ヘーゲル『法の哲学』を解読する(1)

いますぐ概要を知りたい方は、こちらも読んでみてください → ヘーゲル『法の哲学』を超コンパクトに要約する

『法の哲学』Grundlinien der Philosophie des Rechtsは、ドイツの哲学者G・W・F・ヘーゲル(1770年~1831年)の著作だ。1820年に発表された。

「法の哲学」と聞くと、なんとなく法律についての哲学を考えてしまいそうになるが、ここでいう法とは、権利とか正しさ(ドイツ語でRecht、英語でright)のことを指している。

つまりヘーゲルのいう法の哲学とは、正しさ(よさ)の哲学のことだ。

本書でヘーゲルは、法権利(正しさ)の本質を規定し、それにもとづいて自由の本質論を展開している。なので「法の哲学」といっても、ヘーゲルは現代の法哲学が扱っているテーマとはかなり異質なことを論じていることは、頭の片隅に置いておいてほしい。

「ヘーゲルなんて古いでしょ?」…いやいや!

ヘーゲル
ヘーゲル

ヘーゲルといえば、いわゆる正・反・合の弁証法や、学の体系の頂点としての絶対知(この理解自体正しくないが)が思い浮かぶひとも多いだろう。「高尚なことを論じているようで、絶対精神とか神とか意識とか訳の分からないことについてあれこれ論じている、結局ただの観念論者だ」とヘーゲルを評するひともいることだろう。

たしかにヘーゲルの体系そのものは、いまではあまりに古すぎる。

でもだからといって、ヘーゲルの議論の一切が古すぎるかというと、それは言いすぎだ。とくに今回見ていく『法の哲学』と『精神現象学』は私たちにいまなお多くの示唆を与えてくれる。

2回に分けて解説します

『法の哲学』は1回の記事で扱うには大きい著作なので、今回は2回に分けて見ていこうと思う。初めは前半部分の「緒論」から「道徳」までを扱い、後半部分の「倫理」は次に回すことにする。

後半はこちらで解説しました → ヘーゲル『法の哲学』を解読する(2)

私たちは道徳と倫理をほとんど同じものとして扱っているが、ヘーゲルでは明確に区別される。「道徳」は普遍的な正しさ(よさ)を個的に求める意志の段階を、「倫理」はその正しさを現実化するための制度を構想する意志の段階を指している、としておけばOKだ。

  • 道徳:普遍的な正しさ(よさ)を欲する
  • 倫理:正しさを現実化するための制度を構想

本書の細かい箇所に関しては今日でも議論が行われているが、ポイントをつかむだけであれば、それほど難しくはない。なのでここでは中心軸を取り出す読み方に徹してみたい。

緒論:法の本質=自由

ヘーゲルは、哲学の出発点をどこに置くべきかということを強く問題とする。そのことは『精神現象学』や『大論理学』によく表現されているが、本書も例外ではない。ヘーゲルは本書の緒論で原理的な考察を行い、それに基いて具体的な議論を展開している。なので本書は、最初が一番難しく、後ろに行くほど読みやすいという仕組みになっている。緒論は特に抽象的で、かなり読みにくいが、ヘーゲルのポイントを受け取るためには、彼が何を原理として示しているかを把握する必要がある。ここを分からないからといって流してしまうと、本書が言わんとすることを根本的に誤解してしまいかねない(とりわけ「倫理」の章の「国家」について)。

私は本書で自由な社会を構想する(自由の原理論を展開する)

ヘーゲルは初めに、法の根拠が自由な意志にある(意志の自由が法の原理である)という命題を置く。そしてこれにもとづき、法の体系とは、自由の王国が実現した状態の構想であるという。

つまりヘーゲルはここで、自由の原理論を展開すると宣言しているのだ。

法の地盤は総じて精神的なものであって、それのもっと精確な場所と開始点は意志である。これは自由な意志である。したがって自由が法の実体と規定をなす。そして法の体系は、実現された自由の王国であり、精神自身から生み出された、第二の自然としての、精神の世界である。

ここでいう「自由の王国」は、あくまでも構想だ(ヘーゲルがわざわざ精神の世界と言っているのはそのためだ)。なので「この社会で万人が自由を享受できているとはいえない。ヘーゲルは間違っている」といった批判は妥当ではない。もしヘーゲルが、現実の社会がすでにそうした社会として存在していると考えていたのなら、わざわざ精神の世界と言わずに、自然の世界と表現していたはずだからだ。

