ヘーゲル『法の哲学』を解読する(2)

ヘーゲル『法の哲学』の前半はこちらで解説しました → ヘーゲル『法の哲学』を解読する(1)

ここでは、ヘーゲルの『法の哲学』の後半の「倫理」の章について解説する。

前半では、自由が抽象的な法権利から「本当の正しさ」を目がける道徳へと形を変えつつ展開していった。後半では、道徳から倫理(人倫)の段階へと移行し、善が客観的に実現されていくプロセスを描き出している。

つまみぐいしないで!

前半を解説したときにも軽く触れたが、本書は前半が抽象的で分かりにくく、後半が具体的で分かりやすいという構造になっている。なので前半をパスして後半の議論から読みたくなる気持ちになるかもしれないが、その気持ちはどうにかこらえて、ぜひ前半を読んでから後半を読んでほしい。

ヘーゲルは、家族も市民社会も国家も、自由が社会的形態として展開したものだと考えているが、その自由の本質については前半で詳しく論じている。それをつかんでいない状態で後半を読んでも、あまり意味がない。

仮に大学の授業で後半から読むことになったとしても、ぜひ前半から読んでほしい。前半のほうが原理論としては断然面白いし、半分読んだだけで評価するのはアンフェアだ。

3.倫理:実質化された自由

道徳が普遍的な正しさを目指す意志だったのに対して、倫理は普遍的な正しさが具現化したものだ。その意味で倫理は、実質化された自由の理念を指している。

倫理とは生きている善としての自由の理念である。

倫理とは、現存世界となるとともに自己意識の本性となった、自由の概念である。

これはつまり、自由が具体的な社会制度の形を取って現実のものになる、ということだ。ヘーゲルによると、その骨格をなすのが、掟(=ルール、法律)と機構(=家族、市民社会、国家)だ。

私たちが抱く自由の意識は、こうした社会制度のうちでようやく具体的な形を取る。いまや「人格の相互承認」を出発点としたプロセスは、自由が社会的な制度として展開する段階に行き着く、とヘーゲルは言う。こうした自由の展開プロセスこそ、ヘーゲルが世界史と呼んでいるものにほかならない。

確かに、そうした見方にマルクス・エンゲルスがイチャモンをつけるのも無理はない。素直に読めば、理念がスムーズに展開するように、私たちの社会も自然と自由な社会になると解釈できなくもないからだ。

だがヘーゲルは、そのように考えていたわけではない。むしろ逆に、「人格の相互承認」が自然と展開していくことはなく、市民社会においては、原理的に貧富の格差が生じざるをえないことを直観していた。そのうえでヘーゲルは、「人格の相互承認」の可能性を確保し、自由な社会を打ち立てるための社会的なシステム(司法活動や福祉行政)が必要だと考えたのだ。

では、まずは第一の制度、家族について見てみよう。

家族

ヘーゲルによれば、自由は家族のうちで初めて実質的な形を取ることができる。どのようにしてか?それは、家族のひとりひとりが家族の掟に従い、自分の役目を果たすことによってだ。

ヘーゲルは家族の本質を次のように規定している。

家族はという一体性によって規定される。それゆえ個人は、一個の人格としてではなく、家族の成員として存在する。

家族は3つの本質をもっている。1つ目は婚姻、2つ目は所有と財産、そして3つ目が教育と解体だ。

一般的に婚姻は初め両親の配慮にもとづいて出発する。ただしそれらの配慮は主観的でしかない。客観的には、結婚する2人の同意が家族を構成するために必要となるのだ。

また、家族はひとつの永続的な人格であり、持続的な資産を必要とする。夫や妻の収入は個人のものではなく、家族全体の共有となる。これによって、それまでエゴイスティックだった個人の欲望は、共同財産への配慮へと変わる。つまり個人は家族のうちで素朴な他者配慮の感覚を身につけるのだ。

また、家族には子供も本質的な要素だ。子供は両親の愛の対象となり、家族の資産で養育される権利をもつ。ただし親は子供に、「家族に対する配慮」以上に奉仕することを要求する権利をもたない。なぜなら子供は家族のモノではなく、そもそもにおいて自由な存在だからだ。

子供は学校に入る以前にも家庭内で教育されねばならない。それは2つの目的をもっている。1つは子供の「しつけ」を行うこと、そしてもう1つは、家族の外の人たち(友達など)とよい関係を結ぶ能力を身につけさせることだ。

