました → アリストテレス『形而上学』を解読する

技術はアレーテイア(明るみに出す)ための方法

責めを負うことは、道徳的な過失でもなければ、何かの作用なのでもない。それは何かを現出へともたらすことであり、「誘い出す」ことである。

誘い出すことは、前へともたらすこと(生み出すこと)、すなわちポイエーシスである。ポイエーシスとは、隠蔽されているものを明るみに出す(開蔵する)ことだ。これをギリシア人はアレーテイアと呼んだ。

〈こちらへとー前へと-もたらすこと〉とは、伏蔵性verborgenheitからこちらへと、不伏蔵性のうちへと、前へともたらすvorbringenのである。〈こちらへと-前へと-もたらすこと〉がそれ自体の固有性を出来させるのは、ただ伏蔵されたものが不伏蔵的なものに至る場合だけである。このように不伏蔵的なものに至ることは、われわれが開蔵Entbergenと名づけるものにもとづいており、またそれのうちで揺れ動いている。ギリシア人は、この開蔵のためにアレーテイアἀλήθειαという語をもっている。

その意味で、技術とはただの手段、道具ではなく、アレーテイアのひとつの方法だ。

技術は芸術、とくに詩作に通ずる

ここでハイデガーは技術(テクニック)という語が、ギリシア語のテクネーに由来したという点に着目して、以下のように言う。

テクネーはただの手仕事に関する名称ではなく、高度な技、すなわち芸術のための名称でもあった。テクネーはポイエーシスの一種であり、それゆえ詩的なものなのだ(詩=ポエジー)。

テクネーは、〈こちらへと-前へと-もたらすこと)、すなわちポイエーシスに属すのである。それゆえ、テクネーはなにか詩的なものetwas Poietischesである。

現代技術はポイエーシスではなく「用立て」になっている

しかし、ハイデガーいわく、現代技術はポイエーシスではない。それは悪しきアレーテイアの方法、すなわち事物を用立てることであり、事物を「挑発」することに陥ってしまっている。

しかし、テクネーが詩的なものであることは、自然科学に基づいている現代技術に対しては当てはまらないのではないか、と言うひともいるだろう。

現代技術もまたアレーテイアだ。しかしそれはポイエーシスとして、前へともたらすものではない。それは一種の「挑発」である。現代技術は自然に対して、エネルギーになるようなもの(石炭や穀物)を引き渡せと要求する。昔の風車もそうだったのでは、というひともいるかもしれない。しかし風車は風に身を任せるだけで、エネルギーを開発するわけではない。

かつては農夫も種をまき、成長を自然にまかせているだけだった。しかし今やこちらから育てようと働きかける。これは自然を「用立て」することだ。用立ては、開発することでエネルギーを外へと運び出し、しかもそれを加速させようとする。

用立てされたものは対象としては隠蔽される

ハイデガーいわく、用立てされたものは、単に「用象」としてのみ明らかにされ、対象としては隠蔽される。

用象は、そこからエネルギーを取り出すためのものとしてしか現前しない。言いかえると、用象は、利用可能性という観点からしか捉えられず、それ以外の見方を受け付けない。

この術語が特徴づけているのは、挑発する開蔵によって急襲される一切のものがどのように現前するのか、その現前のしかたにほかならない。用象という意味で存するものは、もはやわれわれに対象Gegenstandとして向きあっているのではない。

労働は人間を用立てること(労働力として)

ここでハイデガーは、人間そのものが用立ての対象となりうる、むしろ自然よりも根源的にそうなのではないか、という構えを打ち出す。

人間がそのために挑発され、用立てられる場合には、人間も、むしろ自然よりいっそう根源的に、用象に属すのではないか?人的資源Menschenmaterial、診療所の患者Krankenmaterialといった広く流布している言い方はこれの証拠である。山番は森で伐採された木を測定する者だが、外見上、彼は祖父と同じやり方で同じ森の道を見回っている。しかし、そのことを自覚しようとしまいと、今日、彼は木材を利用する産業によって用立てられている。

まさに人間は自然エネルギーよりもいっそう根源的に用立てBestellenへと挑発されているのだから、けっしてたんなる一用象にとどまることはない。技術に携わることによって、人間は開蔵のひとつのあり方としての用立てに参加する。