自由な意志

とはいえ、ここだけ読んでもほとんど意味不明なので、まずはヘーゲルが「自由な意志」をどのように規定しているかについて見ていこう。

初め、意志は直接的で自然的であり、ただ自分の内面においてだけ自由である。

このとき意志は衝動や欲求として存在している。と同時に、意志は自分がそれらによって規定されていることを自覚している。

この段階での自由とはいわゆる「恣意」のことだ。恣意のうちには衝動や傾向がうずまき、それらの善悪を客観的に判断することはできない。

そうした恣意が自分の自由を現実のものにするためには、思考によって自己の内面を反省的に捉え、「幸福」の観点から、衝動と、それを充足するための手段を吟味・検討する必要がある。意志はそうすることで、恣意としてのあり方を超えていく可能性があることを知っているのだ。

ただし、そのためには、思考が普遍性を獲得していなければならない。思考が普遍性を得るためには、教養が必要となる。なぜなら教養によって陶冶されなければ、自分の幸福が何なのか捉えることもできないし、本質的な自由を現実へともたらすこともできないからだ。

もろもろの衝動に関係する反省は、これらの衝動を表象し、見積もり、これらの衝動をたがいに比較する。つぎにこの反省はまた、これらの衝動をその充足のいろいろの手段や結果などと比較し、そして満足の一全体—幸福—と比較する。それゆえ、反省は、このような素材に形式的な普遍性をもたらし、こういう外面的な仕方で、この素材の生で野蛮な状態を純化する。このように思惟の普遍性がすくすくと生えてくることが、教養の絶対的な価値である。

意志の原動力は衝動・欲求である。意志は、そのままでは、ほんとうの意味で自由ではないことを知っている。そこで、思考によって欲求を吟味し、それが自分に幸福をもたらすかどうかを検討する。そのために必要なのが教養である、とヘーゲルは論じる。

この点からすれば、欲求と教養が私たちの自由の根本的な条件ということになる。

このヘーゲルの直観はなるほどと思わせる。

確かに私たちは、自分がしたいと思っていることをするときには、それを自由に行っていると思っている。別に誰かに強制されたり、そうするよう仕向けられたりしているとは考えない。対して、やりたくないことをするとき、例えば学校や会社に行きたくないが、その気持ちを我慢して向かうとき、私たちはそれを強制や束縛、または責務と考える。それと同時に、やりたくないことでも、それが自由となるために必要なことを知っていれば、ダラケたい衝動をガマンする。このことは自分自身の経験を内省すれば簡単に取り出せるはずだ。

このように、自由は欲求との相関関係のうちで現れてくるものだ。もし欲求が無ければ、私たちがそもそも自由を目指すことはないだろうし、欲求を具体的な形へともたらせなければ、また、単に衝動に任せているだけでは自由を実感することはできないだろう。

自由は社会的な関係性のうちで結実していく

以上を踏まえて、ヘーゲルは、社会的な現実(=現存在)が人びとの自由を実現している状態が法権利(正しさ)の理念つまり本質である、つまり法の内実は自由である、と規定する。

およそ現存在が、自由な意志の現存在であるということ、これが法ないし権利である。—法ないし権利はそれゆえ総じて自由であり、理念として有る。

ヘーゲルによれば、自由の本質は、展開の段階に応じて独自の法権利をもち、その法権利は社会的な諸形式を取って現れる。具体的には、所有、契約、道徳、家族、市民社会、国家がその形式だ。

意志の自由は、所有を初めの手がかりとして次第に実現していく。初めの法権利は所有であり、これは最も抽象的な自由として現れる。そして国家に達したとき、自由は完全な現実性にいたる、とヘーゲルは言う。

ヘーゲルは自由を意志の内側での現象と見なしたのではなく、私たち一人ひとりの個的な意志を起点として、社会的な関係性のうちで実質化していくプロセスだと考えた。これはヘーゲルの自由論の重要なポイントだ。

ただし、後半で確認するように、国家を自由のプロセスが到達すべき最後の段階としているからといって、ヘーゲルを国家主義者と見なすのは、あまり適切な見方ではない。

この点に関しては、日本のヘーゲル研究者による実証研究を通じて、近年明らかにされてきた(容易に入手できるものとして、福吉勝男さんの『使えるヘーゲル』などがある)。

『法の哲学』を著した当時、ヘーゲルはドイツの首都ベルリン大学の教授だった。現在ほどではないにしろ、自分の発言が学問だけでなく社会的にも大きな影響力をもっていることをヘーゲルは意識しており、発言次第ではプロイセン政府から迫害を受けるかもしれないと感じていた(政府にとっては、近代国家としての外的地位を確立することが優先されるべき課題であり、自由を押し出すヘーゲルは目の上のたんこぶになり始めていた)。そのような事情のもとで、ヘーゲルは妥協し、立憲君主制を容認するほうになった。そのように福吉さんは主張している。