また、ひとつの家族は永遠に続くことはない。子供たちが成年し、自分たちの家族をもつ資格があると認められるとき、その家族は倫理的に“解体”する。それによって子供たちが独立するとき、初めて彼らの権利は「法的な形式」を取り、彼らは人格となる。そうして以前の家族は背景へと退き、かつての子供たちが今度はみずから親になって、自分で家族を作り上げていく。

こうして家族が多数成立し、それらが独自の人格として相互に振る舞うようになる。このとき法権利は市民社会の段階へと進んでいく。

付け加えておくと、ヘーゲルは「家族が複数立ち並ぶことによって市民社会が成立した」と事実レベルで主張しているのではない。ヘーゲルはあくまで自由が社会的に具現化するプロセスをモデルとして示しているのであって、家族から市民社会が現れたことを史実として提示しているわけではない。なぜならヘーゲルは、自由が展開して実質化していくプロセスの構想を提示しているにすぎないからだ(この点についてはヘーゲル自身が緒論でハッキリ言っている)。

市民社会

ヘーゲルは、市民社会には2つの原理があると主張する。1つは目的としての「私自身」であり、もう1つは人格と人格の相互連関性、いいかえるとメンバー関係だ。

家族の原理は個人が自分を目的にすることを許さない。家族の原理である一体性、親密性は、成員が自分本位に活動することとは相容れないからだ。

しかし市民社会は、理念的には、各メンバーが「人格の相互承認」を行い、各自の所有を互いに認め合うという承認関係のもとで成立する。この限りにおいて、個人は自己中心性(自己中心主義ではない)を肯定し、自由に欲求を満たして快(エロス)を享受することができる。

こうして、市民社会は第一に欲求の体系として成立する。

「欲求の体系」と言われてもピンと来ないかもしれないが、その内実は市場経済システムのことだ。習俗が人びとの欲求を抑え込んでいた時代と異なり、近代は人びとの欲求がきわめて多様な形を取るようになる。このように私たちの欲求(需要)が多様化するにつれて、それに応じる経済形態が発展してくる、というわけだ。

市民社会では人格と人格が相互に依存しあっている。彼らは自分の欲求を満たすために労働することによって、分業体制を作り上げる。この分業体制は欲求の体系として成立する。

ここでは、人びとが自分の労働を他の人びとの生産物と交換し、手に入れたものによって自分の欲求を満足させ、自由を実現させることができる。その意味で欲求の体系は「市場経済システム」と呼ぶべきだ。

ヘーゲルは、市民社会において私たちの欲求の形態はあらゆる形を取りうるが、それがどのようなものであれ、普遍性をつねに意識せざるをえないという。

欲求の体系のうちでは各人の欲求が解放され、さらに新たな欲求が呼び起こされる。このプロセスのうちで働いているのは、人間の欲求の可塑性だ。

動物の欲求が制限されている(たとえばエサを食べたり縄張りを確保したりすることのみに向けられる)のに対して、人間の欲求はきわめて多様な形を取る。これに応じて、欲求を満たす手段もまた多様化する。

とはいえ、個別化した欲求は、他の人びとからの承認を得るために、普遍性を目指していこうとする。他の人びとからの評価を念頭に置くことで、自分の欲求とそれを満たす方法を、社会のうちで認められるよう変化させていこうとするのだ。

承認されているという意味でのこの普遍性が、個別化され抽象化された欲求と手段と満足の方法を、社会的なという意味で具体的な欲求と手段と満足の方法にするところの契機なのである。

その動因として働いているのが、他の人たちと同等でありたいという模倣の欲求と、目立ちたいという欲求だ。そうした欲求を持っているからこそ、私たちは自分の個的な欲求を他の人びとに受け入れられる形式へと作り変えていこうとするのだ。

普遍性をつねに意識せざるをえない理由、それは欲求の根本には同等欲求と評価欲求があるためだ。「一人前になりたい」という欲求はそのことを典型的に示している。

しかしここで問題が生じる。欲求が満足されるかどうかは条件による。個人には能力差や生まれの違いがあるので、自分の欲求を満たせられるひともいれば、そうでない人もいる。この格差は放置しておけば原理的に拡大していかざるをえない。