産業が人間を労働力として用立てること、労働力というエネルギーを引き出し、より一層利用しようとすること。しかも、人間自身が人間をエネルギーを搾取する用象としてしか捉えなくなってしまう。そうしたプロセスへと人間を駆り立てること、これが現代技術の問題である。ハイデガーはそう言うわけだ。

用立ては「集-立」によって導かれる

ともあれ、ハイデガーいわく、現代技術による用立ては、私たち人間が意識的・主体的に行うようなものではない。私たちはそうするように導かれ、要求され、「収集」される。ここで人間はアレーテイアのひとつの仕方によって呼びかけられているのだ、と。

このアレーテイアの仕方を、ハイデガーは集-立Ge-stell(ゲ・シュテル)と呼ぶ。

Ge-stellは「立て組」と訳されることもある。

あの挑発は人間を用立てることへと収集するversammeln。このように収集するものは、ひたすら現実的なものを用象として用立てるように人間を集中させるのである。

われわれはいま、それ自体を開成するものを用象として用立てるように人間を収集するあの挑発しつつ呼びかけ、要求するものをこう名づける—集-立Ge-stellと。

集-立は、現実的なものを用立てるというしかたで用象として開蔵するよう人間を調達stellenする、あの立てることを収集するものである。

集-立によって挑発され、呼びかけられ、事物を対象ではなく用象として明るみに出すこと、これが現代技術の本質である。

集-立のせいで真理の「呼びかけ」を聞き落としてしまうかも

ここでハイデガーは、得意技のドイツ語源解釈を使って、集-立は「命運」であり、「危険」であると主張する。

なにかをするように導くこと、なにかをする気にさせることauf einen Weg bringen—このことはドイツ語では、派遣することschicken(行かせる、送り出す)を意味する。われわれは、開蔵するようにとまず第一に人間を導くあの収集しつつの派遣を、命運Geschickと名づける。

開蔵の命運は、それ自体のうちになんらかの個々の危険を含むというのではなく、それ自体危険そのものなのである。

集-立に挑発されている限りは、自分が要求され、導かれていることを見落としてしまう。それゆえ、隠されているものからの呼びかけを聴くことが出来ない。

ハイデガーいわく、ここに根源的な問題がある。つまり、集-立はアレーテイアをも隠蔽し、真理が現れてくるところのものもまた隠蔽することで、私たち人間から真理の「語りかけ」を経験する可能性を奪ってしまうかもしれないのだ、と。

集-立は用立てというあり方での開蔵へと指図する。もしこの用立てが支配するなら、それは開蔵の他の可能性をすべて駆逐する。

集-立は、開蔵そのものを伏蔵し、それとともに、そのうちで不伏蔵性すなわち真理がそれ自体の固有性を出来させるsich ereignenかのものをも伏蔵する。

本来的な脅威は人間の本質にたいしてすでに襲いかかっている。集-立の支配Herrschaftは、いっそう根源的な開蔵へと参入することと、そのようにしていっそう原初的な真理の語りかけを経験することとが人間にたいして拒まれるかもしれないという可能性をもって脅かすのである。

もっとも、この「かのもの」が何であるのかについてハイデガーはここで述べていないし、知られているどの箇所でも明確に、誰でも分かる仕方で書いていないので、その「かのもの」については、いまだに議論が続けられているのが現状だ。

ヘルダーリン召喚

ここでハイデガーは、同郷の詩人ヘルダーリンの「危険のあるところには救うものもまた育つ」という句を我田引水して、技術が危険そのものであるならば、そこから「救うもの」も生まれるはずだ、とこじつける。

それゆえ、集-立が支配するところには最高の意味で危険がある。

「しかし、危険のあるところ、
救うものもまた育つ。」

このヘルダーリンの言葉を慎重に熟慮しよう。

そのうえで、救うものとは明るみに出すことであり、これは「叶えるもの」であるとする。なぜならそれは人間にみずからの「本質の最高度の尊厳」を見させるからだ、と。

開蔵へと派遣するこの叶えるものは、それ自体、救うものである。というのは、この救うものは、人間に自分自身の本質の最高度の尊厳を見させ、それに帰入させるのだから。人間の本質の尊厳は、あらゆる本質の不伏蔵性と、これとともにそのつどそれに先立ってあらゆる本質の伏蔵性を、この大地のうえで見守ることにある。