福吉さんの議論はそれとして、『法の哲学』の「国家」の節を読んでみると、確かに、概念の論理的展開をものすごく大切にするヘーゲルにしては、どこか独断的な印象を与える書き方になっている。立憲君主制が自由に背反する可能性があることに気づかなかったのだろうか?それは少し考えにくい。推測の域を出ないが、ヘーゲルの議論の流れに照らし合わせても、私には福吉さんの言い方に妥当性があるように思える。

1.抽象的な法権利:「人格の相互承認」が自由の根拠

ヘーゲルは私たち一人ひとりの意志を人格と呼び、これが抽象的な法権利の原理に置く。そして、この原理に基づいて法権利は社会的に展開していく、と考えた。では、そのプロセスはどのようなものだろうか?

ヘーゲルによれば、その第一段階は「所有」だ。ヘーゲルはこれを、自由が社会的に展開していくプロセスの先頭に置いている。「所有は個人的なものでは?」と思うかもしれないが、ヘーゲルからすれば、これは他者との関係のうちでしか成立しないものだ。

「人格の相互承認」

ヘーゲルによれば、このプロセスにおいては「人格の相互承認」が必要となる。

法権利は、私たち一人ひとりが人格として相互に承認しあうことを求める。それが法権利の基礎だ。

人格性は総じて権利能力をふくむ。そして人格性は、抽象的な、それゆえに形式的な権利ないし法の、概念およびそれみずから抽象的な基礎をなしている。それゆえ権利ないし法の命令はこうである—一個の人格であれ、そして他のひとびとをもろもろの人格として尊敬せよ。

この「人格の相互承認」が、法権利の最も根本的な要求だ。私が自分の自由を実現するためには、他の人びとの人格をそれとして認め合う必要がある。これが自由が現実にもたらすための根本的な条件だ、とヘーゲルは考える。

法的人格として共に等しい存在であることを認め合う

人格の相互承認と言われると、互いに心と心でつながること、という響きがあるかもしれないが、ヘーゲルのいう人格とは法的人格Personのことを指している。

私たちは各人が出自や財産で差別されることに対して「これは不当だ」という感覚をもつ。誰だって「今日から華族制を復活します」と言われたら、それはおかしいだろうと思うはずだ。しかしそれはある意味“身体化”された反応であって、必ずしも原理的とはいえない。

なぜ各人は人格として平等であらねばならないのか?ヘーゲルの考え方を追ってみると、大体次のような感じだ。

私は内的にうずまく欲求を教養によって陶冶(とうや)することによって、これを自由へと結びつけようとする。しかしこれは私だけではなく、他者にとっても当てはまる。であれば、自由が社会的な関係性のうちで実現していくプロセスである以上、他者もまた私と同様に、欲求を自由へと結びつけようとする存在であることを相互に認め合うことが社会の根本的な理念とならなければならない。

これが「人格の相互承認」のポイントだ。

人格の相互承認にもとづく所有

以上の議論は、次のような仕方で展開していく。

初め人格は抽象的な自由をもっているだけにすぎない。そのことを自覚した人格は、自分の自由を現実にするよう促される。

そこで人格は、自分の外側にあるものを自分のものにすること、つまり欲求にもとづいて「占有」し、それを「所有」することで、自由を獲得しようとする。

占有と所有の違いは次のように言い表せる。

まず、占有には偶然性がある。つまり占有は「早い者・強い者勝ち」の原理に従う。したがって占有を自由の基礎とみなすことはできない。それに対して、所有は契約を核とする。これはつまり、所有が他の人たちによる認識=承認のうえに成り立っていることを指している。所有には他者が私の所有を私に属するものとして承認しているという契機が含まれている。その意味で、所有こそ自由を現実にもたらすための本質的な条件である。

所有は意志の現存在としては、他のものに対してといってもただ他の人格の意志に対してのみ存在する。意志と意志とのこの関係は、そこに自由が現存在をもつところの、独特かつ真実の地盤である。

ヘーゲルは、自由が実現してゆくプロセスの原点には、欲求の存在があると考えた(「意志は第一に欲求・衝動として存在する」)。

私が欲求を実現するためには、享受するための対象を手に入れる必要がある。私はそれを手に入れる(占有する)。しかしただ単に持っているだけでは誰かに奪われかねない(偶然性がある)。そこで占有と、占有が帰属するところの人格を、互いに承認しあう必要がある。このプロセスで「契約」が必要となる。その対象が私のものであり、相手のものではないことについて、相互に合意し認め合うこと、それがヘーゲルのいう契約のポイントだ。