かくして「放埒な享楽と悲惨な貧困」が現われ、社会のモラルや倫理は頽廃の極みにいたる。

市民社会はこうした対立的諸関係とその縺れ合いにおいて、放埒な享楽と悲惨な貧困との光景を示すとともに、このいずれにも共通の肉体的かつ倫理的な頽廃の光景を示す。

市場経済は私たちに自由をもたらす可能性の制度として現れてきた一方で、人々の間に必然的に、財産や教養の面でさまざまな不平等を生みだしてしまう。しかしここで「万人はみな平等であるべし」といった理想像を持ちだしてくるのは空虚だ。いったん私たちが市民社会に依拠して生活を営むようになった以上、それ以外のところで欲求を満足させ、自由を手に入れることはもはや不可能だからだ。

したがって問題は、市場経済それ自体を否定することではなく、市場経済で現れてくる矛盾を緩和することにある。このための制度として、司法活動、福祉行政、職業団体が原理的に“要請”される。

ヘーゲルは資本主義が唯一私たちの自由にかなう社会制度であることを直観していた。市民社会が必然的に矛盾を生み出すシステムであることを受け入れつつ、どのような社会制度が私たちにとってよい制度であるかを、自由を原理とすることで考察している。

では、司法活動はどのように「欲求の体系」の矛盾に取り組むのだろうか?

ヘーゲルによれば、司法活動は「欲求の体系」における自由と所有権を保護するために必要とされる制度だ。

司法活動は、それまで暗黙のうちに認められていた正しさを「法律」として打ち立て、客観化する。これによって法は実定法になる。

また法律によって、私の権利は一般的に妥当するようになる。つまり法律によって私の所有は、習慣や慣例といった暗黙の合意によってではなく、契約などの形式的な手続きにもとづいて認められる。

しかし、法律は何が正しいかを厳密に規定することができない。たとえば成年が20歳であるのは「正しく」、19歳であるのは「誤っている」ことを証明することはできない。そこにはさまざまな要因が入り込むため、唯一絶対の“正解”は存在しないからだ。しかしここで必要なのは、いずれにしても一定のラインを置かなければならないということだ。

以上が司法活動だ。次は福祉行政について見ていこう。

司法活動は個々人の所有を保障するが、彼らが現実に自由となるためには、生計と福祉の保障もまた必要となる。

市民社会は市場経済システムを普遍資産として作り上げるが、配分される財の程度は個人の能力や生まれなどの諸要素によって規定されている。このことから必然的に貧富の格差が生じてしまう。そして貧困は、労働する意欲や権利の実感を失ってしまった「賤民」を生み出してしまう。

こうした貧困に対処するのはさしあたっては家族だが、貧困によって家族の絆が失われてしまうことがある。いまや家族が市民社会によって支えられている以上、それはある程度仕方のないことだ。

しかし、市民社会は過剰な貧困や賤民の出現を防ぐほど十分な普遍資産を備えていない。それゆえ国家が彼らの生を救済するほかない。この点に福祉政策の正当性の根拠がある。

ただし、福祉政策は人びとが自由を実質化するための援助をする点において正当だ。したがって単に金銭的な援助を行えばいいわけではないいし、働く意欲を削ぐほどの援助は妥当とはいえない。

公教育もまた、福祉行政のひとつの重要な柱だ。

家族のうちでは、子どもが友だちや身近な人びとと基本的な関係を結ぶための基礎的な教育が行われる。しかし家族の教育は両親の恣意のもとにあるので、十分な教育が行われるときとそうでないときがある。

すでに触れたように、自由を実質化するためには教養を身につける必要がある。自由の実質化の根本的な条件は「人格の相互承認」にあるので、公教育は少なくとも、子供たちが市民社会において他者を人格として承認するための能力を身につけさせる制度でなくてはならない。

子供たちは、教育を受けるまでは人びとを宗教や国籍の違いに応じて区別して捉えるが、教育を受けて教養を身につけることで、人びとを等しい人格として捉えるようになる。生まれの違いや文化の違い、貧富の差に関わらず、彼らは私と等しく人格であるという感度を身につけるのだ。

このように公教育は、人びとが自由を実質化するための一般条件を向上させるための制度として要請されるのだ。

さて、ヘーゲルによれば、福祉行政は政府がトップダウン式に行うが、これを受けて、今度は気遣われた人びと自身が社会のうちで配慮の輪を広げて行こうとする。これを可能にしてくれるのが職業団体の制度だ。

職業団体は商工業身分に特有のものだ。これは独立自営業者たちの同業組合のようなものと捉えればいいだろう。

職業団体は政府による監督の下にある。職業団体は団体自身の利益について配慮するだけでなく、採用したメンバーの能力育成や事故に対する保険としても働く。その意味で職業団体は「第2の家族」としての役割を引き受けるのだ。