無茶苦茶な議論だが、ともかくハイデガーからすると、技術には2つの本質があることになる。

  1. 「用立て」を挑発するもの(自然からエネルギーを調達しようとする)
    • 真理との関係を絶つ
  2. 「叶えるもの」
    • 救うもの

救うもの=芸術(特に詩作)

ここで、救うものとは何だろうか?これに関してハイデガーは、芸術ではないだろうか、という説を置く。ここでもハイデガーは明言を避けているので何とも言いがたいが、どうやらそう考えているようだ。

ひょっとすると、いっそう原初的に叶えられた開蔵が、危険のただなかにおいて—技術時代には危険は示されるのではなく、むしろなお伏蔵されるのであるが—救うものを最初の輝きにもたらすことをなしうるのではないだろうか?

かつて古代ギリシアにおいては、技術だけがテクネーという名称をもっていたわけではなかった。かつて、テクネーは、真理を輝くものdas Scheinendeの光輝Glanzのうちへと取り出すhervorbringenあの開蔵をも意味したのである。

かつて、テクネーとは真なるものを美しいものdas Schöneのうちに取り出すことをも意味した。テクネーは美しき技としてのポイエーシスをも意味したのである。

ここでハイデガーのいう「美しき技」とは、芸術、特に詩作のことだ。

ハイデガーいわく、芸術というポイエーシスの中心には、ポエジー、「詩人的なもの」がある。ハイデガーにとっては、詩作こそが芸術の核であり、芸術を芸術あらしめているものにほかならない。

芸術はなぜテクネーというそっけない名称をもつのだろうか?それは、芸術が〈こちらへと-そして前へと-もたらす〉開蔵のひとつであり、したがってポイエーシスに属すからであった。このポイエーシスという名称を最後に固有名としてもちつづけたのは、美しいものにかかわるあらゆる芸術をくまなく支配するあの開蔵、すなわちポエジーdie Poesie、詩人的なものdas Dichterischeである。

こうして、技術との決定的な対決は、一見するとそれと相容れないような領域、すなわち芸術においてなされるのだ、とされる。

技術の本質はけっして技術的なものではないのだから、技術への本質的な省察と、技術との決定的な対決とは、一方では技術の本質に親しいが、他方ではそれと根本的に相違するようなひとつの領域で生じる。

そのような領域が芸術である。

原理がどこにもない

家畜を「用立て」する古代エジプト人
家畜を「用立て」する古代エジプト人

本論は環境論の観点から参照されることが多い。エネルギーの「用立て」に関する議論は、東日本大震災の直後に発生した原発問題に絡めて取り上げられることもあった。

人間は自然を利用可能性の観点からしか捉えておらず、現代技術がそれを支えているのだ。こうした言い方は、近代批判としては典型的であり、いまや陳腐とさえ言える。

だが、社会原理という観点からすれば、本論に評価すべきポイントはない。

上でハイデガーは、かつては農夫は成長を自然に任せていたと言っている。しかしそんな農夫など一体どの時代にいたのだろうか?古代エジプトでは紀元前3000年よりも以前から灌漑農業が行われていたが、これは用立てと何が違うのか?作物を貯蔵するための倉庫を作るために木を切ったり、また寒さをしのぐために獣の皮を使ったりすれば、それも用立てではないのか?古代ギリシアには、水を用立てするための井戸は無かったとでもいうのだろうか?

要するに、人間が生活の配慮によって自然世界を利用すれば、それだけですでに用立てということになる。文明それ自体が用立てによって成立したとさえ言えてしまう。これではまったく議論にならない。

自然世界を有用性・利用可能性の観点から捉えること自体が問題なのではない。あくまで考えるべきは、どうすれば私たちが相互に抑圧することなく、自由な生を送ることができるか、だ。たとえば、持続可能な開発Sustainable Developmentは、そうした観点から答えを与えようとする考え方にほかならない。もっとも、ハイデガーであれば、これは自然を永続的に用立てしようとする大がかりな策略にすぎない、とでも批判したに違いないが。

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