欲求の対象を手に入れ、他者からそれが私のものであることを承認してもらう。そして同様のことを他者に対しても行う。こうした人格の相互承認が、自由がそれにもとづいて社会的な規模で展開してゆくための確固たる基盤となる。そうヘーゲルは言うのだ。

上で引用したように、ヘーゲルは、「意志と意志とのこの関係は、そこに自由が現存在をもつところの、独特かつ真実の地盤である」と言っていた。これを簡単に言い直すと、自由は私と他者との相互の関係性にもとづいて初めて現実のものとなるのであって、この関係性なくして自由を実質的なものとすることはできない、ということだ。

つまり、ヘーゲルによれば、他者は私の自由をおびやかしてくるような存在でありうるとともに、私の自由にとって必要不可欠な存在でもありうるのだ。

カントと比較すると…

ヘーゲルのこうした見方は、哲学史上とても画期的な見方だ。

たとえばカントは、自由は個人の理性のうちから要請されるものと考えた(『実践理性批判』)。人間は傾向性(さまざまな欲求)からは自由ではありえない。したがって道徳的な行為が可能となるために、自由が要請されなければならない、と。カントのなかでは、自由は欲求の克服によって初めて成立するようなものだった。

しかしヘーゲルは、欲求を自由に対立させることはしなかった。欲求が実質的な自由の第一歩であるから、問題は、「エゴイズムの相克」を生じさせずに、互いに自由を享受できるような社会の原理を提示することにある。そうヘーゲルは考えたのだ。

2.道徳:普遍的な正しさを目指す意志

自由が人びとの間で展開していくプロセスは、「人格の相互承認」を出発点とする。

ただし、そのプロセスが実際の場面に置き入れられても、ダイレクトに自由な社会の実現へと結びつくわけではない。私たち一人ひとりの意志は自分の正しさを他者との関係性のうちで確かめようとするが、それは結局のところ失敗してしまい、普遍的な正しさに到達することはできないからだ。そうヘーゲルは考える。

このように、普遍的な正しさを目がけて現れてきた意志の新しいあり方を、ヘーゲルは「道徳」と呼ぶ。私たちが普段使う意味とはかなり異なるので、誤解しないよう注意が必要だ。

人格の相互承認を破るとき、私もしくは他者は、相手の所有を侵害しており、「犯罪」を行なっているのに等しい。

被害をこうむった相手は、その犯罪を否定する、つまり報復を行う。これは国家が成立していない場合では復讐として行われる。そして、この復讐に対して新たな復讐が行われ、それに対して…というように、復讐は終わりのない闘争へと至ってしまう。

つまりここでは、正しさをめぐる信念対立が生じてしまうのだ。そうした対立のうちで意志は、自分自身を反省的に捉え、自分の正しさが普遍的な正しさであるようにめがける。なぜなら意志はここで、普遍的な正しさを捉えることができれば、相手の正しさに勝利することができると信じているからだ。

こうした意志、すなわち一個の個別な意志でありながらも普遍的な正しさを求めるような意志のあり方を、私はここで「道徳」と呼ぼうと思う。

道徳的な意志は、自分自身のうちで正しさを確証しようとする。したがってそれは主観的な正しさのうちから出ることができないので、実質をもたない形式でしかない。

また、道徳的な意志は世界の正しいあり方を求めるが、それを実現する手段をもたないため、ただ主観的に「世界はかくあるべし」と要請することしかできない。

とはいえ、意志は自分ひとりで正しさを確証することができないことを知っている。

そこで意志は、他の人びとに対して行為することによって、自分の意図や目的の正しさを確証しようとする。そのとき意志は、必然的に「万人の福祉(幸福)」を目指さざるをえない。なぜなら道徳的な意志は、自分の幸福だけでなく、万人の幸福が満たされることが、より普遍的に正しいことを確信しているからだ。

だが「万人の福祉」の概念もまた、空疎で実質をもたない。そのことは自己防衛権(危急権)の存在が象徴的に示している。もし他人の所有を侵害することなしに私の生命が危機にさらされるとき、私はそれを行うことができる。これは結局のところ、絶対的な「万人の福祉」は実現不可能であり、福祉は何らかの限定を受けたものとしてしか実現できないことを示している。