また、個人は職業団体に所属することで自分の才能を他者から承認される機会をもつ。団体のために力を尽くしていることが承認されるとき、彼は自分に誇りをもつようになる(自分は確かに人びとにとって価値のある存在であるという自負感が生まれてくる)。その意味で、職業団体は社会的承認を得るためのひとつの契機なのだ。

ヘーゲルによれば、職業団体は全体の利益のために活動することを望む個人の欲求に応じて与えられるひとつの機会であると同時に、職業団体は地域コミュニティであり、社会的承認の可能性をもたらしてくれる(もし職業団体がなければ個人は欲求不満となり、直接国家に要求を突きつけることになるとヘーゲルは考えていた)。その意味で、職業団体は市民社会のメンバーシップの感度を育む場所として重要な意味をもっている、とヘーゲルは言うわけだ。

国家

ヘーゲルは国家において倫理の本質が実現されると主張する。国家において客観的な自由は主観的な自由と一体となり、人びとは完全な自由を手に入れる。自由が広がっていくプロセスは、国家の段階をゴールとする。そうヘーゲルは言う。

近年までヘーゲルは、『法の哲学』で国家を自由の実質化の最終項としているために、国家主義者と批判されるのが定番だった。しかしそうした見方がかなりの部分で疑わしいことが、資料研究を通じて次第に明らかになってきた。

当時ヘーゲルは当局による監視を受けており、あまりおおっぴらに自由な国家について論じていては投獄される危険性もあったらしい。以下でヘーゲルは立憲君主制国家を擁護しているが、それはヘーゲルがまさにこうした状況に置かれていたからではないか、とされている。その意味でも、ヘーゲルを単なる国家主義者と決めつけることには、いまではかなりの問題がある。

目下のところ、国家が自由の基本的な条件であり、国家を否定したところに自由が現れると考えることは本末転倒だ。ただし、このことは、国家が自由の最高段階だということには、必ずしも直結しない。むしろ現代においては、国家間の協調、利害調停の制度も私たちの自由の本質的な条件だ(第二次大戦後にドイツとフランスの対立をいかに抑制できるかという問題意識から出発したEUは、まさにそうした試みのひとつだと言えるだろう)

ともあれ、ヘーゲルによれば、国家には2つの本質的な側面がある。ひとつは国内体制であること、もうひとつは対外主権であることだ。

国家には2つの側面がある。1つは国民に対する国内体制であること、もう1つは他の国家に対する対外主権であることだ。

国内体制としては、国家は立法権、統治権、そして君主権をもつ。

ここからヘーゲルの想定している国家が立憲君主制国家であることが分かる。しかし立憲君主制であることは国家の本質ではない。それは共和制や民主制でもありうるからだ。

立法権は最高決定者としての君主、審議、そして議会を本質とする。

議会の役割は、国家が行うべきことを明確化し、さまざまな人びとの見解を公衆全体の意見として表明することにある。さらに重要な役割として、人びとが政治の問題について自分の意見をもち、それを表現する機会を与えることにある。そのようにして表現されるのがいわゆる世論だ。

統治権には、司法権と福祉行政権が含まれている。これは公共の利益を市民社会のうちで確保するために用いられる。

統治権は官吏と枢密院によって代表される。国家の統治は官庁に組織化・分業化されねばならず、そうした職務に就く権利は各市民に開かれている。そして、そうした職務に就く閣僚や官吏が、いわゆるエリート層の主要な部分となる。

最後に、君主権は国家の統一性(一体性)を体現する。国家の総体性は君主によって統合される。君主は一人の個人でなければならず、その個人は生まれによって君主になるように定められている。

次にヘーゲルは、国家のもうひとつの側面としての対外主権について論じる。

国家の独立は国民の第一の自由である。国家は本質的に他の国家と競合関係にあるので、国民の自由はたえずおびやかされている。

確かに国家間には国際法があるが、法の最高段階は国家なので、国際法は基本的に「かくあるべし」によって支えられる以外にはない。

また個々人は国家の統一性に結び付けられており、この関係を承認すること、つまり国家の自立と主権を維持するために、自分の所有や生命を投げ打つことが義務となる。

戦争は絶対悪でもないし、偶然起こるものでもない。戦争は条件に応じて生じるからだ。国家間の争いは、合意が見出されないかぎり、原理的に戦争によってしか解決されえない。

戦争によって個人は「自由による死」をとげる。とはいえ、万人がそのように戦争の犠牲になるのではない。それは軍人という「勇気の身分」によって果たされる義務だ。この意味で軍人は、みずからの自由を放棄することによってむしろ普遍的な自由を実現するという矛盾を体現しているのだ。

「自由」の哲学者ヘーゲル

ヘーゲルの表現は難解で、かなり読みにくいが、本書のポイントはそれなりにはっきりしている。

ヘーゲルの議論の根本には、私たちが欲求を持つからこそ、自由というものが問題になるという確固とした直観がある。もし私たちに欲求がなければ、自由はそもそも問題となりえない。欲求があるからこそ自由は打ち立てられるべき対象となる、とヘーゲルは考える。

私たちは自分の内側に閉じこもるだけでは満足できず、自分の外側で自由を打ち立てようとする。そこで私たちは、自分の外側へと欲求を満たしてくれる対象を手に入れようとする。

ただし、ここで次のような問題が生じてくる。

ヘーゲルいわく、私たちは自分の欲求を、他の人びとから「いいね!」と評価される対象への欲求へと変化させていく。しかし「いいね!」と評価される事柄は、基本的に稀少性によって特徴づけられる。それゆえ人びとの間には、高く評価される対象を奪い合うという闘争状態の可能性が潜在的に残り続けてしまうのだ。

こうした闘争状態を解決するための社会制度として、ヘーゲルは福祉行政や司法制度を提示している。それらはあくまで対処療法的に要請されるものだが、それらの内在的な意義は、主に以下の2つにあるように思う。

1.「人格の相互承認」を維持するために不平等・格差を是正

ひとつは「人格の相互承認」を推し進めるための具体的な方法を実行することだ。

ヘーゲルが論じるように、私たちが自由をお互いに享受するためには、所有を相互に承認する必要がある。そのための条件が「人格の相互承認」だ。

ヘーゲルが言うように、市民社会は基本的に能力原理にもとづいているので、放置しておけば人びとの間の格差は拡大せざるをえない。政府は格差が人びとにとってアンフェアにならないよう絶えずチェックし、必要であれば是正措置を行わなければならない。

格差について私たちはしばしば、それが善か悪かという仕方で問いを立ててしまう。適度な格差が望ましいとか、格差は根絶されるべき悪であるとかいうように。ここまで極端でなくても、私たちは格差についてそれなりのイメージをもっている。

しかしヘーゲルからすれば、格差を善悪の水準で問うことは、そもそも問いの立て方を間違っている。それは原理的に答えの出ないものであり、いわばカントのアンチノミーのような問いだ(『純粋理性批判』)。なぜなら格差は善悪の問題ではなく、正当性の問題だからだ。「人格の相互承認」の原理に反するような格差は取り除かなければならないし、そうでなければ格差は取り除かれる必要はない。きわめてシンプルだ。

たとえば大人と子供の間には与えられる権利に大きな違いがある。大人は結婚できるが子供はできない、大人はタバコを吸えるが子供は吸えないというように。この格差の正当性はどこにあるかというと、基本的に市民社会では、個人は成人をもって、他者を自由な人格として承認できるだけの能力が備わっていると判断される点にある。もしそれが出来なければ(たとえば犯罪を犯してしまえば)、それに見合った責任を取らねばならず、またそうすることができること。これが大人と子供に権利的な差別を設けることの根拠だ。

2.相互承認ゲームをもっと多様化

もうひとつは、「いいね!」と評価される事柄の幅を広げることだ。

お金を稼ぐための能力や仕事だけが高く評価されるような社会は、多くの人々にとって息苦しく、生きづらい。なぜなら経済活動は人びとを一握りの勝者と数多くの敗者に分断せずにはいないからだ。

多様な営みが「いいね!」と評価される条件を整えること、これが多くの人が自分の自由を実感できるようになるための基礎条件を向上させるために必要となる。ヘーゲルの議論はこのことを私たちに教えてくれる。

近代哲学は自然を対象化し収奪可能なものとした人間中心主義、あるいはエゴイズムを肯定してきた、と批判されることがある。しかし、そうした批判は、近代哲学者たちが何を言わんとしているかに着目して、彼らの議論を順を追って見ていけば、決して出てくることはない。

倫理の問題を考えるためには私たちの関係性、もっと言えば「私」自身から出発しなければならない。その外側から恣意的に倫理の規準を持ち込むことが、必然的に、どれが真の規準なのかをめぐる解決不能な対立を生み出してしまうことを、ヘーゲルなどの近代哲学者たちは深く確信していたのだ。

法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)
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