ロマン化された善をめぐって

トマス・アクィナス
トマス・アクィナス

道徳的な意志は、たとえば「不平等を絶対に無くさなければならない!」「世界から一切の貧困を無くさなければならない!」と燃え上がり、善をロマンとして味わう。

善のロマン化は、近代になって初めて見られた動きだ。近代以前、ヨーロッパではキリスト教の権威が支配的であり、善はつねにキリスト教と結びついていた。中世スコラ哲学の中心人物であるトマス・アクィナスは『神学大全』で、一切は神の被造物であり、善という点において神に類似している(存在のアナロギア)というように論じていた。

社会は神を中心とする善のネットワークであり、これは太陽を中心として惑星が軌道を描く太陽系とほぼ相似形をなしている。人間は神の影響に包括されており、人間の理想は神の恩寵により、その秩序のうちで、神の意志が教える通りに生きることにあった。

ヘーゲルは、キリスト教の権威が凋落した近代において、神はもはや善の根拠とならないことを直観する。人間の意志は、条件を満たせば、みずから進んで善を打ち立て、これを目指すべき目標として理念化する。善もまた、自由の歴史的な展開とともに、その本質を大きく変えるのだ、とヘーゲルは考える。

ここで重要なのは、道徳的な意志は、善を理念として打ち立てるが、理念を現実へともたらすためには一定の条件、具体的な制度が必要であることを了解していない点にある。ヘーゲルは次のように言う。

道徳的な意志は、「不平等や貧困を無くすためには、どのような社会原理が必要なのか?」という点になかなか考えが至らないことだ。そこで意志は、それらの問題を解決することが「みんなの幸せ」(万人の幸福)につながるのだ、という論理によって、自分の理想を人びとに認めさせようとする。「お前は『全ての人びとに平和と幸福を』という理想を認めないのか?それはどう考えてもおかしいだろう」、というように。

しかし実のところ「万人の幸福」という概念は空虚であり、実質を欠いている。一切の人びとにとっての幸福というものは、原理的に見て、実現不可能だからだ。ここでいう「一切の人びと」とは本当に一切の人びと、たとえば自分に危害を与えようとするようなひと、つまり「人格の相互承認」という社会の基本理念に反するような行為を行うひとをも含んでいる。それは容認することはできない。それゆえ、まさしく万人にとっての幸福なるものは実現することができない。道徳的な意志の欲求と異なり、幸福は本質的に、限定を被ったものとしてしか実現することができない。

ここから、「良心」と「イロニー」という2つの契機が現れてくる。

善とは、自由が完全に実現された状態のことを指している。これは誰もが自分の所有をもち、自由を手にしているという理念的な状態のことだ。

この状態を目標とするのが良心だ。良心とは、「絶対的な正しさ」が存在しないことを知りつつもなお善を実現しようと意志する、ひとつの絶対的な自己確信のことを指している。

これは私たちの意志が到達する最終的な局面だが、「私の心がけ」以上のものではない。それゆえ良心は普遍的な善をめがけることができるが、その目がけている善が実のところただの思い込みでしかない、ということもありうる。その場合、良心はただの恣意でしかない。そのことに無自覚的な場合、この恣意は偽善という悪になる。

他方、善の主観性をむしろ積極的に推し進める意志は「イロニーの精神」と呼ぶべきものだ。これは「どうせ普遍的な正しさなんてありえない。自分が正しいと思うことが正しいのだ」と考える態度のことを指している。

ここで気をつけておくべきは、ヘーゲルのいう偽善やイロニーは決して例外的な状態ではないということだ。意志が絶対福祉を実現できないことを了解したとき、それまで普遍性を信じてマジメに育ってきた意志は、善から裏切られたように感じてしまい、イロニーへと入り込んでしまう。ヘーゲルはこれを、私たちの意志が一般的に辿る過程のモデル、範型として描き出しているのだ。

このヘーゲルの直観には確かに納得させられるところがある。私たちは時として、善をめがけていたはずなのに、実はそれが自分の独りよがりでしかなかったことに気づいたり、善に挫折した結果、自己の内面のうちに正しさを確保しようとしたりする。一方では、「この世の中は間違っている!改革されなければならない!」という直観のもとで、社会運動に身を投じるひとも少なくない。

「その理想は本当に確かめられたものなのか?それは単純に君が正しいと思い込んでいるだけなんじゃないか?」道徳の段階における正しさには、こうした独善性が本質的に含まれている。だが、ヘーゲルいわく、私たちの意志は独善性の水準には留まらない。道徳の次に現れてくる「倫理」の段階において、独善性を調停しつつ、善を他者と共有し、それを具体的な制度へと落とし込む段階へと進み出ていく。そうヘーゲルは考える。

法の哲学〈1〉 (中公クラシックス)法の哲学〈2〉 (中公クラシックス)

後半はこちらで解説しました → ヘーゲル『法の哲学』を解読する(2)